結婚と移住の効果効能〜幸せなんて、そんなに簡単じゃなかった〜
東京・世田谷区のいつものカジュアルなバーで、一人カウンターでスコッチのストレートを飲んでいたあの日々を、時々思い出す。
今とは対照的な場所、生活、暮らし。
あの時、私は楽しかったんだろうか?辛かったんだろうか?
こんにちは。石原侑美です。
現在は、岐阜・飛騨高山の山に囲まれた田舎まちに住んでいます。
夫と夫の両親の4人暮らし。
かつて私は東京に住み、一人社長のフリーランスとして日々仕事に明け暮れ、仕事以外の時間は飲みに行くという生活をしていました。
私が住んでいた世田谷区の某エリアは、3階以下の低いアパートや建物が並び、近所には大きな公園が所々ある、比較的平穏なところ。
けれども、新宿や渋谷の都心まで数駅。
そんな、いわゆる都会生活をしていると、行きつけのバーなんかがあったりします。
独身の常連同士(同志?)が口を開けば、このような会話の繰り返し。
「結婚した友達は結婚してから、目の下の隈がひどくなった」
「結婚って、結局墓場よね」
なんて、ちょっと粋がって否定しながらも、密かに信じたい神話のようなものが存在していたような気がします。
それは「結婚すれば幸せになれる。移住すればリア充な生活が送れる」ということ。
私もそんな神話をどこかで信じていた人間の一人でした。
「自分を高めなきゃ」「自分を磨かなきゃ」という焦燥感
わたしは東京の大学院の修士課程を修了(いわゆる卒業)し、そのまま会社を設立しました。ご縁があり、最初から仕事があるというラッキーな形で起業したものの、最初から思うように売り上げが上がるわけでもなく、本当にしたい仕事をしているのでもなく、来た仕事はとにかくなんでもこなすような日々でした。
「起業家なのだから、人脈を増やさなければ」
「事業展開を試みるために、資格を取った方がいい」
「徹夜して仕事をやり切ろう」
「秋田まで出張して、お客さんとの距離を詰めておこう」
常に仕事モード、いつも臨戦態勢。
髪型はアイロンで巻き、ネイルサロンには月に1回、ヒールは5cm以上、月に2回以上の出張。
一人暮らしの家に帰れば、料理ができないし、洗濯物も溜まってるし、服はクローゼットにしまってなくて居心地が悪い。
なので、ほとんどの夜を近所の居酒屋やバーで過ごす。
いつも一緒に飲む近所のおっちゃんには「ゆみちゃんはワーカホリック(仕事中毒)だから」って言われ、「そんなことないですよ〜」と本当に否定していました。
多分、気づいていなかったんです。
というより、起業家たるもの、それが当たり前だと思っていたんです。
仕事をバリバリやるっていうことが。
起業をして2,3年目、自分のやりたい仕事をしてはいるものの、どこかフィット感がなく、その影響か、売り上げはまだまだ生活をするのに精一杯のレベルでした。
友達付き合いでも、飲みに誘われたり遊びに誘われたりして色んな人と交流する中で「起業してます。大学院卒業してます。」という私の経歴がどうも「浮いた」存在だったようで、刺激的な生活の中にも満たされない何かがありました。
・売り上げが上がらない
・恋人/パートナーができない
・起業家として立てた目標に届いてない
そんなもやもやした日々は私のお酒の量を増やし、30歳を超えたあたりから、飲んで気づけば記憶なく家に帰っていた、という生活でした。
荒れてましたね。
だからこそ
「パートナーができれば、結婚できれば、移住できれば、きっとこの生活から抜け出せる」
そう信じていたんです。
結婚と移住が叶った時
そんな私の荒れたお酒生活で良かったことは、夫と出会えたことでした。たまーに行くバーの常連さんと仲良くなり、その常連グループに夫がいました。
あれよあれよという間に結婚が決まり、東京での新婚生活。
別に期待もしていませんでしたが、そんなにあまーい新婚生活ではなく、でも平穏な普通の生活。
それよりも、結婚することで発生する名字変更の手続きの大変さ、小規模ながらも結婚式の段取り、それに付随する周りの人への気配り、連絡、相談は、「もう2度と結婚式はしない!」と感じるには十分でした。
結婚って、なんて泥臭いのよ……。
でも、夫と過ごす日々はとても穏やかで、私の心を安定させました。
お酒の量が減ったんですよ!それが私のバロメーターだったのかも(笑)
結婚して1年が過ぎた頃、コロナ禍に突入しました。
1回目の緊急事態宣言下は東京で過ごし、世界中がコロナの正体をつかめず、何が正しいかわからない中で、なんとも言えない不安を抱えながら生活していました。
しかも東京は人口密度が高く、生活は息苦しく感じていました。だって、近所の公園に行くと、野外なのに密だったんですから!
