餅は拾っても、ゴミは拾うな
近所の餅投げに初めて参戦した。
もちろん、投げる側ではない。拾う側としてである。
餅投げは、近所の寺が主催するもので、子供から老人まで毎年多くの人がやってくる。
餅投げは、色んな意味でストーリーが作られる場所だ。
子供にとっては、たくさん取ったら仲間内で英雄になれ、大人にとっては直近のエンゲル係数を下げる意味でも重要なのだ。
会場入り
開始30分前、近所の家族と合流し、会場へと向かう。
どの家庭の子供も一様に頭にヘルメットを被り、空から先制攻撃を仕掛けてくるお楽しみに対して、ガチンコ勝負する準備が万端だ。
「今日は100万個取ってやる!」と子供同士の虚勢の張り合いを横で楽しみながら、『まあ、15分前に到着して、少し餅が取れる場所を確保できたらいいかな~』と軽く考えていたのだが、会場に到着するなり、その考えが浅はかであることがわかった。
会場の中央には正方形のやぐらが設置されており、その周囲をビッシリと人が覆っている。
やぐらの足元には、何年もそこにいた石像のごとく微動だにしない老人が、やぐらを2重3重に取り囲む形で鎮座しており、新たな侵入者を寄せ付けない威圧感がそこにはあった。
しかし、私も引き下がる訳にはいかない。
何としても多くの餅を家庭へと持ち帰り、子供を腹一杯に食べさせてやらなければいけないのだ。
私は、やぐらの角部に陣取った。いや、陣取ったというか、そこしか場所が空いていなかったというのが正解かもしれない。
角部は明らかに不利だ。
なぜなら、やぐらの各角部には、餅投げ要員のおっさんが1人ずつしか配備されておらず、やぐらの4つの各正面に多くのおっさんが集中しているからだ。
私は、自分のポジションに納得いかないまま、角部方向へ餅が投げられる前提で作戦を立てる他なかった。
餅が投げられるまで約5分。
私は、小さい子供の安全と餅の獲得を両立できる位置を検討し、子供に指示を出した。その一方で、自分は来たる開始時間に備えてスマホを後方ポケットへと押し込み、落下した餅をしゃがんで取れる準備を整えた。
もちろん、ダイレクトキャッチできるのが一番いいが、大勢の手が餅の軌道線上に出てくるので、現実的には手と手がぶつかり合って落下すると考えたのだ。
開始1分前、周囲の子供達、若者、青年達はソワソワし始めている。
それに対してどうだろう・・・
何か秘策でもあるのだろうか?
やぐら足元の老人達は、勝利を確信したかのような眼差しで、全く微動だにしない。
賽は投げられた
寺の鐘を開始の合図として、とうとう餅投げが開始された。
やはり、当初の予定通り、角部へ餅が飛んでくる数は少ない。
1個の餅を巡って争う、子供達の姿が頭をよぎった。このままでは、負け戦確定だ。
私はこの状況を打破すべく、角部からやぐら正面への切込みを試みた。
幸い、餅がやぐら正面にランダムに飛んでくるため、それに引っ張られて人は右往左往している。だから、一瞬できた隙間を縫って、餅豊作エリアに入り込むのだ。
まんまと、激しいエリアながらもリターンを期待できる新天地に入り込んだ私は、早速開拓を始める。
さすがに激しいエリアだけあって、屈強な男たちがわんさかとひしめいている。光栄の三国志ゲームで言うところの武力99キャラがいても不自然ではない場所だ。
新天地は、激しいながらも当初の予想通り、空中の餅をダイレクトで取れる人は僅かであった。それを踏まえて、私は地面に集中する。
ポツポツと落ちてくる餅をすかさず拾いこみ、地味に餅を集めた。
その中で、屈強な男と地面の餅を同じタイミングで狙って、手と手が触れ合うという恋愛ドラマさながらのシチュエーションが生まれたが、お互いに恋愛感情は生まれなかった。でも、彼は餅を譲ってくれたため、私の一方的な感情としては、友達以上である。
そのようなシチュエーションを間に挟みながらも、私は餅を18個集めることができた。
まあ、出だしから考えると上々ではないだろうか?
戦を終えて
そのような中、ふと、やぐら周囲のご老人達の成果が気になり手持ちの袋を確認する。
『袋パンパンやないか~い』
意味がわからない、納得がいかない、全く微動だにしなかった老人のスーパーのビニール袋がなぜパンパンになるんだろう。これは超常現象なのか?
現象を理屈付けするため、いや、納得したいがために、薄っぺらい記憶を辿る。そして、記憶を辿る中で、一つ可能性が高いものを見出した。
それは、餅投げのおっさんが時々、抱え込み投げをしていたということだ。
おっさんの基本投げスタイルは、餅を片手に2、3個持って投げるのだが、時々、面倒臭いのか、餅を胸に大量に抱えたままで一気に投げていた。そうなると、複数の餅がばらけずに一つの塊となり、飛距離もほとんど伸びないのだ。つまり、やぐらの足元に大量に落下していたということになる。まさに、推進力が弱い低スペックのおっさんカタパルトがそこに誕生していたのだろう。
老人達は、それを長年の経験からか知っていたのだ。だからこそ、余裕の鎮座だったのだ。
正直、私は老人たちを甘く見ていた。そして、餅は遠くに投げられるものだと常識にとらわれ過ぎていた。つまり、"過信と思い込み" というやつである。
私は、猛省した。
そして、この経験を活かすべく、来年も絶対に参加すると心に誓った。
来年、とある会場で老人に交じって鎮座している青年がいたら私である。
とりあえず、餅投げが終わるまでは集中したいので、そっとしておいてほしい。そして、その後にゆっくり餅の数を見せ合おう。