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情熱は「表現」されなければいけないものなのかもしれない

こんにちは!いけかよです。

みなさん!!やばいです今年は!!!何がやばいって、ライブやフェスがやばいです。
他国に比べると、感染症に対する対応がかなりコンサバなこの日本においても、やっと!というべきでしょう、ほぼ制限無しで、国内はもちろん海外アーティストの公演も、しかもスゴイやつが目白押し!!!

このメディアは音楽メディアではないので誰が来るかとかの詳細は省きますが、先日、いけかよは自分のなかの大好きランキングTOP5に入るであろうRed Hot Chili Peppers(以下、レッチリ)の来日公演に参戦してきました!!!!
東京と大阪の2公演でしたが、もちろん!どっちも!行ってきました!!!!!

いつもの根暗なトーンとは違い、「!」多めな導入ですが、うざいですか?ごめんなさい。
でもご心配なきよう。本日お話したいテーマとともに、いつもの根暗で理屈っぽいモードに入っていきますので。

では、いってみましょう!

なぜあたしは不完全燃焼なのだ?

前述の通り、いけかよはレッチリのライブに行ってきたわけですが、両公演ともひとりで行ってきました。もちろん、誰かと行くのも楽しいのですが、いけかよは基本的にはフェスやライブの類と映画は1人で行くようにしています。
もちろん、お互いがそのアーティストや作品に対してのテンションが同じくらいであることがわかっている場合にはその友人を誘いますが、この歳になってくるとなかなか時間的にも金銭的にもテンション的ににもばっちり合う人っていなくなってくるもので。誘って断られるのもちょっとさみしいし、もたもたしてるとチケット売り切れちゃうっていうのもあって、ひとりでさっさと行ってしまいます。

で、いつもどおり1人ライブ観戦をレッチリにおいてもしたわけですが、もしご興味ある方いらっしゃいましたら、「レッチリ 日本 ライブ レポ」とかで検索していただくと、どれだけファンたちが待ち望んだ公演かというのがわかってもらえるかと思います。ここでレッチリのすばらしさは語りませんが、いけかよ的に今回の来日がどんな重みだったかというと「ビートルズが再結成した」くらいのインパクトでした。つまり、ありえないことが起きた、っていうことです。

それくらいの涙が出るほどの感動で、選曲も最高だったのですが、実はなんだか「アレ?」っていう一種の「不完全燃焼感」を感じたのです。いけかよはこれに戸惑いました。こんな、奇跡のような瞬間をしかも2度もまのあたりにしながらも、なぜあたしは若干の「不完全燃焼感」を感じているのだ?と。

それの答えがわかった瞬間は、ライブ後に会った人たちから「どうだった?」と聞かれたときでした。
「レッチリ、どやった?」と聞かれて「やばかったーーーー!!」と、いかにレッチリが素晴らしかったかを思う存分語れたときに、わたしのなかの「情熱」が昇華していったような感覚があったのです。
あの曲で始まって、まさかのあの曲やってくれて、誰々がこんなMCしてて、最後は定番のこの曲で終わって、オーディエンスの興奮もすごくて……と、どれだけそのライブが素晴らしかったかをそれこそマシンガンのように語れたとき、誤解を恐れずに言うとある種のエクスタシーを感じました。つまり「完全燃焼した」ということですね。

この感覚はいけかよだけかもしれませんが、何がいいたいのかと言うと「素晴らしい!最高!大好きだ!」という「情熱」は「表現」せねばならんのだなということです。

不完全燃焼=根腐れ

じっさい、ライブ中はもうガンガン声とか出しますし、ステージに見入って陶酔しているわけなのですが、ほんとうはめちゃめちゃ踊りたかったのです。それこそ「おまえ頭おかしいんちゃうか」と言われるくらい踊りたかったのです(レッチリってそういうバンドやし)。
しかし、会場は東京ドームと大阪城ホール、しっかりびっちり椅子が敷き詰められていて、隣の人とも近いですし、誰も座ってないけどオールスタンディングではないライブの場合は客席で「踊る」というのは危険な迷惑行為になりかねず、とてもむずかしい。

