俺はフル・モンティ
『あいつの書くものはまるでパンツを履かないで外を歩いているようなもの。私にはとても恥ずかしくて書けない』
俺の書き物は、こんな風に揶揄されたことがある。それまでさほど絡みもなく、いつもいいねを押してくれる一介のフォロワーだった彼の唐突なカミングアウトだった。
ことの発端は、俺のゴシップ記事(笑)を書いたひとりのブロガーに対して『もっとキレイな記事を書いたらどうか』とため息まじりで俺がひとことコメントしたこと。
本当はもっと言いたい事もあったが泥試合などに発展すれば大火傷だ。物見遊山の閲覧数は爆あがりすれど良い事など一つもない。相手のブロガーも鬱と恋の病で尋常な状態でないことは文章からも汲み取れた。やむを得ず貰い事故だと思って諦めようと選んだ選択だった。
……が。そのひとことのコメントが、何故か一連のゴシップとは塵ほども無関係な彼の神経を逆撫でし『ゴシップ記事も面白ければいいではないか』との紳士風な持論展開から単独でコメントはヒートアップ。結果冒頭のセリフにより暗に俺に対して『お前の作風はキモいんだよ』と伝えるに至る。
そんな彼が、フル・モンティの俺の文章に日々熱心にいいねを押してくれた動機はなんだったのか今となってはわからない。彼の書くものは『職場の人間に対するThe昭和上司全開の愚痴シリーズ』以外は割とハイセンスで(否、あのシリーズこそある意味彼の真骨頂だったのかもしれないが)俺は単純にあの世界観の作り込みが好きではあったのだ。どんなシチュエーションに於いても相思相愛とはなかなか実現しないものである。
当然この手の書き物に対する揶揄に関しては書き手として嫌な気持ちにはなる。
しかし、だ。それはパブリックなステージでものを書く以上、避けて通れないものであることも知っている。かの村上春樹氏にすらアンチは存在するのだ。『おキレイな文章』を毛嫌いする者は多かれ少なかれいるけれど、それは単に好みの違いに過ぎない。彼の様に他人のゴシップ記事を心から楽しんで読める読者も意外に多いとは思うし、なんなら世の中、炎上商売なんてものもある。売り方、楽しみ方は星の数だ。
と、ここまで考えてふと思う。100%昭和紳士な彼にとってのフル・モンティとはおそらく『いい歳の男が内面の情緒的な事、自らの弱音や悲しみを表に晒すこと』と思われる。そこについて彼はパンツを履いていたい。否、パンツを履いているつもりなのだろう。
ところが、当の俺ときたらその辺まったくパンツを履く気がない。むしろ俺にとってのフル・モンティは『自分が他人に対して何かしらのマウントをとりたがっている姿がバレる事』であり、そこに関して彼は完璧にフル・モンティなのだ。
そう。ものを書くということは、内側にあるものを表現する行為である以上、普段外には出さない禁忌なものがどうしても透けてくる。書き手には公の場でそれを見てもらいたい衝動が根底にあり、またそれが他人にも存在する様を覗きたいと思う衝動が『読む』という行為だと俺は考える。
完璧にパンツを履いた文章を書きたいならば、一生電化製品の取説でも書いていればよかろう。
noteはとるに足りない小さなパブリックかもしれない。それでも俺のとびっきりのフル・モンティを楽しみに毎日noteを開く読み手がひとりでもいるならば、俺は胸を張って今夜もノーパンで舞台に上がる。
フル・モンティ上等。
パンツなどクソくらえだ。