リアルにヤバい!このままで良いの?現役大学生が今の日本の「空気」に物申す。
こんにちは!どさんこ大学生RUNAです。
2020年は、誰も予想をしていなかった新型コロナウイルスによって、誰もがかけがえのない大切なものを失い、世界中に大きな不安やストレスが広がりました。
辛い思いをされてきた方とは比べものにもなりませんが、私自身も、小さい頃から志していた海外留学が中止になるなど、将来への不安でどうしたら良いのか怖くて心配な気持ちでいっぱいです。
しかし、コロナ禍の中でエラマプロジェクトと出会いました。大学生という立場で経験したこの状況についてどう思うのか、自分と対話することの大切さを知って救われたと同時に、今まで深く振り返ることのなかった「大学生活」について考える機会が生まれました。
今回の記事を綴るにあたって、私の周りの友人に加え、エラマプロジェクトに参加されている大学生や外国人留学生などに、大学生活に対する疑問や問題だと感じる点などのお話を伺うと、「大学」の本質から日本の教育や社会にまで考えが広がりました。
皆さんは、日本の大学にどんな疑問がありますか?また、どんな問題があると思いますか?
大学生たちのリアルな声を通して、同じような疑問を持っていた!という共感や、それは違うと思うけど?という疑問など「あなた自身の考え」を持ち、感じる機会になれば嬉しいです。
大学への疑問や問題点は何ですか?
まずお話をお聞きしたのは、エラマプロジェクトに参加されている大学生のMさん。彼女は、カナダに7ヶ月間語学留学していた経験から、日本の大学の問題点をこう語ります。
日本の英語の授業では、先生が言ったことをただ覚える方法が多いと思います。
ですが、カナダの授業では先生の工夫、熱量や人間らしさを感じました。また、生徒側も文法ミスとかをみんな全然気にしなかったです。日本だと英語をただ「やっとけばいい」感があって、授業で英語を少し話すだけで、「うわ〜あの人英語出来るんだ〜」みたいな、妬みが入り混じった冷ややかな目があるような気がしてしまいます。これから英語があったら価値観が広げられると思うので、こういった風潮は問題だと感じます。
Mさんが感じる授業への違和感、生徒の価値観というお話から、私は大学の在り方への問題意識を感じました。
大学生たちは、必死に受験や様々なことを乗り越えて大学に入ったはずです。
しかし大学生になると、楽単(単位が取りやすい)な授業を取り、授業をとび(サボる)、自主全休(自ら休む)をする人が多いと感じます。先輩からも楽単な授業をおすすめされ、バイトや遊ぶことを優先して楽しみ、インスタに華やかな写真を投稿している人がリア充(実生活が充実している)だと言われます。
実際、初めはやる気があった周りの友人も、慣れ始めた2年生になると、勉強に身が入らず授業も休みがちになる人もいました。大学の授業を休み、他に関心のあることをしてみるのも大学生ならではとも言えるので、何が正しくて何が間違っているのかという線引きはできません。
では、学生たちは何のために大学に行っているのでしょうか?
「自分ベースの幸せ」でいいんじゃない?宣言
何のために大学に行っているのか?その理由の大半を占めているのは大学を卒業することが「就職するための資格」になっているからだと私は考えます。
中高生の時は良い大学に行かないといけない、大学では良い就職先に就かなければならないという「呪い」が重くのしかかっているような状態です。
東京の大学に通うCさんも
大学3年生で就活をし始めた周りの友人のインスタに「稼げるように頑張る」という決意が載ることが増えていることに違和感を感じました。稼ぐことを頑張るのではなくて、こういう人生を生きたい!というのに到達するための「稼ぐ」であって、稼ぐことをゴールにするのは違うのではないかなぁと思ったからです。でも、そうなってしまうのは今の教育でそれがとても良いことみたいになってしまっているからだと考えました。
小学生の時に「右にならえ」と言われれば全員で同じように移動し、いつも「平均点以上」を求められ、自ら考えることもなくみんなが同じように良い大学や就職先を選ぶ。
空気のごとく漂っている当たり前のこのレールの上から、はずれられない恐怖があるように感じます。
空気を読む
出る杭は打たれる
この言葉たちは普通に使われ、目立つことや少しでも違うことをすれば、私の小学生の頃でもKY、KY(空気読めない)という手拍子で嫌がらせをし、中高生以上になればSNSで仲間外れにされることもあります。
この言葉は当たり前の価値観なのでしょうか?
