〈このあと〉=死について考える
こんにちは、どさんこ大学生RUNAです。
突然ですが、ピクサー映画『リメンバー・ミー』をご覧になったことはありますか?
毎年、10月末から11月上旬にメキシコでは、作中で描かれる〈死者の日〉と呼ばれる祝日があります。
日本のお盆と似ていて、故人の魂が戻ってくるとされていますが…この映画を見た方なら分かるように、とってもカラフルで明るく祝われます。
祭壇にはマリーゴールドなどオレンジの色の生花、カラフルな切り紙の旗など、さまざまな物が盛大に飾り付けられ、夜にはバンド演奏なども行われます。
「死者と一緒に明るく楽しむ」
それは、私にとって死を暗いものだけとして捉えない新しい価値観でした。
「死」という言葉は非常にインパクトの強い言葉だと感じますので、この記事ではなるべく〈このあと〉に置き換えて書いていきます。
記事が公開される11月上旬、メキシコから離れた日本で私も〈このあと〉の世界について、この祝日のようにあくまで明るく考えることを心がけたいと思います。
〈このあと=命の終わり〉は、とてもとても難しいテーマです。
だからこそ、私の生活の身近(ドラマ・言葉・本・歌)で表現された〈このあと〉から考えていきたいと思います。
時間とは別の場所にあるもの
最近、2021年の4月から6月頃に放映されていたドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』を見返していました。
すると、ある場面のセリフを何度も何度も繰り返し再生して、ノートに書いてまで繰り返し聞いていました。
主役の「大豆田とわ子」が幼馴染の親友を亡くし、ずっと悲しみと後悔を抱えたまま、誰にも本音を言えないまま1年を過ごしてきました。そんなとわ子が、親友の死を周りに「若いのに残念ですよね」と言われたり、自身も親友に対して大きな後悔を持っているともらした時に返ってきたセリフです。
深掘りすると難解な部分がある上記の言葉は、数学が好きという特徴を持つ登場人物のセリフでした。
この中で、私が驚いたのは時間についての捉え方です。
それまで時間は、過ぎ去ってしまうものだと思っていたので、「時間は実在するのか?」という疑問すら持ったことはありませんでした。しかし、このセリフを通して、時間は過ぎていくものではなく、「時間とは別の場所にあるもの」という考え方にとても驚きました。
約1年前、愛犬がこの世を去りました。家族みんな、特に母はずっと後悔を抱えていました。あれが出来た、これをすれば、あの時…。挙げれば無限のように後悔の波が押し寄せてきます。
私は、写真を見るのも、愛犬への想いを口にするのも難しかったです。言葉にしてしまうと、愛犬の死をより現実のものにしてしまうような気がしたからです。なので、声に乗せて愛犬のことを話そうとすると、涙が止まらなくなっていました。
今でも、その瞬間を鮮明に映像として思い出せます。その時の気持ちと同じような気持ちを感じることもできます。過去の気持ちも時間と一緒に消えていない。これは、心が今だけじゃなくて過去にも生きていることを表しているようです。
この時間に対する捉え方は、私に希望の光を届けてくれているようでした。今も、心の中で、伝えたいことを伝えることができるのかもしれません。
私は、愛犬の最期が鮮明に記憶に残っています。
どのような最期だったのか。それが、これまでの楽しそうな愛犬の生活すべてをうばいとり、いつの間にか、ぜんぶ悲しいという結末が頭の中に残っていたのかもしれません。
セリフにあったように、愛犬はどんなふうに生きていたかを心にとどめて、過去という場所にいる愛犬に近況を報告しながら、前を向いて進むことができることを教えてもらったような気がしました。
私の命って私のもの?
私は、大切な人ほど〈このあと〉について一緒に話すのは難しいように思います。身近すぎて、想像できない、またはしたくもありません。けれど、それが突然くる可能性があります。
ある時、解剖学者の養老孟司さんが「自分の命は自分のものではない」と発言しているのを目にしました。私の命が私のものではないとは、とても衝撃的ですが、どういうことなのか?
