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江藤淳 著「考えるよろこび」を読んで

江藤淳の書籍で最初に読んだのは「閉された言語空間-占領軍の検閲と戦後日本」の英訳版でした。
英訳版をあえて読みたかったというよりは、たまたま手に入ったのが英訳版の電子書籍でした。
ちなみに英訳版のタイトルは「Closed Linguistic Space: Censorship by the Occupation Forces and Postwar Japan」(公益財団法人日本国際問題研究所が英訳)。

それが私にとって江藤淳との「出会い」となりました。

今回読んだのが「考えるよろこび」。



江藤氏が1968年から1969年にかけて行った講演を書籍に収めたもので、テーマは「考えるよろこび」「転換期の指導者像-勝海舟について-」「二つのナショナリズム- 国家理性と民族感情-」「女と文章」「英語と私」そして「大学と近代- 慶應義塾生のために-」。

「考えるよろこび」というのは、まさしく英単語のphilosophy(哲学)の語源ですが、対話で精神を語ろうとしていたソクラテスの話から始まります。

勝海舟の話や二つのナショナリズム(閉ざされたものと開かれたもの)の話は、講演から60年近く経った今でも通用する内容で、むしろ今だからこそ読む価値がある講演だと思いました。

また「女と文章」「英語と私」も文学や言語学習の観点から見て、先見性がある見方をしていたのではないかと思います。

「文化のパターンを最も包括的なかたちにあらわしているのは言語でありますから、この言語の構造の異質性は、どんなに外国語修得の技術が向上して、外国語に堪能な人が多く出ても、容易に超えられないと思います。そういうものだということを自覚したときに初めて、ほんとうのインターナショナルな理解が可能になってくる。完全に一致しないということをお互いが認め合えたときに、この理解は全く普遍的なものになり得るのじゃないかと思います」


しかし彼が伝えたかった事の核心とはこちらではないでしょうか。

「考えるよろこび、知るよろこびというものは、別に他人に見せるためにすることではない、自分というものの正体を見きわめ、それを自分たらしめているなにかの実在をたしかめるためにすることだ、ということにつきます。いまの世の中が、その反対の傾向にみちみちているだけ、それだけまた考えるよろこびも深いといえるでしょう」



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