「自分の強み」なんてわからなくていい
こんにちは!いけかよです。
今日も今日とて、わたしのオフィスであり台所である、愛してやまないサイゼリヤでこの原稿を書いています。
サイゼリヤとガストには本当にお世話になっていて、多いときには週3くらい通います。
なにをしてるかって、あの驚きの安さの絶品ワインを飲みながら仕事をするのが至福の時間なのです(サイゼリヤのワインの美味しさは有名だと思いますが、ガストのワインも負けてないです…!)。
集中しないといけない原稿書きや、ちょっと気分がのらない仕事のときなどはほんとうにお世話になっていまして、「書き上げるまでは帰らない」と決めているので、4時間くらい居座っています。気づくと隣の席は2回転くらいしています。だからこそ、いっぱい食べていっぱい飲むんですけど!(だから1人利用の割にはそこそこ単価高いと思う)
近所のサイゼリヤとガストには顔が割れまくっているので若干いつもはずかしく、自分の行動エリアのサイゼリヤとガストを探すことに余念がありません。株主になったほうが良いかもと思うほどです。
美味い酒と、美味い飯と、重い仕事。これらが最高のマリアージュを生み出すのです。
って、今日はそんなわたしの飲んだくれ仕事術を話したいわけではありません。
あなたは、サイゼリヤの「強み」ってなんだと思いますか?
「強み」とは、他者があなたを「欲しい」と思う理由です。あなたの魅力と言い換えてもいいでしょう。
サイゼリヤなら、旨くて安いこと。きっと多くのサイゼラバー(サイゼリヤを愛する人をわたしはそう呼んでいます)はそうだと思うんです。
そこで、はじめてサイゼリヤの「企業理念」を調べてみました。
するとそこにあったのは「経営理念」と「基本理念」。
経営理念は「日々の価値ある食事の提案と挑戦」。
基本理念は「人のため・正しく・仲良く」。
……知らんがな。
何が言いたいかというと、個人レベルの話になったとき、他者があなたに感じている魅力=強みと、「自分の強みはこうである」と認識していることとの間には、企業の掲げる企業理念が必ずしもわたしたちのニーズではないということに似た乖離があるよね、というお話です。
わたしの強み…なんやと思います?
あなたは、いままでの人生で、「あなたの強みは?」と聞かれたことはありませんか?
いけかよはフリーランスという立場上、その質問はよくされます。
派生として
「いけかよさんの専門分野は何なんですか」
「いけかよさんの一番得意なことは何なんですか」
「いけかよさんが一番やりたいことは何なんですか」
聞かれるたびに、「なんやと思います?」と返したい衝動にかられます。
実際には、こういった質問をしてこられる方は初対面かそれに近い距離感なので「そうですね〜強いて言うなら●●ですかね…」と適当にお茶を濁すのですが、ほんとうは「なんやと思います?むしろ教えて下さい」と言いたい。
そう、いけかよは、自分の強みがよくわかりません。
なんらかの強みが「ある」ことはわかっているんです。でもそれがなんなのかはよくわからないし、むしろわからなくていいとすら思っています。
とはいえ今でこそそう言い切れるものの、長いことこの「自分の強みが自分でわからない問題」には苦しんできました。
とくに独立した直後などは苦しみました。仕事をゲットするためにはお金になる自分の強みを言語化して「私は●●屋です」とわかりやすく言い、「なるほど、じゃあお願いしよう」と思ってもらわなければいけないわけです。それは同時に、ネットで検索されやすいことをも意味します。
しかしこれがぜんぜんうまくいかなかった。
自分の持っているスキルは並べることができます。
ライティングとかWebディレクションとか飲み会の仕切りだとか…。でも、それが自分の「強み」なのか?なによりも自分はそれで食っていきたいのか?そこにはいずれもマルがつかなかったのです。
いまでもよく覚えていますが、独立したての5年前、わたしより少し早く独立し、法人を立て、爆走していた女友達がSNSで「自分の強みを言語化できないなんて(フリーランス・起業家として)ありえない」と投稿していたのを見て、ひどく落ち込んだものです。