例えば、収入が高い人は社会的に「幸せな人」と位置付けられ、社会が決めたその幸せの基準をクリアしていなかったら、「不幸な人」だとされることがあります。
日本は2010年からずっと世界国内総生産(GDP)ランキング第3位であり、世界第3位の経済大国といわれています。では、国自体が経済的に世界で3番目に豊かであれば、日本人も世界で3番目に幸せなのか?と考えると、2021年の世界幸福度ランキングにおいては56位だと発表されている通り、幸福な国だとはいえないようです。
身近なことで言えば、大学生になると、インスタが人間関係においても連絡手段としてもさらに重要なツールになります。
ストーリー機能や投稿を通して、自分が何をしているのかを共有することが充実さのアピールであり、当然みんながやっていることと思う人もいます。
そんな中、まったくそういった投稿をしない私は、「私生活が見えない不思議な人」とか「私生活が楽しくなさそう」と思われることも。
“何か投稿しないといけない……” 誰かと遊ぶたび、何かするたびにそう思うことがストレスになっていたため、使うことから離れてはいたものの、私は、私なりに毎日を楽しく幸せに過ごしています。でも、みんなの思う「幸せの枠」からはみ出ていると思われれば、不幸せだととらえられてしまいます。
一般的に、社会的にある幸せの基準が、ひとり一人の幸せを推し量ることはできないんじゃないかなぁとも感じています。
つまり、いま私たちがおかれている状況においては、幸せの基準は「社会ベース」であって、「自分ベース」ではないということです。
でも、自分の幸せが大事だから、社会の基準に従えない!としても、その幸せの基準を支えている世間の力の前であらがうことは難しいと思います。
なぜなら、「社会的な幸せ」の基準からはみ出た人は世間から一斉に非難されて苦しむかもしれません。また、それに当てはまらなかった自分の現実に自らもがき苦しむかもしれません。
このように日本で生きていく私たちには、常に“世間体”が重くのしかかっているように思えます。
「世間」という古い歴史を持つ日本独特のこの言葉が、今なお社会で強い力を持っていることは問題ではないでしょうか?
社会の一員である人たちは、自分に合った幸せな人生を歩む権利があるはずです。社会があらかじめ作り出していた幸せではなくて、ひとり一人に合った幸せを一から思い描くことを認めてくれる社会になったら、みんなが自分ベースの幸せに対して前向きに考えられると思うんです。
そして、自分ベースの幸せを持った人たちが創る社会では、自分色で歩いている人で溢れ、生きやすくなっているような気がします。
社会に変化を起こす疑問
突然ですが、フィンランドの教育の真髄とも言えるのが
Learning not for school – but for life.「学校のための学びではなく、人生のための学び」
という考え方。
大学の経営を支えるために生徒がいるのではなく、就活のために大学生になるわけではなく、自分がどのような人生を生きたいかという問いのために学ぶことをフィンランドでは一般的に共有されています。
一方、日本では「自分にとって幸せな人生とは何か」を主体的に考させることのない教育の仕組みになっています。これを疑問に思い、批判的に考えられたら、もっと自分らしい人生を歩める気がするのです。
主体的と聞けば、身勝手だと思い、批判的と聞けば、攻撃しているように思うかもしれません。私もそう思っていたのですが、その感覚こそ疑ってみました。
自らを疑い、深く考えれば、「日本はこうだから」「私はこうだから」というガッチガチに固まった価値観が取り外されて本質に辿り着けるはず。そうしてやっと自分の人生を築き上げていけると思うのです。
例えば、韓国から京都の大学に入学されたAさんが
全国の留学生が感じているか分からないけれど、1人の留学生としてなぜ学費をわざわざ銀行まで行って振り込みするのか不思議に思いました。確かに金額は大きいけれど、海外ではスマホで払える学校も多いし、すぐに変化するのも良くないと思うけど、便利なものは変わっていっていいんじゃないのかなと感じます。
なるほど……。言われてみればそうですよね。
今までなんの違和感も持っていなかった学費の払い方について、異なる角度から疑問を呈すことで、もっと日本が豊かになると感じられる貴重な意見ですね。
さらに東京の大学に通うAさんは教員を目指す大学生の苦労を教えてくれました。
