見出し画像

山口県長門に移住する(81): 放逸を考える

スイスとイギリスに
暮らしていた頃、
マインドフルネスに
凝った時期がある。
 
瞑想や仏教に関する本を
片っ端から読んで、
マインドフルネスの
セミナーや合宿にも
たくさん参加した。
 
長い間、
何も考えない境地にいたる
メディテーションは、
私の日課だった。

今は、やっていない。

禅宗の瞑想は
このメディテーションに当たる。

仏教学者の
宮元啓一氏は、
それは、「道元の美しい誤解」
と、揶揄する。
  
宮元啓一氏は、
「完全な智慧を得るためには、自らの実存である倫理的な生存の在り方にまつわる、全ての経験的な事実を徹底的に観察し、考察しつくさなければならない。その為の瞑想。思考停止の瞑想ではなく、徹底的に思考する瞑想でなければならない」(「仏陀が考えたこと」)、という。
 
徹底的に
現状を観察して、
徹底的に
思考する、
それが本来の瞑想。

メディテーションは止めたけど、
この本来の瞑想が日課になった。

未だ未だ、上手くできないけど。
 
「考える」という行為は、
たくさんの
勇気と体力を必要とする。
 
今、起こっていることを
徹底的に観察すると、
自分について
認めたくないことが
嫌でも見えてくる。
 
下らないことや
意地悪なことを
グルグル考えている
自分にぞっとする。
 
楽をしようと
している自分に
ハッと、する。
 
タイヘンでツカレル。
 
でも、勇気を出して、
忍耐強く、
丁寧に考えたら、
よく生きるための
智慧が得られる。
 
反対に、
過去や未来のことに
捕らわれて、
「今」から逃避すれば、
進化するどころか退化する。
 
考えると
思い巡らすは、
真逆の行為なのだ。
 
仏教で言う
「放逸」と「不放逸」
に当たる。

放逸は、
今、目の前にある
美しい物や出来事、
日常の奇跡を隠してしまう。
 
シアワセの芽を、
摘んでしまう。
 
何故、
こんな話をするかというと、
「放逸」が、
ずっと疑問に思っていたことへの
答えをくれたから。
 
素晴らしい生活環境の
スイスで暮らしていたときも
生活の質がとびっきり高い
この長門湯本でも、
不幸で不機嫌な人はいる。
 
何故だろう?
と、ずっと疑問に思っていた。
 
もちろん、
誰だって、大変な時はある。
私だって、腹を立てることもあれば、
機嫌の悪いときだってある。
 
でも、
常に、不機嫌な人がいる。
そして、他者をいじめる。
 
「こんな、素晴らしいところに
住んでいるのに、どうして?」
と、不思議に思ってた。
 
「放逸」だったのだ。
 
今、目の前にある、
有り難いことからも、
自分の課題からも、
目を背ける。
 
不満が溜まる、
誰かにぶつける、
あるいは、病気になる。
 
瞑想は、
「今、ここに」
向き合って、
Awareness(気づき)を
もたらしてくれる。
 
気づく→考える(智慧をつける)→行動を起こする(智慧を実践する)
その為にある。

思考停止の
「空」ではない。
 
ここまで読んで下さって
ありがとうございます。

この暑いのに、
暑苦しい話で
失礼しましたm(__)m

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?