「多様性」という言葉と向き合えない私と向き合ってみる
皆様は「多様性」という言葉をどう捉えていますか?
この令和の時代、特にSNSと共に生きていると、この言葉を目にしない日はないなと感じています。
私は正直この「多様性」という言葉について考えることが、誤解を恐れずに言うと、あまり得意ではなく、出来れば避けたい話題でした。
なぜ私が「多様性」という言葉について考えることが苦手なのか、そしてなぜそれに向き合おうとしているのか、記しておくのにこのnoteという媒体が適切なのかはわかりません。
そして、まだ数行しか文字を打てていない状態なのに、盛らずに100回以上は自分の頭に浮かんできた言葉を書いては消してを繰り返しているくらいには、これから自分の考えていることや想いを書くのにビビり倒しております。
早速こんな感じで、自分でも自分に大丈夫か?と心配になっているのですが、今回は「絶対このテーマについて書くぞ。」と意気込んで、珍しくタイトルをガッチリ決めてからこの記事に対峙しているので、書くったら書きます。
発信のリハビリテーション
これは自分の為に前置きしておきたいことといいますか、これを伝えておかないと安心して筆を進めることが出来ないと思ったので、「おまもりなんだろうな。」と認識してさらっと読み飛ばしていただいのですが、私はこのnoteに着手するまでの数日間、実は自分の指から言葉を発信することが怖くなってしまっていました。
なのでここから書く文章は、私の発信のリハビリでもあります。
決して誰かを傷つけようとか、何かに対して苦言を呈そうとか、そんな負の感情ではないことを頭に置いていただいた上で、もしお時間がゆるしましたらここから先は読み進めていただけますと幸いです。
想いを何に落とし込もう
今、誰かがSNSに発信した言葉は、世界中の誰の目にも触れることが出来ますよね。
私個人の些細な発信が世界に何か影響を及ぼすなんて、そんな大それたことを考えてはおりませんが、何かの物事に対して、自分の頭の中にあることを言葉にして表現するということは、とてつもなく大きな責任が伴う行為なのだと感じてはいます。
これは私が他人に言われる言葉に一喜一憂をしやすいタイプだから、尚更強く感じていることなのかもしれませんが、人間は誰かの些細な一言で、天国にも行けるし、どん底の地獄を味わうこともあります。
それでも人間は言葉という手段でしか、自分以外の誰かに想いを伝えることは出来なくて。私はこのことについて深く考えてしまうと、とても強い孤独を感じてしまいます。
例えば、目の前にとても綺麗な景色が広がっていて、それが強く私の心を動かしいているとします。私はその心や体で感じている刺激や鼓動の感触を、言葉という手段を用いても1ミリも違わない完全な状態では誰かに伝えることが出来ないのです。どんなに多くの言葉を駆使しても、決して感じたまま、同じ形では感じてもらうことが出来ないのです。
それは逆も然りで、どんなに愛する人の喜びや、痛みや悲しみでも、全てを理解することは出来ず、想像でしか一緒になることが叶いません。
だから人は少しでもその孤独を紛らわせる為、誰かと心の形を近づける為に、言葉を用いて対話をすることを辞めないし、それを通して愛し合い、喜びを分かち合おうとしているのではないでしょうか。
けれど、そんな尊い営みの中で誰かを傷つける可能性があるなんて、自分も深く悲しむことがあるなんて、神様どんな罰ゲームなんだよって、たまに思うのです。
私は普段、泳ぎを止めたら死んでしまう魚のようにとめどなく脊髄反射で言葉を発してしまうタイプの人間なので、しばしばリアルタイムの会話の中で誤解を招いてしまい、他者に対しても自分自身にも不健康な状態を生み出してしまった苦い経験も少なくありません。
だからこそ、自分の中でゆっくり考えてから発信できるSNS上くらいでは、出来れば誰のことも傷つけない私でありたいと、根底にはそんなポリシーがあるのだと思います。
考えすぎの境目ってどこですか?
