お世話になった我が家の車
小学5年生くらいの頃に、家の車が買い替えられたときの話。
当時、私は自己中心的な自分が嫌いだった。
どうにも「思いやり」が苦手で、咄嗟の時には自分を優先した言動を選んでしまうところがあった。
小学生だった私にとっての「思いやり」は、道徳でとても褒められるもので、獲得すべきもの。
自分はそれが出来ない側なんだと意識させられるのは辛かった。
たぶん今でもその自己中心性は克服できていないけれど、少なくとも自分のそういう一面を受容することは多少できている。
だけど、当時はどうしても認めることができなくて、コンプレックスになっていた、と記憶している。
自分はきっと「他者想い」を知らない。そんな人間なんだ。という意識があった。
たとえば、叱られたり痛い思いをしたりしたときは秒で泣き出すというのに、感動で泣くことがない。
特に二分の一成人式は地獄だった。
普段はちょっと先生に注意されただけでぼろぼろ泣くっていうのに、両親からの手紙では泣けないんだ。
そんな自分の本性への失望をひとり俯いて飲み込んでいたことを覚えている。
どんな他人の感動話よりも、自分につけられたちょっとの傷の方が、心を強く反応させる。
自分なんてそういう奴なんだ、と本気で思っていた。
そんな私は、初めて愛車との別れを経験することになる。
私が物心ついたころには、家の車はその車だった。
親が運転する車の中の景色の記憶は、遡る限り同じ車のもの。
私が生まれて間もない頃は違う車だったらしいけど、記憶にはない。
昔、親が中古で買った8人乗りの白い車。
代々、我が家の車は中古のものらしい。
新車とか外車とか、車にそんなこだわりを見せられる財力は我が家にないし、必要もない。
車を夢でもステータスでも何でもない単なる生活用具として捉えてしまえば、それで十分だ。
車が必要な生活をしているので、中古からコスパの良いものを選び続けているだけ。
出会い方はそんなものでも、親は我が家に迎え入れた車として大切に使っていたし、何も知らない幼き私にとってはその車が日常の一部だった。
しかし、形あるものはいずれ壊れるもので、車を手放す日もやって来る。
ずっと乗ってきた白い車とお別れをする日、新しく我が家に迎える車の待つ車屋さんへ向かう車内、私もそこにいた。
いつもと何も違わないはずの車内の景色が、どこか違った色に見えた感覚は今でも何となく覚えている。
いつの間にかお気に入りになっていたいつもの助手席。
心地は良いけれど、柔らかさはやや控えめなシート。
まだカーナビ機能もなかった運転席横、備え付けのCDプレーヤー。
10年ほどもの間、いつもそこにあったもの。
そのひとつひとつに触れる感覚が、とても大切なもののようだった。
今思えば、車とお別れする場所までその車に乗って行くというのが、何ともその切なさを助長しているようにも思う。
お店にはあっという間に着いた。
そこでは今までお世話になった白い車とお別れして、これからお世話になるグレーの車とはじめましてをしたのだけれど、そのグレーの車とのファーストコンタクトのことは覚えていない。
ただし、白い車を最後に降りた瞬間のことは鮮明に覚えている。
私のその日の記憶は、白い車を降りたところで止まっている。
最後、助手席から降りてドアを閉めたとき、車体を少し撫でた。
家族に見られると恥ずかしいから、ちょっとだけ。
初めての車とのお別れは、とても切なかった。
別に泣いたわけじゃなかったけど、物想いを抱えた顔はしていたと思う。
親の接し方も、何かそれを察しているような感じだった、気がする。
ただその日、他人への情を上手く抱けないことを憂いていた一人の小学生は、車好きでもないくせに、人ですらない物を純に想うことができた。
ちゃんと、自分が深い愛着を覚えられる人であることを感じられた。
本当に幼かった頃から私の成長を見守ってくれたその車は、最後に一つの克服体験をくれた。
そのときに新しく迎えた中古の車も遂にガタが来た。
間もなく我が家は次の車をお迎えするらしい。
先日、夕食終わりに母親からその知らせを聞いた。
「うちの車変わるから」
明日出掛けて来るから、と言うくらいあっさりと。
しかも、次の車ももう決まったらしい。
歳の離れた私の妹は「え、今の車お別れ?」と訊く。
白い車とお別れをした当時、妹はまだ物心の有無も怪しいくらい幼かった。
その妹が、突然今の車との別れを告知されて、ダイニングの隅であの日の私に似た顔をしている。
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