寂しさ解消は「寂しい」認定から。コロナ禍における「めっけもん」
こんにちは。いけかよです。
この記事が公開される4/30は、4都府県にて緊急事態宣言下の真っ只中。
飲んだくれのいけかよにとって、お酒がBANされるのはダイレクトに辛いです。
だって、ファミレスで飲みながら原稿書くのが至福のときやのに。
ファミレスで飲みながら原稿書いたらものすご捗るのに。
ガストとサイゼリヤはあたしにとってはオフィスやのに。
ファミレスで飲まれへんのやったらあたしはどこで原稿書いたらええねん。
甘ったれたこの体質を恨む今日このごろです。
とはいえ、もう1年以上も「ウンザリ」な状態。
自分よりももっとしんどい人もいるのだからと、できる我慢はしているつもりです。
1年が経った最近では、なんとかこの状況を乗りこなしている…とまで言えるかはわからないですが、どうにか狂わずに生きられています。
でも、去年はつらかった。とくに夏頃はつらかった。
その経験を経て発見したこと、それを今日は書いてみたいと思います。
「寂しい」を認めるのは勇気が必要だった
わたしはフリーランスですが、パンデミック前まではいちばん大きなクライアントとの契約がその社内に常駐するという条件だったので、週のうち3〜4日はクライアントの大阪オフィスに出向いていました。
また、出張や打ち合わせは多くって、一番ハードだったときは毎週東京へ行かねばなりませんでした。
それは最初の緊急事態宣言が出る直前まで1年くらい続いた動き方だったんですが、今から思うと、ようやれたな〜と思うハードさ。しかし、それがミッションだったし、とてもいいクライアントだったので週イチ東京は楽しかったんです(ちなみにホテル探すのが面倒だったからいつも日帰り)。
それがいっきにオンラインになり、2020年4月からはオフィス常駐という契約内容は変更され、在宅ワークが可能になりました。
多くの方ががそうだと思うのですが、最初は「ワーイ!快適!自由!」なんて喜んでいました。
在宅になったことをきっかけに、それまでの不摂生と(たぶん)ストレスで激太りした体重を落とすべく、食事制限と筋トレでダイエットを開始。
すべての食事を自分でコントロールできるし、時間の融通がきくのでダイエットはわりとうまくいったと思います。
また、それまでどうしようか迷っていた英語の勉強をスタートしました。迷っていたのは、スクールに通うかオンラインかということ。それぞれメリット・デメリットがあるのでどうしようかな〜と思っていた矢先、パンデミックでオンライン一択になったというわけです。
1年前は、きっとみなさん「がんばらなきゃ!」とか「今だからこそできることをしなきゃ!」とか「この機会にもっと学ばなきゃ!」とか、息巻いていた気がします。ていうか、わたしはそうでした。
でも、今から思えばその鼻息荒い感じって「こんな状況はそんなに長続きはせんやろう」みたいな、ある種の楽観的見立てがあったからこそのものだったなって思います。
「今だけ」なら頑張れる。
「今だけ」なら我慢できると。
でも、その「今だけ」はぜんぜん「今だけ」じゃなかった。
オリンピックも楽しみにしてたフェスもライブも全部延期になり、実家にも帰省できなくて、1年でいちばん大好きな季節である8月頃には、わたしは鬱状態になっていました。
ギラギラの太陽が大好きで、カモン猛暑!と思ってて、炎天下で朝から晩までフェスで駆け回るためと酒を飲み続けるためだけに健康をキープしているのに、その8月にこんなにも自分は憂鬱だなんてと、その状況にも絶望していました。
夏の太陽は自分を救ってくれると思っていたのに。
そこで、わたしは気づいたのです。
というか、認めたのです。
「わたしは寂しいのだ」ということを。
「寂しい」ということを認めるってけっこう勇気がいりませんか?
わたしにはいりました。
ときどき「一人は寂しい」「誰かいないとダメ」とはっきり言う人がいますが、「へぇ…(ちょい引き)」と思うと同時に、「そんなにはっきり認められるなんてスゴイ」という思いもありました。
寂しさに真正面から向き合うのって怖くない?と思うのです。
そして「寂しい」と言うのは恥ずかしいような気持ちもある。
だから、向き合わなくて済むように、やたら仕事をしたり映画を見たり本を読んだり推しを探したりライブに行ったり、酒を飲んだりしているとすら思います。
とはいえわたしは独身で子どももいませんし、両親とも離れて暮らしていてきょうだいもいません。
一緒に暮らしているのはプラントくらいでペットを飼う気もありません。
一人暮らしは大好きで快適で、むしろ一人きりになる時間が絶対に必要なので、誰かと暮らすことはわたしには無理だろうなぁといつも思っています。
そんな「孤独耐性」があると思っていた自分がなぜこんなにへこんでいるのだ??
