私が人に「ずるい」と言わない理由

「言わない」というよりは、「言えない」だけ。
無意識だけど、本当は自覚していたらしい。 


「ずるい」なんて軽い言葉

「ずるい」って、とても便利な言葉だと思う。

誰かに軽く抗議したいとき、簡単に使える。
「ずるーい」って、ちょっと噛みついてみる。

ずるい」っていったら、その字の如く、平等でなかったり、悪知恵が働いていたり、いわば正当でフェアじゃない態度のことを意味するもの。

だけど実際には、「ずるい」なんて、特に狡猾な行為をしたわけではない相手にも簡単に使われる。

たとえば、くじ引きで当たったとか、ちゃんとした理由があって学校を早退するとか。
本人が悪知恵を駆使して不当な利益を得たわけじゃなくても、誰かが「ずるーい」って言う。

そこに狡猾さなんてなくても、正当な理由があったとしても、偶然の産物であっても、「ずるい」という言葉は発されるのだ。

そもそも、「ずるい」って言ってる本人が、別に「狡い」って思っていないことも多い。
ただ単に、自分は受けられなかった恩恵を自分以外の誰かが得られた時とかに、「いいなー」くらいの軽い羨望から簡単に飛び出てくる語彙が「ずるい」だ。

別に本気で相手を責めたくて言うわけですらない。
だからちょっと笑いながら明るく言えるし、言われた相手も笑ってリアクションできる。

本当に"ちょっとした"抗議。非難ですらない。

それぐらい、「ずるい」は簡単に使える言葉、だと思う。


だけど私は誰にも「ずるい」と言わない。

何をされても、基本的に「ずるい」とは言わない。
本当に狡い相手に抗議するときも、別の言葉を使う。

意識して、言わないように気をつけているわけじゃない。
言わないようにしよう、なんて一度も思ったことない。
にもかかわらず、確かに、私は「ずるい」と言わない。
それこそ、相手が本当に狡くても。

私が最後に誰かに「ずるい」と不平を漏らしたのはいつだったかな。
全く覚えていないけど、ひょっとしたら、小学生くらいまで遡ってしまうのかもしれない。


私が「ずるい」と言えなくなった理由

「ずるい」という便利な言葉を、自分の辞書から削除してしまっていたことに気づいたのは、高校生の頃。

久しぶりに、友人に「ずるっ」って言われて、なんか違和感があった。
なんだか微妙に、不快感があった。
別に、友人は本気で「狡い」って言ったわけではない。例の、思ってもいない「ずるい」という単なるリアクションだ。
私は、友人に「ずるい」と言われたことが不快だったわけではなく、「ずるい」という言葉に関わりたくないな、と咄嗟に思った。
「ずるい」が目の前に突如現れたことで、反射的にそれを避けたくなったのだ。

謎の忌避感情。
そしてその謎は、一瞬にして解けた気がした。

私は人に「ずるい」と言える器じゃなかったんだ。

幼い頃の私は本当の意味で狡い子だった。
いつだって一番は自分の保身。
物事の危険性を理解できていない小学生特有のわんぱくなお友達とのお遊びでちょっとした騒動を起こしてしまえば、まるで自分は最初から関わっていないかのようにしれっと逃げる。
誰かにちょっとでもからかわれたら、自分が人にした意地悪なんてなかったことにして大人に泣きつく。

ちょっとばかり得意だった勉強。
自信過剰なだけのリーダーシップ。
口だけでは言えた、大人に気に入られる「しっかりした子」の発言。
弱い子振って補正をかけた臆病な性格。
それらをアピールして、優等生の皮を被る。
自分が悪かった出来事とは向き合わないように立ち回りながら。

当時はそれを自覚しないでやってのけていた。
自分の狡猾さになって微塵も気づいていなかった。
幼い私が見ていた自分自身は、周囲から意地悪される"被害者"。
加害者としての自分を、ずる賢い自分を、一切知らない。
完全に無邪気な、頭脳犯だ。

本当に幼い頃は、きっと「ずるい」なんて人に言っていた。
だけどたぶん中学生になる頃には言わなくなっていた。
その時はまだ自分の狡さを自覚できてはいなかったけれど、心のどこかで、知らないうちに、気づきつつあったのだろう。

中学生なんてそういう年頃だ。
自分について少しずつわかっていく。
でも完全にはわかっちゃいない。
大人になっていく心と、まだまだ子どもの心。

自分が狡い人だと認めたくない。だけど否定もできないほどに気づいてしまった。
そんな思春期の複雑な心情は、無自覚のうちに大きくなっていた。
そして、私は「ずるい」と言えなくなった。

本当に「狡い」私は、人に「ずるい」なんて言えたもんじゃない。
「ずるい」という軽い言葉が、まるで鏡のように私の「狡さ」を映す。

おもしろいのは、それがずっと無自覚だったこと。
無自覚なのに、「言わない」という言動にそれが現れていたこと。
無意識だけど、無自覚だけど、知らないところで自覚していた。

高校生になってようやく気づいた。


認めたくない弱みを自覚しないようにしているのだろう

ひょっとしたら誰しも、気づかないように、認めないようにしてる弱みがあるのかもしれない。
本当の意味で自覚してしまわないように、気づかないレベルの自覚に留めておくことで、私たちは自己肯定感を守っているのかもしれない。

思春期の私は、自分の狡さを自覚しないように暮らしていたらしい。

他にもあるのかもしれない。
まだ、気づいていない自分の欠点。
無意識のうちに、認めたくなくて蓋をしてる汚点。

今は意識の下に潜っている弱みも、何らかのサインを発しているのかもしれない。
私の場合、「ずるい」と言えないところに狡猾さのサインが出ていた。

友達や家族、その他の知り合い、知らない人たち。
よく見てみると、明らかに避けている言い回しや行動が、あるのかもしれない。

別に、誰かの隠された弱みに気づいて優越感を得てやろうとかそういう魂胆はない。

ただ、本当に信頼し合える人とであれば、こんな話をするのもいいかもしれないと思った。
多少自分の残念なところを見せたところで、関係の壊れない相手とならば、なかなか認められない自分の弱点も、本当に大切な人との信頼関係を深めるきっかけに昇華できるんじゃないだろうか。


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