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人生に迷ったとき「オーケー、Google」より必要な言葉とは。

最近「オーケー、Google」「ヘイ、Siri」の代わりに使わなくなった言葉があります。
それは「分からない」です。

「間違えたら恥ずかしい…」からの進化?退化?

私は企業で教育研修を担当しています。コロナ禍でリアルでの研修は激減。オンライン研修が90%以上です。以前は新人研修でのできごとを書きました。

社外の人ともオンラインでいっしょに研修を受けることも。年齢や性別もいろいろです。
講師「では皆さん、●●ってご存じですか?」
受講者(シーン……)
講師「手が挙がらないですね~。○○さんどうですか?」

日本の研修や授業でよく見る「間違ってたらイヤだな、手を挙げないでおこう」あるあるですね。しかし、最近の変化はこちら。

講師「では皆さん、●●ってご存じですか?」
受講者(シーン……)(下を向いてポチポチ、もしくはなぜか目線がずれてパソコンをカタカタ)
講師「手が挙がらないですね~。○○さんどうですか?」

……ネットで検索している!!!
「手を挙げないでおこう」から「当てられる前に検索しておこう」へと進化(or 退化?)したのです。

スマホで検索する

なるほど、たしかにオンライン研修なら手元が見えないし調べていると気付かれないですね。あるときは、私も受講者側で参加していたのですが、受講者の半数が「絶対これ検索してるな」というセミナーもありました。「絶対間違えないぞ!」という強い決意を感じますね。

でも、間違えるのってそんなにダメでしょうか?
「分からない」と言うのは恥ずかしいことなんでしょうか?

「私だけ」なんてことはなかった

あるセミナーではハッとしたことがありました。
まずチャットなどで「何か質問ありますか?」と受講者に投げかけられました。でも書き込みはゼロ。
すると、講師のアシスタント役の女性が「私だけかもしれませんが実はここが分からなくて…」と講師に質問したんです。

女性のアシスタント役

そのとたん、チャット欄が埋まりだしました。
「私もこれが知りたいです」
「長年悩んでたんですが…」

え、今!?

赤信号、みんなで渡ればこわくない。

懐かしのフレーズを思い出しました。

と同時に、あんなに質問が隠れていたということは、実はみんな「正解」を持っていないのだなと気付きました。
周りが全員分かっていなければ恥ずかしくない。でも周りは「正解」を知っているように見える。だから自分ひとり恥ずかしい。でも本当は周りも「正解」を持っていない。
「恥ずかしい」とは、実は自分の思い込みなのかもしれません。

人の「正解」はフィットしない

さらに踏み込んで考えると、周りが「正解」を持っていたとしても、それを真似たらOKなのでしょうか?
いえ、周りにとっての最適解があったとしても、自分の悩みは自分だけのものだから、その「正解」を聞いても納得できないかもしれません。

そう考えたきっかけがひとつ。
世の中には「成功する100の方法」「できる人がしている15の法則」といったビジネス本が溢れかえっています。似た内容なのになぜ新刊が出るのか?

それは、読み手が「なんか私にフィットしないな。別の本を読んでみよ」と乗り換え続けるからこそじゃないでしょうか。新刊は「この本こそあなたの『正解』ですよ!」という顔をして、読み手は「今度こそ!」と手を伸ばします。でも結局ビジネス本は自分のために書かれた本ではない。だからいつまでもフィットしないという出口のないサイクルなのではと疑っています。

回し車のサイクル

「恥をかきたくない」 その気持ち、わかる。

サイクルから飛び出す魔法の言葉が「分からないんです」だと思います。「私だけかもしれませんが…」という断りもいいですね。そして、それを人に伝えるということ。

なぜなら、そう言うと、たいていの人はアドバイスしようとします。役立つ役立たないはともかく、自分にはなかった発想や情報が得られることは間違いありません。
また、それは多数に向けたビジネス本よりも、少なくともあなたの現状に基づいたアドバイスではあるはずです。

「とは言え、馬鹿にされたらイヤだな…」
その通り。間違いない。ごもっとも!