自分は、自分が〈このあと〉をいつ迎えたか、基本的にわかりません。自分自身の亡骸も、自分がどんな状況なのかも客観的に見ることはできないのです。だからこそ、自分以外にとってしか、自分の死がないということを上記の言葉は表しているのではないかと私は思ったのです。
自分が〈このあと〉を迎えるのは怖いけれど、その時に悲しい想いをするのは、自分ではありません。大切な愛犬の死は、私にとって、こんなにも辛く心がつぶれるものなのかと痛いほど感じました。
しかし、自分の〈このあと〉を自分は確認することはなくて、それは身近な人が認識して、それに対し感情を持ちます。
死って自分の死じゃない。それは、自分の大切な人のもの。
その視点も私にはないものでした。「自己実現」が重要視される現代において、人生(命)を自分らしくデザインしなければならないという意識があります。でも、自分の〈このあと〉と向き合ってくれる人は誰なのか?それは、その時、身近にいる人なのかもしれません。
ヨシタケシンスケさんの絵本『このあとどうしちゃおう』では、おじいちゃんが死後に残した【このあとどうしちゃおう】というノート(エンディングノート)をきっかけに、亡くなる前のおじいちゃんの気持ちを知りたいと思う孫が描かれていました。
おじいちゃんも、孫も、〈このあと〉に向き合っています。しかし、おじいちゃんの〈このあと〉という現実を受け止めるのは、孫です。
この状況も、おじいちゃんの〈このあと〉がおじいちゃんのものではなくて、孫のものということを表しているようです。
孫は、おじいちゃんの部屋からノートを見つけました。もしも、ノートの存在に誰も気づかずにいたら、どうなったのでしょう?実際、エンディングノートに気づかれず、葬儀などを終わらせてしまったということが起こっているそうです。
ノートを書くことだけでなく、自分が〈このあと〉を迎えるにあたって、伝えておくべき情報、そして大切な思いは、周りの人に”知ってもらう”ことが大事だと感じました。
みんなが帰る場所
最後に、藤井風さんの楽曲『帰ろう』を取り上げたいと思います。
私は〈このあと〉を命の終わりだと思っていました。
でも、藤井風さんのこの曲を聞くと、【終わり】だと思っていた〈このあと〉が【命の帰る場所】とも捉えられると気づきました。
帰る場所に帰る。そう聞くと、なぜか続いていく未来を感じさせられました。
愛犬とのお別れの時、みんなで写っている写真、手紙、散歩の時に使っていたもの、愛用していたクッション、好きな食べ物など…棺に入れて、ぜんぶ持っていってねと思っていました。ですが、それらは全て消えてしまって、なんとも言えない寂しさにおそわれました。
そして、
ものは何も持っていけなかったかもしれないけど、今も確かに愛犬との絆や愛はあります。愛は、生まれつき持っているものではありません。私たちが渡せていたら、その愛が私たちのもとに残っていくことを教えてもらうようでした。
他の人より獲得したモノ、経験したコトが多ければ多いほど成功した生き方のように思いがちです。ひとつひとつ手を離すのは、そういった執着や、ネガティブな感情のことかもしれません。何も持っていけることはなく、全て忘れるのは、新しい人生という場所に行くためのように思いました。
グレーに〈このあと〉を考えたい
〈このあと〉を考えると、いろんな方向に派生していきました。
言葉の意味を考え出し、関連する表現に深入りしようとしても…まだまだ何もわかっていないと思います。
でも、それがよいのかも?と思いました。さまざまな〈このあと〉の表現は、その人が何を大事にして生きているのかを教えてくれているようでもありました。
〈このあと〉は、悲しくて寂しくて辛いもの。ひとくくりの暗いイメージを持っているので話すのが難しいテーマです。でも、それはただ暗い黒ではなく、グレーなものだと思うんです。例えば、生きることが白で、死ぬことが黒というイメージがあれば、それは良い悪いと直結するものに感じます。
中島美嘉さんの楽曲『僕が死のうと思ったのは』の作詞作曲をされたamazarashiの秋田ひろむさんは、常に死にたいと思って生きてきたと言い、その死にたい僕を説き伏せるために曲を作るというループの中で生きてきたそうです。
日常的に〈このあと〉の存在を感じている人には、それが大きなエネルギーを持つものにはならず、些細なことだと曲の中でも表現されています。
〈このあと〉を日常のものと感じる人もいる。
〈このあと〉が自分のものではないと思う人もいる。
〈このあと〉の世界に行っても、過去や未来の場所にいけると思う人もいる。
〈このあと〉は、終わりではなく、帰る場所と思う人もいる。
〈このあと〉にいる人を盛大に、華やかに祝うメキシコの伝統文化がある。
白黒、正解をつけない。自由に考えて感じられる、グレーなものが〈このあと〉だと思うと、なんだか周りの人と話すのも悪くない、そう思えるような気がするんです。
私は大切で、身近な人たちに聞いてみたいです。
〈このあと〉ってなんだと思いますか?
それが『あぁ今日からどう生きていこう』(藤井風さんの『帰ろう』最後のフレーズ)に繋がるように思うのです。
最後まで、お読み頂きありがとうございました。
Text by どさんこ大学生RUNA
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