30本目 霞ヶ関出向物語③
1.会議室は誰のもの
規制改革の実務担当者レベルの打合せ
会議室の予約をする必要があった。
あいにく、我々の組織が予約可能な会議室は、数が相当少ない。(大2つ、中1つ、小1つ)
加えて、当時はコロナ禍。感染拡大防止のため、換気がしやすい大会議室は、予約必至だ。
『いかとんくん。』
『週末の打ち合わせの場所は、どこかな?』
『はい、中会議室を予約しています。』
大会議室は、すでに他班で予約されていた。
『フゥン…それって、充分な感染拡大になり得る場所なのかな?』
『はい…窓は開けれますし、ドアを開放して席を離せば、感染防止にはなるかと…』
『それってエビデンスある?』
後からヒナの評判を聞いてわかったことだが、何か自身の解釈や都合が曲げられそうになるとエビデンスを求める。
通称『エビ課長』と呼ばれているくらい、評判の口癖のようだった。
『エビデンスはありませんが…広い会議室はこの日、他の班で埋まってまして』
『ボクがその班に電話するよ。広い会議室はなんて部屋?予約しているのは誰?』
『どちらが優先的な案件か、ボクが喋るよ。』
『ボクが直接交渉してダメだったら、総括参事官と、上の審議官に言うから。』
2.舟は助けに来たものの
去る令和2年9月。
人事実務を担当している梶山企画官からメールがあった。
『お疲れ様です。突然のメール失礼します。本日定時後の時間、30分ほどいただけますか。』
梶山企画官は総務省からの出向。
私より年齢は10ほど上のキャリア官僚。
唐突な連絡に戸惑いながらも、夜を迎える。
『参事官のことで、なにか困ったことはありますか?やりづらいこととか…』
ヒナのことだった。
まだ何も解決はしていない。
ただ、100キロのおもりが90キロになった。
それだけでも相当負荷が軽く感じられた瞬間だった。
・7月にヒナが異動してきてからというもの、自席の前に長時間座らされ、拘束される。
・こちらの意見を言えない。
本人は『ボクの解釈に何か間違いがあったら、どんどん言ってくださいねぇ。』と言うが。
意見すると10倍で返ってくる。
・班員が萎縮してしまい、出勤できなくなった職員が2名いる(自治体からの出向、某省庁からの出向)
・残業の申請書のハンコを押してもらえない
梶山企画官はとても親身になって聞いてくれた。
梶山企画官
『実はいかとんさんの班の、佐々木補佐から話を聞きました。いかとんさんだけじゃなくて、班の皆さんに、こうしてヒアリングをしてるんです。』
『皆さん、口を揃えて萎縮するというワードで訴えてますね。』
『早いうちに、組織として対応します。また何か大きな動きがあったら、逐一教えてください。』
3.カンタン、カイゼン。
梶山企画官との面談の翌週。
ヒナのモーニングルーティンは消えていた。
9時30分。
『丸谷さん、ちょっと。』
この前、残業申請のハンコのことで揉めていた丸谷さん。
『丸谷さん、残業多いですよね。君の体調がとても不安なんだ。とても心配してる。』
『だから、今からキミの自治体の人事に電話して、ボクが残業させてすみませんって言うから。いいよね?』
『皆さん、残業はしないで帰ろうね。(ニッコリ)』
後から聞いた話だが、先日の企画官ヒアリングを受け、組織内の事務方No.2の審議官よりヒナへ『注意(口頭)』がされたようだった。
…ほんとうに響いているのだろうか。
…あの電話がけが、ヒナの答えなのだろうか。
※その後の対応
その後、組織内にセクハラ・パワハラ相談窓口が開設された。
だが、その後この制度は陽の目を浴びることなく、消えゆくものとなった。
また、その後のヒナの行動・言動はお見込みの通り。喉元過ぎれば、熱さは無かったものとなっていった。
〜セクハラ・パワハラ相談窓口について〜
※後日談ですが、私の出向が解かれる令和5年3月時点で、この窓口の存在を把握している職員は、誰もいませんでした。
その理由は、2年スパンで異動していく職員がほとんどであったため、3年経過したら、もはや開設当時の経緯を知っている人は誰もいなくなってしまったというもの。
制度はつくったものの、『窓口に相談する手前の動線』を明示できていなかったのが原因かと分析します。