最初は「なんだろう、この感じ」という感覚。
でも、襲い来る鬱に白旗を上げる格好で「寂しい……!」ということを認めたのでした。
これ、わたしにとっては大きな「決断」ともいうべき瞬間でした。
クライアントやそこのスタッフさんとはとてもいい関係ができていて、緊急事態宣言が出るまではほぼ毎日のように隣に誰かいて、いっしょにランチして、仕事が終わったら飲みに行って……。
あ、仕事でももちろん、いろいろな会話をたくさんして、みんなのおかげでがんばれていました。
そして友達とも飲みに行っていろいろ愚痴ったり爆笑したり。
それができなくなって、家にこもっていなくてはいけなくなって、オンライン飲み会やらなんやらはあったけど、なんなんやろう、このしっくりこないかんじ。
あんま楽しくないぞと。つまらんぞと。
それはやはり「寂しい」という感覚意外のなにものでもありませんでした。
そして、やはりわたしは“濃厚接触”を求めているのだと痛感しました。
非接触時代と言われ、お互いを大切に思うからこそ離れていましょうみたいな建前がまかり通っていますが、「嫌じゃ!」という往生際の悪い自分がいるのは事実です。
オンラインのコミュニケーションでも、仕事と割り切ればやっていけます。でも、そうじゃない関係までオンラインにされた日にゃー、なんのために生きてんのかわからんわと思うほどです。
まあ「そういう我慢のでけへん馬鹿者がウイルスを広めてるんや!」と言われたら何も言い返せませんけれども……。
そんなわけで「わたしは寂しい」というのが1つ目の発見でした。
わたしたちは自分自身から搾取してしまう
いよいよヤバイ、となった去年の8月、わたしはかかりつけの心理カウンセラーさんを訪ねました。わたしにとっての駆け込み寺的存在です。
そこで現状の落ち込みを吐露し、返ってきた言葉は「いまはしんどくて当たり前、頑張るな」という言葉でした。
そうなのか……!と、目が開かれるような感覚。
奇しくもこれを書いている今日、こんな記事を見つけました。
哲学者ハン・ビョンチョル「儀式の消滅で、人々は消耗する」
パンデミックで広がる「疲労症候群」──なぜ、私たちはいつも疲れているのか?
https://courrier.jp/news/archives/242276/
現在、私たちの誰もが何らかの形で疲労困憊している。ここで指しているのは、どこにいようと人生に影のようにつきまとう「根本的な疲れ」のことだ。パンデミックの渦中で、私たちは普段よりさらに疲れ切っている。
(中略)
自己実現をしていると信じて、私たちは自発的に、そして情熱を持って自分自身から「搾取」する。私たちを消耗させるのは外的な抑制ではなく「どんどん成果を出さなければならない」という内からの指令だ。
(中略)
自らを鞭打つこの動物は、自分自身から搾取して成果を挙げることを義務づけられながらも「自分は自由だ」と思いこんでいる人を体現しているのだ。
わたしも含めて多くの人がそうだと思うのですが、「頑張る」ことが癖になっているんですよね。それこそが「自分自身から搾取する」ということ。結果としてものすごい疲労感につながっているわけです。
多くの方が「頑張る=善」だと捉えてなんの疑いもないと思うのですが、でもそれって裏を返せば「頑張ればどんなことも達成できる」という、ある種の奢りでもあります。
もちろん、努力は実を結びます。でも、その方向が間違っていたら?
人間にはがんばってもどうにもできないことがあります。今回のパンデミックは「個人の力ではどうにもできないこと」の要素を多分に含んでいると思います。
その状況を、「我慢する」とか「何か新しいことをする」とか、マスク手洗いディスタンスを守るとか、そういうことを「頑張れば」、どうにかなるんじゃないかと思うのは、例えばまだシッポがあった14歳の孫悟空が戦闘力53万のフリーザに戦いを挑むようなものなんじゃないかって、カウンセラーさんは気づかせてくれました。
それらの努力が無意味だとはもちろん言いません。でも、ニュースは悲劇や惨状ばかり垂れ流す「インフォデミック」で、それに自分の「頑張り」はなにも効いていないと感じる無力感。どんだけマスクしたってウイルス減らへんやん、どんちゃん騒ぎでけへんやん、という絶望感。
つまりわたしの意識は「頑張ってもどうにもできないこと」に向いていたということ。
そして、自分で自分を追い込んで、世界を憂いて、戻ってこない「コロナ前の日々」を恋しがっていたわけです。
そら鬱になるわと。
でも、それを引き寄せたのは皮肉にも自分の「頑張り」だったんですね。
頑張りが実を結ばない時、人は世を恨むようになりますから。
だから、その日を境に、わたしは頑張ることをやめました(マスクとかはしますよ)。
自分がコントロールできることだけに目を向けるようにしました。
苦しんでいるであろう人々に同情こそするものの、その苦しみを肩代わりするような意識は捨てました。
たとえば仕事。
今ではわたしにとって仕事は「頑張るもの」ではなく「終わらせるもの」になりました。
もちろん、心から楽しめる仕事があれば何よりですが、そうじゃない仕事のほうが圧倒的に多い。だから、いつかそういう仕事に巡り会えたらいいな〜と思いながら、体力を無駄に消耗しないよう、目の前の仕事をひとつひとつ淡々と終わらせる。
そうすることで、わたしは「自分自身から搾取する」状態から少しずつ改善できているように思います。
楽しくなくってもいいんや!
