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#39 正誤優劣をなくせば全てがギフトである〜マインドの法則

価値判断が私たちを苦しめるのかもしれない。

今、アンコンシャスバイアスに関するコンテンツを作っている。アンコンシャスバイアスとは無意識の偏見のことだ。アンコンシャスバイアスがなぜ良くないかと言うと、自分の偏ったものの見方をとおして、物事の判断してしまうということにある。

それにしても、我々日本人はなぜこうやって横文字を使おうとするのだろう。普通に、日本語で「無意識の偏見」とか「無意識の偏った価値観」と表現すればいいものを。日本人は新たな知識として流行らせるために、わざわざ横文字を使う傾向にある。マインドフルネスなどはその最たる例と言えよう。グーグルが採用したのを皮切りに、瞑想にとって変わってマインドフルネスが大流行。何が違うのかと言えば、より合理的に、宗教色を無くしたと言う点だと思う。私からすると瞑想の方が奥深くて好きだけど。

話を戻すけど、無意識にしてしまう偏ったものの見方そのものは誰しもが持っているもので、それ自体はしようがないものであり、決して悪いものではない。誰もが自分の経験に基づいた価値感を持つのは当然である。ただ何が良くないかと言うと、そこに正誤優劣をつけて価値判断するのが問題なのではないだろうか。

マインドの法則には、あらゆる物事には正も誤も優も劣もない、と言う教えがある。例えば、自分に与えられた仕事。その仕事に正誤優劣をつけて、これは自分に合ってない仕事だとか、これは自分がやる仕事ではないとか、この仕事は劣っているとか。そのように価値判断した途端、その与えられた仕事がとても嫌になってしまう。

これは人間関係も然りだ。この人は間違っている、この人とは合わない、この人は嫌いだ、とその人に正誤優劣をつけて価値判断すると、どうだろう。突然その人が苦手になる。私たちの生き辛さを招くのは、何を隠そう、自身がもつ勝手な価値判断だったりする。

昔、私としては退屈な仕事があって、それはそれで有難いはずなのに、「こんなしょうもない仕事、私には合わない」なんて思うと、途端にその仕事がつまらないものに見えてきたことがある。このケースでは退屈=しょうもない仕事と価値判断しているからこうなる。まったく、足るを知らないとはこう言う奴(私)のことを言うのだ。

仮に、この仕事に対して、”天からのギフト”だと思うとどうなるだろう。きっと、その仕事をありがたいものだと感じて、一生懸命に自分の役割をはたし、その仕事をとても大切に思えるのではないだろうか。その仕事への取り組み姿勢そのものが変わってくると思う。

このように、正誤優劣の価値判断をどうつけるかによって、同じ与えられた仕事でも意味が全然変わってくる。そして幸福度も変わってくる。不幸を招くのも自分、幸福を招くのも自分。これが正誤優劣つけて価値判断することの本当の意味だ。

そんなことを考えていて、ふと気がついた。私たちは、自分の人生に与えられる事象すべてを”天からのギフト”だと価値判断すると、とても幸せに生きることができるのかもしれない。仕事も、お金も、出会う人も、趣味も、食事も、辛い経験も、自分に与えられるものごとすべて。すべてを天からのギフトとして受け取ることができれば、天に感謝しながら幸せに生きることができるのかもしれない。

そもそも、すべての事象には良いも悪いもない。勝手に意味をつけて、勝手に判断し、勝手に苦しみ、勝手に生きづらさを覚える。悩みを生み出しているのは自分の価値判断だ。

自分に与えられたものごとを全てギフトだと思って、ありがたく受け取り、一生懸命応える。人生とはその繰り返しではないだろうか。もっとシンプルに考えても良いのかもしれない。

今そんなことを考えているので、ここに残しておきます。

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