教職を取っていましたが、学部によっては学部の授業と教職の授業スケジュールが重なるので、履修が上手くいかないことがあります。当然ながら出席しなければならない授業数は膨大です。さらにバイトやサークル活動などにも追われるという過密スケジュール問題が他の人の話からも自分の経験からも出てきます。
これはカリキュラムの作られ方が問題だと感じていて、「本当に教員免許を取らせる気があるのか?」と疑いたくなるほどです。毎年先生になりたい人も減っている中、教職課程を取ることによるこれらのストレスや卒業時期への絶えない心労、過密スケジュールによって心身を病む先輩や同級生を見てきました。
自分もスケジュールがしっかり調整されていれば取りたかったし、教職を取りたい人がいても現実的に取れない可能性があるのは未来の先生を手放しているようで、もったいないと思います。
この教職課程への疑問はたくさんの友達からも聞くことがありますが、大抵の場合「しょうがない」という一言で終わってしまいます。しかし、この意見には、社会的に尊敬されるはずの教師という仕事に対する問題点が含まれているとインタビューの中で感じました。
エラマプロジェクトの講義の中で、フィンランドでは、大学院を卒業しないと教員資格が取れないこと、教育者の社会的立場が高く尊敬されているため、なりたいと思っている人も多いことを知りました。
かたや日本では、教師を目指す人は減り、教師になってもさほど尊敬されず、2019年に心の病が原因で休職された人が過去最多になるほど、働き方にも大きな問題があります。
フィンランドの福祉に関するエラマプロジェクトのイベントに参加した東京の大学に通うAさんは、そこで得た感想をこう言います。
日本では、先生だけではなく、介護ヘルパー、保育士などはなんで尊敬されないんだろう?なんで社会的地位が低いんだろう?フィンランドと比べて恥ずかしいなと思いました。学術会議の人事について、意見の対立はあると思うけれど、一部の人にとっては学問を軽んじてるとも取れる政府の方針を見ると、やっぱり大事なことを忘れているのかもしれないし、経済中心になっているのかなってすごく思いました。
(フィンランドの福祉に関するエラマプロジェクトのイベントレポートはこちら)
介護職者や保育士が尊敬されないというのは、昔からそうだったのか?それらの仕事が女性のものとされてきた過去の経緯も関係しているからなのか?
まずはこうした疑問を持つ人が増えることで、少しずつでも社会に変化が生まれるのではと感じています。
新しい空気が流れてきたら…
今回のインタビューでは、主体的に批判的考察を行うことで、大学の問題点を聞いていたはずが、図らずもさまざまな分野への疑問に話はどんどん広がりました。
コロナがなければ、せわしなく毎日を過ごして自分の考えに気づくこともできなかったかもしれないと言ってくれた人もいました。
今回、同世代の大学生に話を聞いているうちに、ドラマ「リーガルハイ」で中学校のいじめに対する裁判の際に登場した印象的なセリフを思い出しました。
我々は常にまわりの顔色をうかがい、流れに乗る事を強いられる。
多数派は常に正義であり、異を唱える者は排除される。
いじめの正体とは、「空気」です。
特に右から左、左から右へと全員で移動するこの国では、
空気という魔物の持つ力は実に強大です。
この敵の前では、法ですら、無力かもしれません。
全てを飲み込み巨大化する恐ろしい怪物。
立ち向かうどころか逃げることさえ困難な相手です。
ドラマの中では、いじめを空気と例えていましたが、教育の仕組みや社会の制度、変えられない価値観も空気のように感じました。
予想もしてなかったコロナの到来によって、この空気に違和感が生じている気がします。
だからこそ、空気は変えられないのではなく、予想外を想像することで新たな流れが生まれると私は思います。
私は、これからも予想外を想像し、準備しながら、主体的に批判的に自分の人生を設計していきたいと思いました。
今回、インタビューに参加して頂いた皆さん本当にありがとうございました。ここには書ききれないほど素晴らしい意見やお言葉を頂いたので、またの機会にお伝えしたいと思います!
皆さんは、今回登場した大学生たちに共感しましたか?
それとも、批判的な意見を持ちましたか?
もし何か考えを持って頂けたなら、それこそが、私の文章の出発点だと思っています。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
Text by どさんこ大学生RUNA