頭では分かっています。相談したりアドバイスをもらった方がいいんだろうなと。
それができないのは、恥ずかしさや馬鹿にされたくないというプライドがあるから。でもそれを捨てたらいいなんて思いません。だって恥ずかしいものは恥ずかしいもん。

恥ずかしがる女性

でも、「恥ずかしくない場所」を探すのはアリです。
あなたが「不安なんです」「分からないんです」と言ったときに、「そうかあ」「そうだよね」「私もあるよ」と返してくれる場所。

今はClubhouseやTwitterのスペース機能など、話をする場を作るサービスが増えましたね。不特定多数の人が参加できます。そういう場を巡って雰囲気を探るのもいいかもしれません。

個人的には、場は狭いほうが好きです。何回も通いたくなるオンラインサロン、いつも指名してしまうカウンセラー、近所のなじみのカフェ、隣で飲んでる見知らぬ人。(今は状況しだいですが…)

お酒を酌み交わす

なぜなら参加者が多いとその場の「正解」が多数決で決まりがち。お互いが空気を読んで場の空気を壊さないようにするからかもしれません。
逆に言えば、少人数や一対一の場なら「正解」は決まりにくいし私にとっての「正解」を尊重してもらえる気がします。

将来が不安になったらここへ行こう

ここまで「分からないと言うことは恥ずかしいことなのか?」を考えてきました。
・周囲と比較しての恥ずかしさは自分の思い込み。実は周りも「正解」を持っていない。
・持っていても他人の「正解」は自分にフィットしない。
・それでも「分からない」が恥ずかしいなら「恥ずかしくない場所」を探そう。

では、これらを踏まえて、今私たちが一番「分からない」と言いたいこと、自分にとっての正解がほしいことってなんでしょう?

それは「自分の将来」についてじゃないかと思います。

現代は科学が発展してITが進化し、AIの予測能力が人間に勝る時代になりました。それらは過去の蓄積データを元に未来を予測しています。もしAIに私の将来を教えてほしいと言ったら、AIは私の過去データを分析しその延長線上となるプランを考えることになるでしょう。

でも、もし過去の自分から変わりたかったら?
違う可能性がほしいと感じていたら?

それを尋ねるべき相手は、大勢に向けたビジネス本ではなく過去を蓄積したGoogleでもなく、自分自身しかいないのです。

とは言え、ひとりで考えるとグルグル悩んで袋小路に入るのが私。そんな人にうってつけの「自分の将来が分からない」と言える場所があります!
それが、近年話題になっている北欧のフォルケホイスコーレ。大人のための国営学校で、就職する前や、仕事を変えるとき、人生に迷ったときに一人で抱え込まず対話をしながら次の道を探せる場所です。

行きたいのですが、カリキュラムは3カ月~1年間のものが多く、仕事をしていると時間がとれないので二の足を踏んでいます。でも、いつか人生の転機に訪れたい場所です。

フォルケホイスコーレのイメージ

一方で、遠く北欧まで行かなくても身近にもそういった場が欲しくないですか?分からないって安心して言えたり、自分にとっての正解が探せたり将来を考えられる場所。

宣伝みたいなのでとても言いづらいのですが、私にとってはエラマプロジェクトがそういう場所です。
フィンランドの価値観を汲んだ、「正解」を一つに決めず自分なりの答えを認めてくれる仲間がいる居心地のいい場所。悩んだときや行き詰まったとき、自分の決断に背中を押してほしいときにオンラインサロン「エラマの森」に行きます。月に1回のこともあれば毎週ログインすることも。「オーケー、Google」ならぬ「オーケー、エラマ!」状態です(笑)

将来や人生の転機についてはとても悩みますよね。。
その出口を教えてくれるのは「分からない」という魔法の言葉。。
あなたがそう言える場所を見つけてみませんか。

いっしょに立ち止まって考えましょう。
誰かの「正解」ではなくて自分の「正解」を進むために。

Text by ひらふく(おとな教育の実践人事)

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