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あなたは「二日酔い」が好きですか?そこには人生の機微を知るヒントがあった

こんにちは!いけかよです。
みなさんお元気ですか?
いけかよは毎日「つまんないわ」と思いながらもなんとか生きています。
トピックとしては、最近ではふと「ベランピング」に興味がわきはじめました。アウトドアは基本的に好きじゃないんですけど、自宅ビアガーデン生活を充実させるべく、日々ベランダのいたる箇所をメジャーで測りながらしかるべきツールをAmazonと楽天で物色するのに労力を費やしております。

さて。突然ですが、みなさんは「二日酔い」って好きですか?
「は?」と思われる方もおられましょう。もちろん、身体のほぼ全機能がバグり、死にはしないもののほぼ終わってる感じといいましょうか、けっして心地よいものではありませんね。
しかもいちばんきついのが「気持ち悪い」ってとこですね。頭痛とかはなんとか我慢できるにしても、あの「気持ち悪い」がほんとにキツイ。下手したらひとさまに迷惑をかけてしまうというリスクもあるわけですから。

しかし、この二日酔いも「悪くないんじゃないのかな」とわたしは思うのです。
いまでこそコロナのせいでもう長いこと二日酔いになるほど飲んではいませんが(外で人と飲んでるときに飲み過ぎちゃうんですよね〜)、二日酔いがもたらす幸せというのは確かに存在すると感じています。

どういうことか。
それこそが「二日酔いが回復したときの爽快感」なのです。

二日酔いがもたらす幸福

飲んだくれのみなさんなら身に覚えがあるはずです。
基本的に二日酔いって身体の自然回復力に依存するよりないものですよね。ドリンクや薬やサプリメントなんかはありますが、それらって基本的には飲む前の「予防」であって、なっちゃったらもう治るまで待つしかない(もし次の日の朝でも効くなんかええやつ知ってる人いたら教えてください)。

「もう二度と酒は飲むまい」と誓ったことも一度や二度じゃないけれど、しかし夕方頃に「スキッ」としてきて「アレ?大丈夫かも……!!!」と思った瞬間の幸福感って、かなりデカイと思うのってわたしだけでしょうか。

わたしは実際けっこうこの「二日酔いの回復時」にかなりの多幸感に包まれます。

「『気持ち悪くない』ってなんて素晴らしいんだろう」
「目の前に出されたものを迷いなく飲み食いできるってなんて幸せなんだろう」
「また酒が飲めるってなんて素晴らしいんだろう!!!!!」
「【結論】ありがとう世界」
という具合です。

すごくつまらない事例で恐縮なのですけども、でもこれってマジで「その大切さを失ってはじめて気づく」みたいなことに近い気がします。
ふだんは何の不具合もない健康な身体。その「正常」が失われた状態、それすなわち二日酔い。そのときになってはじめて健康な身体の大切さに気づくわけですよね。
健康体がいかに幸せかを思い知るという。

こんにちの日本は「平和ボケ」なんていわれていますけど、じっさいわたしたちって「幸せ」を感じる感度が弱っているかもしれません。
他国や歴史と比較することはナンセンスかもしれないけど、たとえば戦時下とかホロコーストとか人種差別とか、そういった「比較対象」がなければ自分たちがいかに恵まれているのかとか幸せなのかって、気づけないのかもと思います。

とはいえ、戦争状態であることが日常で、安全な暮らしが得難いものっていう状況はどこか狂っていると思います。
逆に「幸せなのがあたりまえ」っていう貴族みたいな生活で、そこにはなんの感謝も幸福感もない、という状況が良いのかどうかっていうのも微妙。

このふたつは極論であり、これを読んでいるみなさんの多くはたぶんそのどちらでもないところを生きていると思います。
そんな「ふつうの人たち」が自分の幸せをかみしめるために「比較対象」とするものの象徴として、わたしは「二日酔い」をとらえているんです。

ちょっと無理があるとお思いでしょうか?
じゃあこんなのはどうでしょう。

たとえば台風や大きな雨雲の影響ですっごい雨が降っていたけど、それが過ぎて雨が止んだとき。虹がかかったり陽が差してきたりしたら、なんかすごい幸せな気持ちになりません?
これって土砂降りだったからこその幸福感な気がするのです。

たとえば健康診断で引っかかって、専門医による精密検査を言い渡されたとき。ちょっと気が気じゃないかもしれませんね。
でも検査してみたら特に異常はなかった!みたいなとき。めっちゃ幸せな気持ちになりません?「開放感」と言い換えても良いかもしれない。

こんなふうにわたしたちは「不幸」と「幸福」を行ったり来たりして生きているのだと思います。
まあこれって「一喜一憂」という、言ってしまえば非常に疲れる生き方です。でも、悟った禅僧のような「平常心」には程遠い……。わちゃわちゃもがきながらでも、失ってみないと気づけない「尊さ」というのは、あらゆるところにスケールの大小を問わず確かに存在します。

人生にも「二日酔い状態」があると思う

どんな人にも「あのときには二度と戻りたくない」と感じる「暗黒の時代」ってあると思うのです。っていうか、いけかよにはあります。20代には二度と戻りたくありません。就職超氷河期だったし、あんなことようやったな、と思うことがたくさんあります。自分の未熟さゆえにめちゃめちゃしんどかったし、満足できることなんてほとんどありませんでした。

