10/15 体調不良は自分をしるチャンス
今日は
「私や誰かの原理原則を1つだけでも知る1日にしよう」と決めた。
次男たつと末っ子はるは、発熱している。
発熱していてけだるそうなのだが、
意識が妙にくっきりしていることがある。
体調不良の時は、思考力が低下するから、本心が出やすい。
自分と向き合う時も、思考が静かになりやすいので、
自分の魂に問いかけやすい。
(また、子供たちをみていると、『発熱=何らかの進化のサイン』であることが多い。解熱後、言葉が話せるようになるとか、自分の自我がよりはっきりするとか、状態に変化がある。)
次男たつは、普段言葉少ない。
私がたつ自身の心の動きに関心を持っていない時期も長かったから、
話しても無駄だろう、とすねて居たり、自分のことについて聴かれ慣れて
いないから、言葉が紡ぎづらい部分があるのだろう。
今回「横で一緒に寝ようか?」と聞くとうなずいたので、
たつに添い寝する機会があった。
その時に「たつ、2人で寝るのって、かなり久しぶりだね」と声を掛けると
「うん。だって、はるが生まれてから、絶対にはるが康子の横に潜り込んでくるから、俺はむねじとばっかり一緒に寝てたよ。」と、すらすらと話した。
「たつ、たつだって康子の横で寝たいときもあったのに、それは寂しかったね。はるのためだと思って、譲っていたんだね。」
(たつうなづく。嬉しそう)
ぽんこつの親としては、たつの発熱は、
こうしてたつの感じていることに触れ、寄り添う機会にもなった。
と同時に、普段、たつがこちらからの投げかけに対して、
あまりにも言葉少ない状態であることに、いらだつ自分がいる。
「私はいらだっている」ことを伝えつつ、
たつに関心を投げかけず、そのように関わり育てたのは自分だと知る。
そんな自分を受け入れたくなくて、いらだっている自分がいる。
愚かで人を蔑ろにする自分を受け入れたくない。
この「人を蔑ろにする自分」は、
「自分が期待したように振舞ってほしい、と勝手に期待をかけていた相手が、長らく私の期待通り振舞わなかった」ことを、
「私は愛されていない、不当な扱いを受けることの多い人間だ」とすり替え、「他者にも同じことをして仕返しをしよう、もしくは、仕返ししたくなる衝動を我慢しよう」と考える、過去の自分だ。
あー。
私って、他人に対しても自分に対しても、期待の多い人間なのだな。
あと、すぐ「愛されてない」とか「不当な扱いをうけた」とかいう結論に達する。短絡的だ。
「自分は愛されていない、不当な扱いを受けている人間なんです。」
と振舞うことが、かつて、人からの関心を得たがっていた私が、
人が私に関心を持ったと感じた最善の結論だった。
だったら、どんな期待を、自分にも他人にもかけているか知ったらいい。
そんでもってまずは、自分が自分の期待に応えたらいい。
自分にかけている期待をしることで、自分のちょうどいい生き方だったり、実はこれは無理してやっていることだと知ったり、自分の本来の欲求について知ることに、関心が出てくるからだ。
そして、今日の自分は、自分に対して誇らしい自分でいることが幸せだ。
他者からの意見や視点は、すべて、観えていない、もしくは受け入れがたくて観ないことにしている自分自身に気づくため。
今日も、たつから学んだ。
はるは「いまはしんどいから寝ておくね」「りんごジュースが欲しい」「今は何も飲みたくない」など、「自分がこうしたい」を、いつもよりはっきり言うことが多かった。
それから「あのねー、ジャイアンってね、オレンジジュースとどらやき食べたらね、かいじゅうになっちゃうのー!」と、超絶高熱の時に目を輝かせて言ってきたことが微笑ましかった。
あと、話すときの表情がとてもはっきりしたので、頼もしさも感じる。
成長って、なんて希望を感じる瞬間のだろう。
原理原則を1つでも知る、という今日の私で得た原理原則は、
「感じていることはとてもシンプルで、エネルギッシュで、話が早い」ということ。
体調不良の時は思考が低下するので、自分自身が感じていることに
触れるいい機会だ、と、今回の子どもたちの発熱で実感する機会になった。
また、今日知った「原理原則」の1つも、さらに研ぎ澄まされたり、
私の新たな発見と共に刷新されていくのだろうと思うと楽しみ。
すべて起こることは「自分自身にとってなんの機会なのだろう?」と
問うてみると、人生ウキウキする時間が増えた。それがとても嬉しい。