ライブ中の「不完全燃焼感」は、コロナ禍における「無声ライブ」でも感じたことでした。これはわかりやすいですよね。このストレスはおわかりいただけると思います。でも、今回はもう時期的にも状況的にも、誰も歓声を我慢なんてしていません。思いっきり声を上げて見ていたのですが、それでも不完全燃焼感は感じたのです。

そこで気づいたのは、それだけ大きな興奮をもって自分のなかに「ああ、最高だ!!!」と感じたのならば、それに比例して「表現」も大きくなければならないのだろうなということ。つまり、情熱を声だけでなく「踊る」という行為でもって補わなければ、わたしのなかの情熱は表現しきれないほどの大きさだったと。でもそれができない状況だったから、不完全燃焼感だったのだろうなと。

じっさい、「どやった?」と聞かれてライブの素晴らしさを語ったときにやっと「表現」の気が済んだ、という感じかもしれません。すると自分のなかでレッチリのライブの味わいが増して深まって、そこでより満足度が高まったように感じたのです。

「声を出す」
「踊る」
「話す」
「泣く」

これらはすべて「表現」です。自分の中に生まれた情熱を「発散」する行為とも言えるでしょう。情熱は発散されてはじめて完成するのではないか? 発散されずに内に秘めた情熱は、まるで水をやりすぎて根腐れする植物のように、「好きだ!」「素晴らしい!」という熱は、ずっと蓋をしていたらグズグズに腐ってしまうようなイメージなのです。

結果的に、どれだけ素晴らしいものを観ても聴いても、どれだけ素晴らしい人に出会っても、その対象への情熱をなんらかの形で表現しなければわたしたちは「気持ち悪い」と感じる生き物なんだろうなと思ったのです。

表現しなければいけないのは他者を動かす力だから

冒頭で、いけかよは「ライブや映画はひとりでいく」という話をしました。これはなにがいいたかったかと言うと、今回もし一緒に行く誰かがいたら、すぐにその感動を「話す」という形の表現で共有できたかも、ということ。

「すごかったね!!」「最高だったね!!」と、お互いにお互いの「情熱」を表現しあうことで、ライブの満足度は高まる。情熱を表現することができたから、そのライブへの情熱は昇華され、エクスタシーになるんだといけかよは思うのです。

また、誰かといっしょだと、恥ずかしくなく踊れたりします。前述のように会場ではむりだけど、会場を出たら友人といっしょに踊れるか?踊れます!!でも1人では無理!!!めっちゃ酔っ払ってても無理!!!!

そう、何がいいたいかというと、情熱を表現するとき、それを向ける「対象」が必要なのです。自分の「最高だ!」「大好きだ!」という表現を向ける存在がいないと、表現は成り立たない。

じゃあいつも友達相手に喋り続けなければいけないのか?そうではありません。そんなことができる人ばかりではもちろんありませんし、相手が嫌がっていたら人間関係にヒビが入ってしまいます。
だからこそ、わたしたちは何かを書いたり描いたりつくったりアップしたりするのです。

絵画や小説、映画や音楽などの創作物はもちろん、ブログやSNSもそう。仕事のメールや資料だってその一種だと思います。なにかを作る=表現するということは、自分のなかの 情熱を表現し、伝える行為です。そこには特定のだれかじゃなくても、他者がいます。

むしろ、そのために絵画や文学や音楽や、ひいては言葉が生まれたのではないかと思うほどです。対象は「社会」とか「世の中」とか「世界」です。

「秘めたる情熱」という言葉もあるけど、でもやっぱりその情熱が大きければ大きいほど、秘め過ぎたら情熱は根腐れして体にも良くない気がします。
恋愛だとわかりやすいかもしれません。相手へ好きだときちんと伝えられなければ、どんどん自分のなかで妄想だけが膨らんでこじらせておかしくなって、ってなりますよね。「根腐れ」ってそういうかんじです。