わたしは将来の目標とかって特に無いのですが、唯一あるとしたら「楽しく生きる」ということだけなんです。
しかしこのパンデミックで、当然ですが楽しくないわけです。
その当然の状況に悪あがきして「楽しくないよぉおおおぉおおおおおおおお」ともがいていたのが去年のわたしでした。
なぜそうなったのか?
わたしのその「楽しく生きる」というポリシーは「日々は楽しくなければならない」という、謎の義務感に変わっていたからなんですね。
楽しくないのはなんかおかしい、とでもいうような。
でも、カウンセリングのなかで「無理に楽しくしようとしなくていい」という言葉をもらい、ふたたび目が開かれる瞬間が。
「日々は、楽しくなくてもいいんや……!」
そっか!楽しくなくてもええんやな!!
そう思うとなぜか逆に楽しくなってくるという、まことに不思議な現象がわたしのなかで起きたのです。
まるで「ラララ〜♪」と野原をスキップしたくなる感覚というかなんというか。
そうです、毎日「おもんないな」という感覚を受け止めて生きていくのが辛いわたしは、それはメンタルが弱いからと思っているフシもあったのですが、そうではなく、むしろ鋼のメンタルで「毎日楽しくないとあかん!!!」と、自分自身を変ないじめ方で苦しめていたのかもと気づいたのです。
冷静に考えれば、人生なんてしんどくてつまんないことのほうが多いかもしれないし、ましてやこんなコロナな状況で楽しくなんてなれるわけがない。
もちろん、日常の些細な楽しみはあるし、きちんと日々の生活を営めていること、これ以上の幸せってなかろうと思うのですが、それすらも見失うほどの高ストレス下においては、むしろ「楽しくしよう」と思えば思うほど苦しかったのでした。
それに気づいてからは、楽しくない日々に悪あがきをすることは少なくなりました。
もちろん、ライブ行きたいどんちゃん騒ぎしたいハシゴ酒したいカラオケしたいイチャイチャしたい!とは思いますけども。
それができない状況に慣れてきたのもあるのでしょうが、「まあ、しゃあないわな」という気持ちで、暴れるリビドーを落ち着かせています。
でもそれは、感覚が死んでいくのとは違ってて。
「楽しなーても、ええんやし」という、前向きな諦めに変わっています。
そして最後にもうひとつの発見。
カウンセラーさんからもらった助言は「鬱になるのは運動不足だから動け」という、コロナにかまけてより怠惰になった自らの生活スタイルを思い知らされるものでした……。
1ミリも反論の余地がなかった……。
めっちゃシンプルでした……。
もともとそんなに運動する習慣があるわけではないのですが、コロナ前はほぼ毎日仕事のために外出していたわけで、かなりの歩数を歩いていました。それが一気に1/4とか1/5になったので、そら運動不足です。
そこで、オンラインパーソナルトレーニングを開始。自分の意思では運動を継続することは無理だと分かっていましたので、お金はかかるけどそこをケチっていたら一生運動習慣なんて身につかないと思い。
ダルいな、とはもちろん思います。でも、やめる理由もない。だから続けています。
続けるコツは、がんばる理由を探さないことだということも、カウンセラーさんが教えてくれました。その理由がなくなってしまったらやめてしまうから。ダルいしめんどくさいけど、やらないよりは絶対やったほうがいいもんね。
美空ひばりも言うてた
いかがだったでしょうか。
コロナ禍でのいけかよの発見。
●わたしは寂しい
●がんばるのをやめたほうがいい
●日々は楽しくなくていい(と思うとなぜか楽しくなってくる)
●運動不足はいろいろアカン
こうして長々書いてみると、自分の往生際の悪さが嫌になります。
コロナ前だって嫌なこといっぱいあったはずなのに、なぜかその頃のほうがすごく良かったように思えてしまう。だから「早く“元通り”に」と思ってしまう自分がいるのは、事実です。
でも、時間はかかってるけど、やっと自分の心も生活も、現状に「最適化」させられつつあるように感じているきょうこのごろ。
さほどの起伏もトキメキも興奮もない日々ですが、それもよし。
だって「人は哀しいものですね」って美空ひばりも歌ってたやん。
そんなことを思いながら、濃厚接触できる日々を心待ちにしているのです。
Text by いけかよ(よむエラマ編集長/エラマプロジェクトCPO)