その彼女はいまでも爆走していますが、数年を経てわたしは「自分の強みなんてわからなくていい」というゴールに着地したわけですが、彼女が「起業家たるもの自分の強みを言えてなんぼ」っていまでも本当に思っているかな?と思います。
それほどまでに、わたしは「自分の強みなんて自分でわからなくていい」説に自信を持っているのです。
自分の強みは他者に見出してもらうものなんじゃないか
最初に言っておきますが、そもそも「自分の強みは●●です!」って言える方はそのままでいいです。強みの発現のしかたや発見のしかたは、多分にその人のパーソナリティに依拠するからです。だから、ご自身の強みをしっかり自覚できている方を批判する意図はまったくないことを前提で、お話をすすめさせてください。
いけかよが「自分の強みなんてわからなくていい」と思うに至ったのは、短いながらもまる5年のフリーランス歴で経験したことがベースになっています。
…あ。でも、そもそも会社員のときもそうだったかもしれませんが「フリーランス」という、とても不安定であいまいで、逆に言えばいくらでもその形を変えられるスライムのような存在だからこそ、如実に味わえたのかもしれない経験です。
前述のようにいけかよは自分の「強み」というものが、「あるのはわかるんだけどそれを他人にわかりやすく伝えるのが難しい」という悩みをずっと引きずっていました。「あたしが企画したコンパは絶対盛り上がる」みたいな強みで仕事は取れないからです。
しかし食っていかねばならないので、ひとまず「持っているスキル」をならべてライスワークに勤しんだわけなのですが、そのなかで仕事プライベート問わずいろんな人との出会いがあり、自分のパーソナリティを理解してもらえると「いけかよさんに●●をお願いしたい」とお仕事を依頼されるようになったのです。
ここでいう「●●」は、わたしがフリーランスとして看板には掲げていなかったことばかり、つまり、やったことないことばかりです。
また、そんな職種はない、といったことばかりです。
たとえば
「クライアントがわりとややこしくて担当者がどんどん降りていくプロジェクトを、信頼回復しながら進行管理する役」とか
「アカウントが増えすぎてわけわからんようになった企業のSNSの整理と管理と運営」とか
「立場も役割もタスクも不明瞭だけどとりあえずクライアントが望んでるから現場に常駐してほしいブランディングプロジェクトのひとり」とか。
こんな案件、ネットで検索したってぜったい見つけられません。お声がかかったときは「ひょえー!できるかな(汗)」ってなります。でも、ここでよほどモヤモヤすることがなければ「NOは言わない」スタンスで、お受けしてきました。
結果的に、スキルや経験はもちろん、とても尊い出会いにつながったりすることもあって、葛藤も多かったけど、やってよかったと思えることばかりです。
ここでいいたいのは、もちろんわたしの武勇伝スゴイでしょってことではなくて、前述の「名もなきミッション」は、すべて他者がわたしのなかになんらかの「強み」を見出してオファーしてくださったということ。
逆に言えば、もしわたしが「わたしの強みはライティングです」と、具体的にわかりやすく提示していたら前述のオファーは来ていなかったかもしれないということなんです。
それを考えて苦しくなるくらいなら考えるのをやめたほうがいい
わたしが自分の強みを自分でわからなくてもいいと思う理由はここです。
つまり結局、どこまでいっても自分という人間を自分が正確に理解することは難しい。
どれだけ客観視しようとしても、ぜったいに歪みが生じます。しかも、そのときの「モード」や「テンション」によっても自分への認識は変わりますよね。
しかも刻一刻と、わたしたちは変化しています。
だから、「自分の強みは●●です」と言ってしまうということは、いけかよにとっては自分の可能性を狭めることでもあるのです。
「わたしはライターです」と言ってしまえば、相手は今後自分を「ライター」としてしか見てくれなくなるかもしれません。もちろん、そう認識されたい方はそれでいいんですよ!でも、いけかよはそうじゃなかったのです。「ライター」であることはわたしにとってひとつの側面に過ぎず、それが全アイデンティティ=強みのように相手に写ってしまうことは、いけかよにとっては「つまらん」ことなのです。
