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自問は深く知りたい時に行う


正しさ

何が正しさとなるかという問いはかなり難しい、例えば人から借りた物は必ず返した方が良いのは間違い無く正しいといえると思うが、仮に銃を借りたとして借りた当初はその貸した者の精神は安定していたが、返す頃合いには精神的にかなり疲弊していて今にも危うい状態、その状態でその銃を返すと自死を選択したり他者を殺しかねない、その時にその銃を返すという行為は正しいかどうか。


不正

不正行為は明らかに悪いが、その不正をする側とされる側ならどちらがつらい思いをするかといった問いに対して、不正をされる側は被害者なのだからされる側の方がつらい訳だ、ではその不正は正しいかというと正しくは無い、かといってその不正を認める事も出来ずされる訳にもいかないが、不正を行っている側は法的に処罰の対象となるとしてもその処罰は不正をされている側が実行出来ない、仮にその不正が他者にバレない行為だった場合には処罰すらされない。

不正行為をした側の自責はどうなるかという精神的な面での問いも生まれるが、その事で病む者もいれば病まない者もいて何ともいえない。

このように正しさという概念はかなり難しい。

何かを知りたいというときは調べたり知識を増やしたり知見を得たり体験したりしながら学ぶが、その場合思い込みによって一見してこれが"正しい"として間違った選択をしてしまう事がある、施しが正しさと思った場合、その施しが仮にお腹の空いた者に渡す致死量の毒キノコだった場合、その知識の無さから人を殺してしまう要素にもなる。


問答法

現在この方法は嫌われているがこれは他者に行うから嫌われるだけであって、これを自身に行うのなら何の問題もなく少々自身が疲れる程度でその真実を知る方法になっている。

ここでいう真実というのは他者からみた真実ではなく、自分が一体何を求めているのか、何を知りたいのか、何が足りないのか、そういった自身の各々の真実を知る手掛かりとなっている。

問答法は哲学的には最もわかりやすく、その仮定において様々な要素からあらゆる事柄を知りたがる要素に入り、結果として知識も知見も増えていき、そうして体験したがるように振る舞う行為なので自ずと自身の求めている真実を知ることになる。

今何をしたいか、何を求めているのか、それを知りたいなら自身に問いかけてみるのが良い、となる。

・例
不安だ
 何が不安だ?
  よくわからない
   体調はどうか?
    悪い
     どう悪い?
      余り寝れていない
       ならば一度寝てみては?
      寝たがまだ不安だ
 何が不安だ?
  よくわからない
   体調はどうか?
      良い
       生活はどうか?
        満足していない
         何が足りない?
          もっとお金が欲しい
       生活はどうか?
        出来ている
         なら物欲じゃないのか?
          欲しいものは無い
    なら金銭はいらないのでは?
   そうか承認されたいのかもしれない
    ならば誰かに会ってみては?
     会ってみたらすっとした
      不安はあるか?
       無くなった
   不安感の原因は寂しさ(ゴール)

例は少々変な書き方をしているが、これは個人的な使い方でプログラミングのように書いていくことでその起因と原因と結果をあとから読んで目で見てわかりやすいからしている、スペースの関係でこの中では多少ずれるから基本は紙とペンで行っているが、行間の合う所が起因で原因を探っているからまず題を出してそれに答えている、難しい問いだと何日もかけて問いかけることになる。

日を空けると俯瞰性も増すので割と失敗がない、この道中でわからなければ調べたり体験しに行ったりする訳だ。

不思議と書いている途中で楽になったりもする、案外気圧の関係だったり、季節的な悩みだったりするからだ、寒いとか暑いとか冷房疲れとか暖房疲れとか案外単純なものから、果ては心理的な選択疲れから来ていたりとわかりずらい要素もあったりする。

こういった具合に自問をひたすらに理屈のみで問いかけると漠然とした不安の正体さえも何が欲しいか足りないのかも明確に出来る、これが他者の介入が無い本当に自身が欲している要素で、それがどれだけ他者からみてつまらないものであってもその者の真実となっている。

自問自答を書き出すことで自身の本質がわかる。

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