アウレリアの住むコスタリーカを後に日本へ帰国した僕はまっさきに九州のお袋に報告した。 「ついに理想の女性に巡り会えたような気がする」 「まーそんな遠くの人じゃなくて近くにいい娘がいっぱい居るのに」 「地球の果ての、違う世界の娘がいいんだよ」 と煙に巻いた。 それからの毎日は心の中にアウレリアへの憧憬を抱き、希望に溢れ、充実した仕事と日常生活が戻ってきた。 世界が輝くように美しく見え、何に対しても不満はなかった。 女房に捨てられて以来、大学生の弟のアパートに転がり
少し話しが遡るが、典子と結婚した当時僕は27歳でノースウエスト航空会社の運行部のクルースケジュール・スペシャリスタ・セクションというタイトルのいわば乗務員課に勤めていた。 仕事の内容は航空機の乗務員であるパイロットやキャビン アテンダント(客室乗務員)のフライト スケジュールを作ったり、彼らの乗務前後の面倒を見ることであった。 例えば仕事を終えた乗務員に飛行機から降り立った後ホテルに行くためのリムジーン タクシーを手配することや、出発便に予定通りの乗務員全員が揃うように手
翌日も同様に午前中にアウレリアのところに日参し、ごく自然にたわいなく会話を交わした後、午後の再訪問までの間、ジョーに会いに行くことにした。 「オレはアベニーダ セントラル(中央通り)沿いのホテル・イスパーニャにいるから、エイシーいつでもヒマな時に寄ってくれ」 と彼が言っていた。 ホテルは木造二階建てのわりと小さな安宿であった。 笑顔で僕を迎えた彼は、 「オーよく来てくれたニューフレンド、ここがオレの寝ぐらの安宿だ」 「それでも月額にすれば相当するだろう」 「ウイク
彼女と初めて会ってから、四、五日めの朝、一日中アウレリアに張り付いているわけにもいかないので、手持ちぶたさにアベニーダ・セントラル(中央通り)をブラブラ歩いていると、道の傍で斜め前からいきなり声をかけられた。 「へイ ジャパニーズ、助けてくれ」 と大柄なアメリカ人らしき男が膝を地につけ伺にすがって立ち上がろうとしていた。僕は彼の腕を支えて立ち上がらせた。 「イヤー、リュウーマチの痛さで急に足がよろけた。サンキュー」 「どうして僕が日本人だとわかった?」 「やっぱりそ
その年も暮れて新年をむかえる、思うところがあって会社に三週間の休暇と割引旅行の申請をした。 典子と結婚する前の大学四年生の時にやったヒッピー旅行がたまらなく懐かしくなって、思い出のメキシコ中米へセンテイメンタル・ジャーニー(感傷旅行)に出かけたくなったのである。 すでに7年前になるが、その時はハワイを起点に、合衆国本土、カナダ、メキシコ、中米、と終着地点のパナマまで二年近くに渡り放浪したものであった。 途中ホノルルやコネテイカット州のニューヘブン市でアルバイトをして旅費
11月晩秋の銀座は霧雨にけぶっていた。 肌寒く陰鬱な夕暮れが僕の気持ちをさらに憂鬱にしていた。 スーツにネクタイを身につけた僕は約束の時間より少し前にやって来て、神妙な面持ちで数寄屋橋公園の交番傍に一人佇んでいた。 頭の中が混乱してどう振る舞っていいか皆目わからなかった。 二ヶ月前に三行半を突きつけられ、縁を切られた元女房に再会するように促されて、ここに来ていたが、会わなければそのままそっと忘れてしまえただろうにと思う気持ちと話し合って再びヨリを戻したいという気持ちが
早田英志という人物をご存じだろうか。 1940年埼玉県生まれ、現在は80歳を越えた好々爺にしか見えなが、日本でただ一人の「冒険者」である。 「冒険家」は日本にも多く存在する。だが「冒険者」は早田英志だけだ。 早田英志の人生を知れば、皆その「冒険者」の生き方に憧れ、心躍らせる。 「冒険者」が、想像以上のリスクの上に成り立っていることに恐怖する。 この物語は、「エメラルド王」の称号に辿り着く「冒険者 早田英志」が生きてきた、冒険と恋と血と硝煙の日々を綴った真実のドキュメンタリ