結果的にいけかよの場合は自分という人間の「強み」がわからず、言語化できず、モヤモヤもじもじしているうちにそれは他者が見出してくれました。そして、それは自分が「コレ」と定義するものなんかよりもずっとずっと想像の斜め上でおもしろくって、わたしの人生を大きく広げてくれました。
そんな経験を何回も繰り返していると、もはや自分で自分の強みを定義することにデメリットしか感じなくなってきたのです。
これは、思い返してみれば会社員やフリーターだったときもそうです。
だから、もし「自分の強みがわからない」と思う人がいたら、強く言いたい。
自分で自分の強みを定義する必要はないと。
それはむしろ目を曇らせ、自分を苦しめると。
考えてわからなくて苦しくなるくらいなら自分の強みなんて考えなくていいと。
強みとは、他者に見出してもらうものなのだと。
とっても他力本願な生き方と言えるでしょうか。それはそうかもしれません。
でも、結局いけかよにとって生きるということは「他者のために善くある」ということを意味します。これは生きながら気づいたことです。せっかくわたしに出会ってくださった人たちには、わたしという人間を、最大限面白がって活用してほしいと思うのです。偉そうな綺麗事に聞こえるかもしれません。でも、そう思ってもらえるようになるまでには関係構築のためにそれなりの時間がかかるし、相性というとても脆いフィルターがあるし、一生お眼鏡にかなわない人もいるでしょう。ていうか、そういう人のほうが圧倒的に多いはずです。この、とっても効率は悪いかもしれないやり方のデメリットの覚悟はできているつもりです。
だからこそ、いけかよは「あなたの強みはなんですか?」ときかれたときに「なんやと思います?」と聞き返したいのです。
自分の強みがわかってもわからなくても堂々と生きていい
冒頭のサイゼリヤの話を回収します。
何が言いたかったかと言うと、自分で自分の強みを定義するというのは、企業でいうところの「企業理念」みたいなものだなと思うのです。
つまり、消費者にとってはけっこうどうでもいいものなのです。
サイゼリヤは経営理念として「日々の価値ある食事の提案と挑戦」を掲げていますが(お店を利用させていただく以上の情報はありませんので失礼を承知で言います)、サイゼリヤが「日々の価値ある食事の提案と挑戦」ができていようといまいと、消費者のニーズとしてはとりあえずワインと飯がいまの値段でうまけりゃいい。
同じように、あなたがたとえば「わたしの強みはコミュニケーション能力」(=企業理念)だと思っていたとしても、周りは「知らんがな。とりあえず今日の会議の資料を早く共有してくれ」(=消費者のニーズ)と思っているかもしれません。
企業理念を掲げることは自由ですし大切です。でも、企業理念ってあくまで「自分のため」「自分の軸をぶらさないため」のもの。だから消費者のニーズとは乖離がある。
個人レベルで言うなら、自分の強みを定義することは勝手である、ただ自分の強みを掲げることができないのだとしたら、徹底的に消費者のニーズ=いろんなオファーに応じることに集中したら良いと思うのです。ていうか、そのほうが重要だといけかよは思います。
「自分の軸がある」というのはとても素晴らしいことのように思えるかもしれませんが、いきすぎれば「融通がきかない」「頑固」とも言える。それは自分の可能性を削ることになってしまうかもしれません。それはちょっと残念だと、いけかよは思います。
そして何より大事なのは、あなたが自分の「強みを言える派」か「見出してもらいたい派」どちらかなのかをはっきりさせるということ。それぞれどちらにもメリット・デメリットがあるからです。
社会で生きていると「言える派」のほうが有利であることは往々にしてあると思いますし、それは素晴らしいこと。
でももしあなたにそれができないのだとしたら。
「見出してもらいたい派」として、堂々と生きていっていいと思うのです。
では、また!
Text by いけかよ(よむエラマ編集長/エラマプロジェクトCPO)