孤独を紛らわせる為に会話をしている、みたいなことを先述しましたが、不思議なことに、このようなことを普段から考えたり話していたりすると、少しの言葉だけで理解してもらえる人たちとの交友関係が自然と深まっていくもので。
(言葉だけでは完全に理解し合えないって書いたのに、少しの言葉で理解してもらえる、似てるって思えるのってすごい矛盾だな〜、と思いつつ書き進めます。)
先日、私の今抱えている発信への不快感のようなものや、今月はこんなnote記事のテーマで書きたいという話を信頼できる広報仲間に打ち明けたところ、「えるこちゃんは言葉に縛られちゃっている気がするから、"頭に浮かんだことをそのまま書きます、推敲もしません”って前置きして全部書いてみるのはどうかな。」と提案をしてもらいました。
なんだその私の性質を汲んでくれた面白い企画は、と即ビビッときて今この記事に挑戦している次第であります。
なので、前置きがとっても長くなりましたが、これは私の脳内垂れ流し日記になっております故、支離滅裂でもどうかお許しください。
セルフブランディングに関する記事なんかも書いちゃってるし、「自分自身のことを上手に表現できるのが凄いね」と言っていただける機会もたまにあるですが、こんな私でさえ、言いたいことも言えないこんな世の中ポイズン。って心の中でしばしば歌ってしまいますし、人には人の乳酸菌があるなあと、ぼんやり考え、悩んでいる訳であります。
自分はどんな色なんだろう
いきなり「多様性」の話に戻りますが、私はなぜこの言葉があまり得意ではないかというと、それってごく当たり前のことだよね?って思うからです。
(当たり前って言葉の捉え方もとても難しいですね。ここで私が言っている当たり前は、当たり前であってくれよっていう願いなのかもしれません。)
あなたと私は違う人間、みんな違ってみんないい、その考え方は標準装備しているので、その言葉についてしっかり考えようと思うとどうしても多様性について考えている人とそうでない人の線引きが生まれる気がして、居心地が悪くなってしまうのです。
しかも、普通とか標準装備とか書いてしまうと、私の頭の中のひろゆきさんが「それってあなたの意見ですよね?」って必ず突っ込んでくるので、何も言えなくなってしまうのです。
その何を言っても不謹慎になりそうみたいなイタチごっこの空気感からも逃れたくて、とにかく避けている話題でありました。
でもこれだけは許せないと受け入れ難い物やこともどうしても生きていれば存在すると思っていて。その認め合うべき価値観の線引きって、一体どこにあるのでしょうか。
全ての多様性を受け入れていたら、自分が何者でもなくなるのではないか。
「何者かになりたい」と思いながら生きているはずが、SNSやPodcastなど、個人の考えを表現する場で、出来るだけ誰のことも否定せず、非難されず、傷つけることのないことを言おうとして、全方位に気を遣った当たり障りのない言葉を放ち続けてしまうと、どんどん自分が小さく消えていってしまいそうな感覚になったり。
多様性への向き合い方の正解ってなんでしょうか?
「私自身はどんな人間なのだろうか。」それを確立してからでないと、飲み込まれてしまう話題なのだろうなと感じているし、私はこれまで実際にまるっと飲み込まれてしまっていた気がします。
多様性と向き合ってみたい
私がそう思ったのは、AAAの與真司郎さんのイベントに参加したことがきっかけでした。
この時伝えてもらった想いや言葉たちが違う形で伝わってしまうのは嫌なので、内容が少しでも気になった方はぜひこちらの動画を最後までご覧いただきたいです。
與真司郎さんはAAAというJ-POPの人気グループに所属している1メンバーであり、ソロでもアリーナツアーをするほど大人気なアーティストです。
私は13歳の頃から、かれこれ15年ほど1番応援し、尊敬している人であり、この私の生きづらい性格で過ごしてきた人生を、その存在に救われてきたと言っても過言ではありませんでした。
そんな大好きな人が、緊張に震え、涙を流しながら自身のセクシャリティについてカミングアウトをしたこと。多様性が受け入れられる優しい世界になって欲しいと、目の前で語っているのを聞いたことで私はとても大きなショックを受けたのです。
沢山の幸せを与えてくれていた存在が、そんなにも生きにくく辛い世界だったのか。私は、そんな世界の一員だったのか、と。
「推し」として勝手に自分の人生の一部だと感じている人が、こうして伝えてくれないと、私はそんなことに気がつけない人間だったのか、と自己嫌悪に襲われました。勝手に私は蚊帳の外の人間だ、当事者ではないという線引きをしてしまっていたことも思い知らされて。
これはサイレントマジョリティーというのでしょうか。差別なんかしない、ありのままの他者を受け入れる。という考えは、その場にいたファンの多くが間違いなく自然に抱いていたものだと、勝手ながら感じていたのですが、そのことを声に出して伝えていかないと、大きな不安を今この瞬間も抱えている人は大勢いるんだということを知りました。
誰にとっても悪者になりたくなくて、「多様性」について考えることを避けていた自分のことが本当に大嫌いになったし、それと同時に、そんな臆病者な自分とも、しっかり向き合っていこうという勇気ももらえました。
普段は声を上げることのない、心の中にあるポジティブなエネルギーを意識して届けること、発信していくことも大切なのだと、このイベントがきっかけで教えてもらえたのです。
私が今、この世界の何に違和感を覚えているのかも上手に言語化は出来ていないのですが、この想いを上手く言葉にして伝えていけるような知識、そして経験を積み重ねていきたいなと思っています。
どんな小さな波紋でも、世界が変わる言葉を紡げる人間になりたいです。
まずその一歩に、惜しみない推しへの愛を伝えていきたい所存です。
さいごに
さて、今月でnoteの毎月投稿が12ヶ月目、つまり1年間の継続を成功いたしました!
私個人として何か文章を書くとしたら、実は書きたいネタ的なものはいくらでもあって。継続の中で1番難しく感じていたのは、「こんな人間だと思われたい」と見栄っぱりな自分とのバランス調整でした。(それと後回し癖ですね。笑)
広報として会社にとってプラスになったり、読んでくださっている皆様にとって有益な情報をお届けしなきゃと強く意識をすると、中々noteに書くテーマについて難しく考え過ぎてしまうのですが、今回はnoteの個人アカウントへの投稿を1年間無事に継続できた自分へのご褒美として、好き勝手なテーマで書いてみました。
こんな感じのえるこも好きだよ、と少しでも思ってくださる方がいましたら、ぜひその声を聞かせていただけると幸いです。
そして、誰かに言葉という不確実な手段で想いを伝えることが怖いと孤独を感じている人に、少しでも寄り添えていますように。
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