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カラダの不調はココロを整える絶好のチャンス。できないからこそ見えてきたもの

こんにちは、あいすかです。前回記事を書かせて頂いてから、しばらく時間が経ってしまいました。皆さんはいかがお過ごしでしたでしょうか?

さて、私はというと、昨年10月中旬から約2か月ほど、眼の疾患を患い、強制的にデジタルデトックスをしておりました。
オンラインが主流となってしまった現代において、そして、このコロナ禍において、数か月スマホもパソコンもほぼ見ない生活をするなんて、想像していませんでした。

全てのスケジュールをキャンセルまたは延期にしなければならない!!どうしよう!!って、最初は正直焦りました。

それが、眼の症状がやわらいだ今でも、このままゆるーくデジタルと付き合えばいいや、と思えるようになり、なんだか以前より自由で楽しく過ごせるようになっているのです。

今回は、2か月間で私自身が体感したことを、みなさんに少しシェアさせていただければと思います。

痛みの涙で感情のデトックス。そして身体も休息

最初の1カ月は3日おきに病院へ通っていました。治療に専念しながら、日常の家事と育児をなんとか終わらせることに必死でした。
それすらも、きつかった。子どもの食事、幼稚園への送迎、買い物、洗濯、掃除。名称のない家事まで含めると、まぁ盛りだくさん。

「単身生活だったら、家の中で寝て過ごしてても、家族に迷惑かけずに済んだのに」

「近くに両親がいてくれたら、頼ることもできたかなぁ」

そんな弱気な言葉が頭のなかをよぎっていました。眼の中の角膜にも傷が数ヶ所できていたので、その痛みのせいか、数日間は涙もとまりませんでした。

もしかしたら、「なんで眼の病気になるの?」という悲しみ、もしくは行き場のない憤りの感情もあったのかもしれません。そのうち頭痛もしてきて、ものすごく眠たくなるんです。子どもの頃、友達と喧嘩したり、親に怒られた後など、泣いて泣いて泣きすぎて、そのまま寝てしまったこと、皆さんもありませんでしたか?そう、そんな感じ。

身体って素直。不調が目に見えて身体に現れていない時ほど、気力で頑張れていたり、無意識のうちに無理していたりするんですよね。
涙を流して疲れたせいか、この時は熟睡とはいかなくても、睡眠時間がしっかりとれました。少しは脳も休まったのかな?

そして、いま目の前にあるもの、できることだけに集中しました。
無理して買い物に行かなくても、食事を作らなくても、病院帰りにお総菜を買って帰ればいい。家にある食材で簡単に済ませればいい。
家族は全く気にしていないはずだ、と自分に都合よく言い聞かせていました。

眼が痛くなくても、元気な時から、そのように考えることはできたはず。
手抜きでもズボラでもいい。母業を頭の中から消したい日もあっていい。

日々の暮らし、自分のココロに余白を作ることは、決して誰に迷惑をかけるわけではないのです。だからこそ、意識的にのんびり、ゆっくりやっていこう、そう再確認した1ヶ月目でした。

オンラインとオフラインの行間を味わって選択する

無理をせず、ゆっくり過ごすことを心がけていくと、ココロに少しずつですが、余裕もでてきました。大袈裟ですが、私はなんて幸せなのだろう、と思うようにもなりました。

心配してくれる家族、友人、仕事仲間の存在、自分が辛いときに待っていてくれる場所があること、この『よむエラマ』もそのひとつ。
大切な人たちの存在に改めて気づくことができました。

さらに、自分でもびっくりだったこと、それは夫への私の気持ちの変化です。
ちょっと惚れ直した、という表現にしておきましょうか。(笑)

結婚して11年、家族の一員として、当たり前のように存在していて、どちらかが大変な時は、お互いに助け合うのは当たり前って、そう思っていたんでしょうね。

私が体調不良で辛そうにしていると、家事も育児も率先してやってくれていた。
ある日、ふと気づいたんです。

あれ?そういえば、いつもやってくれてたわ。
あれ?さりげなく、あれも、これも、普段からしてくれていたのかもしれない。

自分がしてきたことは忘れないのに、人がしてくれたことって、案外気づいていない。
とくに、一緒に過ごす時間が多い家族こそ、そうなりがちなのかもしれません。

この期に及んで、都合よく気づいてしまったのでした。(笑)

コロナ禍になり、私たちは以前にもまして、毎日のようにオンラインで多くの人と触れ合う機会を持てるようになりました。世界中、場所を問わず、仕事や学びができるのだから、こんなに素晴らしいことはありません。

同時に、自分がパソコンに向かいオンラインに没頭しているときにも、リアルに寄り添ってくれている家族や仲間の存在も忘れてはいけないですね。

当たり前の日常が明日あるとは限らない。
そう思って現実をみると、眼が回復した今でも、オンラインの時間が以前より減ったことに気づいたのです。

そして、以前より自分のココロに正直に、日常にあるいくつもの選択肢に落ち着いて向き合うことができるようになりました。

不便から直感を研ぎ澄ます

現在は傷も癒えて、元気に過ごしていますが、まだ視力は落ちたままです。「見えにくい」という感覚には、やはり不便を感じます。

しかし、耳は聞こえるし、手は動きます。
最近では、パソコンやスマホの画面をみる代わりに、音声メディアで耳から情報を得たり、手書きでノートに書き出したり、メールでお礼をする代わりに手紙を書いたりしています。

パソコンの文字、フォントからは伝わってこない空気や間(ま)も、音楽や人の声、音の力で感じ取ることができます。また、便箋の触り心地や万年筆の筆圧など、触感を大切にするようになると、より直感的に自分の好きなものを選べるようになりました。

見えているからこそ、わからないこともある。自分の身体がそれを教えてくれました。

いま、ちょっと本調子じゃないな、疲れているな、と感じているときはしっかり休みましょう!

そうしたら、また前に進みたくなるし、また違う景色が目の前に広がっているかもしれない。

このような時だからこそ、エラマ(人生、生き方、命)を感じながら、焦らずにいきましょう。

Text by あいすか




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