そんなこともあり、緊急事態宣言が明けて、私たち夫婦は夫の実家がある飛騨高山へ移住することになりました。
流れに身を任せるように、結婚と移住がスルスルっと叶った私の生活。
理想的な生活。
そして二人は幸せに暮らしましたとさ。
いや、待って。
そう言い切るには、とてつもない違和感を感じます。
「他所から来た人」の宿命を受け入れる
結婚して、移住して、身にしみて感じていること。
それは、わたしは「他所から来た人」であること。
飛騨の人にとっては、突然現れたよくわからない人。
石原家にとっては、数回会っただけの息子の嫁さん。
移住直後は、近所の人によく聞かれました。
「何しておいでござるの?」(たぶん仕事内容を聞かれています)
「どこからみえたの?」(たぶん出身地を聞かれています)
武士言葉が残る何とも魅惑的な飛騨弁で質問攻めに合いました。
「ブランドコンサルタントです」「フィンランドの研究をしています」「ノルディックウォーキングのインストラクターをしています」
カタカナばかりが並び、飛騨の人にとってはあまりピンとこない言葉が来たせいか、理解を諦めた顔で会話を終了していました。
移住してからのこの1年、散歩ですれ違うたびに町内の人たちと挨拶をし、近所の人と2往復ぐらいの会話のキャッチボールをし、60代夫婦のスマートフォンのトラブルを解決し、夫の姉妹夫婦たちとも積極的に戯れ、ちょっと変わった夕食(タイ料理やフィンランドの家庭料理)を作って。
仕事では「飛騨にフィンランドや北欧の専門家が移住してきた」というクチコミが巡り、イベントの出演やいろんな人と名刺交換をしていたら、中日新聞の飛騨版にインタビュー記事が掲載され、近所でも「ああ、なんかすごい人が嫁に来なさった」と言われるようになりました。
このように、1年の出来事を振り返ると、いつも私の心の中にある問いに気づきました。
私は飛騨の人たちに何が提供できるのか?
私は石原家で何ができるのか?
それは、料理をすること、近所の草刈りを手伝うこと、近所の人と挨拶をして天気の話をすること、なんでもいいんです。小さなことの積み重ねなんだと思うのです。
「自分にできることは何か?」と常に考え、自ら積極的に動く姿勢でいることが、心地よく暮らすことの必須事項のように感じるのです。
でもね、これって、地元に戻るにしても、東京に残るにしても、独身であっても、実家に住んでいても、同じことが言えると思うのです。
「わたしにできることは何か?」と常に考え、積極的な姿勢でいること。
これこそが、幸せに暮らし続けるためのキーワードのように思えてくるのです。
わたしが主宰するエラマプロジェクトでは、まさに「わたし」と向き合い、「わたし」自らが豊かで幸せな生き方をデザインする文化を作っています。
いまこれを書きながら、わたしが一貫してやりたいこと、わたしのアイデンティティがはっきりしてきました。
簡単に幸せになれるわけじゃないけど、楽にはなる
結婚して3年、移住して1年の現時点でわたしが言えることは、結婚や移住で簡単に幸せになれるわけじゃないけど、楽にはなる、ということ。
何かあった時に頼れる家族がいること。
頭・体・心が疲れた時は、目の前の自然に癒されて、温泉もすぐに入れること。
飛騨では肩書きや学歴はあまり関係ないこと(人間性を見られている)。
結婚・移住って初挑戦が多いし、カルチャーショックもあるけど、わたしの場合は肩肘張らずにゆるっと過ごせていることは間違いないのです。
と同時に、結婚と移住は、幸せな暮らしを考えるうえでの単なるきっかけに過ぎない、ということ。
まずは、きっかけ作りから始めてみませんか?
自分の人生を考えてみるもよし。
気になる場所に行ってみるもよし。
会いたい人に会ってみるもよし。
あ、もしもわたし、石原侑美に会いたいということであれば、いつでも飛騨高山でお待ちしていますよ!
わたしや飛騨の人たちと一緒にお酒を飲みながら、ぜひ囲炉裏を囲ってのんびり過ごしましょう。
それでは、良い1日を!Kippis(乾杯)!
Written by 石原侑美(Elämäプロジェクト代表)