根腐れしないためにも、なぜ情熱は表現すべきかと思うかというと、「●●が大好きだ!」という情熱って、とても人を魅力的にし、自分はもちろん、他者をも動かすからです。
何かや誰かを大好きだと思えるということは、生きる理由に直結します。好きなもの、こと、人がたくさんあるということは、それだけ人を強くします。その根幹にある情熱は、自分のためというよりもそれを起点に他者を鼓舞し、人をつなぎ、社会を作っていく、という感じがします。それは例えば「経営者としての大きな任務の1つは、社員に夢を持たせる、目標を示すことであり、それができないのであれば経営者として失格」と言って、100年を超える会社を作った松下幸之助のようなイメージです。

もちろんわたしたち全員が松下幸之助になる必要はないしなれないけれど、なにかを生み出す情熱の根底には「好きだ!」という気持ちがあり、人を動かすのもこの情熱だと思うのです。

なにより「●●が大好き!」と言ってる人を見てると幸せな気持ちになりませんか?たとえその●●に興味がなかったとしても、●●に情熱を持っているその人に、興味を持つようになることもあるはずです。たとえば「マツコの知らない世界」に毎回登場するいろんなもののオタクの方々をイメージしてください。けっこう、見てると幸せな気持ちになりませんか?
そういうかんじです。

なにかを好きと言えるって幸せなこと

そう思うと、わたしたちはなるべくたくさんの表現方法を持っておくと良いのかもしれません。もちろん「語らない」「話さない」という形の表現もあるかもしれませんし、いけかよとてどれだけ感動しても年末の第九を聴いたときの感動を「小躍り」で示したいとは思いません。そんなときに、別の形で情熱を表現するために、たくさんの表現方法を持っておくのです。そうすれば、そこで感じた感動は何倍にも膨れ上がると思うのです。

でも、そう思うといまSNSという世界で、色んな人が文字や画像や動画や音を使っていろんな発信をしていることが、とても豊かだと感じます。もちろん、SNSはノイズになることもあるから取り扱い注意ではあるのだけど、それだけみんながなにかに(良くも悪くも)情熱を感じてそれを表現する場があり、多くの場合は制限されない、というのは幸せなことです。

呼吸も表現も人間にとっては不可欠な標準搭載の機能です。呼吸ができなければ体が死に、表現できなければ心が死ぬ感じがするからです。なのに「表現の自由」という権利がわざわざ保障されなければならない理由がわかります。
呼吸は他者を動かさないけど、表現は他者を動かすから。
押し込められて根腐れした情熱が表現されたとき、例えば国単位で考えればクーデターや暴動を引き起こします。そこまでしてまで、「表現」ってされなければならないものなんですよね。いわば「ガス抜き」としての「表現」が保障されていなければ、わたしたちはやっぱりおかしくなってしまうのです。

でも、そんなときに軌道修正のきっかけをくれるのも「表現」でした。
ジョンレノンがヨーコと「ベッド・イン」することで平和運動のアイコンになったように。デヴィッドボウイが壁に向かって歌うことでベルリンの壁崩壊のきっかけをつくったように。

だからこそ、「好きだ」というポジティブな情熱を表現できるこんにちを幸せに思います。
もちろん、怒りや悲しみだって「情熱」です。表現されて然るべき。むしろそういう重たい情熱こそ、上手に表現できるといいですね。そこに、人間としての深さを問われる気がします。

ていうか、ネガティブでもポジティブでも、自分の情熱をたくさん見つけて、その表現を「深める」ことが、歳を重ねていく上でのある意味の宿題かもしれません。

今日もややこしいことを言いましたが、つまりなにが言いたいかというと、歳を経るにつれてどんどん素晴らしくなっていくレッチリのヴォーカル、アンソニーの歌詞の世界観がもうすばらしくて感動、っていうことです。

では、また!

Text by いけかよ(よむエラマ編集長/エラマプロジェクトCPO)


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