いうなれば、この時代はわたしにとって人生における「二日酔い」です。

でも、そういう時があったからこそ今の自分があって、あのときの経験がすべての糧になっていると言い切れます。
あの頃の自分がアホすぎるゆえに、いま自分の成長を噛みしめられるというオマケつきです。

だからって別に何かをすごく頑張って「乗り越えた」とかじゃなく、感覚としては「ひたすらじたばたしていたらあるときふっと楽になっていた」という感覚です(ほんで気づいたら40になっていました。これもいいんだか悪いんだかわからない)。

この感覚も、二日酔いの回復期と似ていると思うんです。少しでも楽になるようポカリをガブ飲みしたり日光浴したりハイチオールCを飲んだりと「悪あがき」はしますが、基本的にはひたすら我慢して、治るのを待つしかない。
いけかよの場合もその時の自分にできるベストをつくしていただけで、そうこうしているうちにある時ふと「あれ?気持ち悪くない!!!ラララ〜♪」みたいな状況になるわけです。

そう思うと、いまのこのコロナな状況も「二日酔い」なのかもしれないと思うのです。
過ぎてみないとわからないけど、でも、ここへきてコロナ前から失われたなにかのいろんな尊さに気づいた人って多いはずなんです。そしてそれが通り過ぎて再び取り戻せたものがあったとき、きっとまた強い幸福感を味わうことができるんじゃないかと。

わたしたちは「喉元過ぎれば熱さを忘れる」生き物です。これってあまり褒められた状態じゃないときに言うことだけど、でもつらすぎる経験は忘れられるほうが幸せだし、忘れられるからこそまた幸せを取り戻したとき、強い幸福感を得られると思うんですよね。

そのために一役買うのが「二日酔い」。

幸福感って、そうじゃない状況からの反動の瞬間に一番強くて、そのあとはじわじわと平熱に戻っていくという感覚があります(その逆もしかり)。

でも人生とか生活とかって、普通は「いま、ここがその反動のタイミング!」っていうのはわかりにくいかもしれないし、なかなかものごとの「ゴール」ってはっきりしないものです。「転機」って、あとからしかわからないし。
二日酔いが治る時間が読めないのと同じですね。

でも、そういうコントラストの弱い人生って平凡かもしれないけど、解像度を上げていけばわたしたちの日々って無数のラッキーとアンラッキーが繰り返されています。
そんななかで「悪あがきする」とは、すなわち死なずに生きること。生きることを投げ出さないこと。止まってもいいから、人生というゲームから降りないこと。
こつこつと「生」を積み重ねていくこと。

そこでわたしたちはときおり期せずして「二日酔い」をします。そして、いかに自分が幸せかを思い知るのです。

尊い幸せほど「比較対象」が必要

今回この記事を書こうと思ったのはこの人おんなじこと言うてるわ、って思ったから。

波乱の半生を通して著者は「不運は不幸ではない」ことを学んだという。なぜなら、辛いことや苦しいことを乗り越えた先には喜びが待っているからだ。

そう。二日酔いって悪いことばっかりじゃないんですよね。

「“わたし”の豊かで幸せな生き方」はこのエラマプロジェクトのコンセプトです。
世の中的にハッピーと思われている、リッチであることとかゴージャスであることとかじゃなくて(まあそれもあっていいんやけど)、あくまで「わたし」の幸せってなんなのか、を追求するためにわたしたちはいろんなメッセージをお届けています。

でも不思議なのは、「“わたし”の幸せ」って、考えれば考えるほどシンプルで抽象的になっていくこと。そして、そのシンプルな幸せほど、なくしたときのインパクトって強いと感じています。

いけかよにとっての幸せは「心配事がない状態」なのですが、たとえばフィンランドに行ったときってすっごく楽しくて(旅行ってそんなに好きじゃないのに)また行きたい!って思えたすごく幸せな時間でした。
でも「フィンランドに一生行けない人生」と「心配事がない人生」どっちか選ばないといけないとしたら、迷わず「心配事がない人生」を選ぶよねっていうのは、同意してくださる方多いんじゃないかと。

「フィンランド旅行」っていうゴージャスなものが失われた喪失感と、「心配事がない状態」が失われた=心配事がある人生のしんどさ、天秤にかけるほうがおかしいかもしれませんが、なにが言いたいかというと本質的な「幸せ」ってたぶん「二日酔い」みたいなものがなければその濃淡を認識できないほどささやかで、それを感じる感覚がバグっているのが、現代に生きるわたしたちなのかもしれない、ということなんです。
そして、そのくらいささやかな幸せこそがたぶん、いちばん尊いんじゃないかと。

ね。そう思うと、二日酔いって、わたしたちに幸せを教えてくれるものなんです。
良いものかもしれないって思ってきたでしょ?

二日酔いは、わたしたちに「気づき」を促してくれるものだから。
そして、二日酔いになるほど飲んだくれられることじたい、幸せだなって思うのです。

【結論】ありがとう世界(2回目)

まあ、とりあえずめっちゃ飲みに行きたいということを、長々ここでまどろっこしく語っているんだなと気づいたあなたは、そこは「そっ閉じ」でお願いします。

では、また。

Text by いけかよ(よむエラマ編集長/エラマプロジェクトCPO)

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