翻訳者の始まり【弱小翻訳者のつぶやき】
そんな私がどのように翻訳業という道に偶然迷い込んでしまったか、ざっとですが書いてみます。
重ねて申し上げますが、他人の来歴は本当に役に立ちません。
フリーの特許翻訳者としてスタートするまでの略歴
背景・・・理学部化学科の出身で理系にしては英語が得意というだけの人間
約30年弱前・・・結婚直後、訳あって特許事務所でパートの翻訳者として働き始める。当時、英語資格は国連英検A級しかもっておらず。時給780円。でもここで国内&外国特許について勉強させてもらう。
その4カ月後、オット氏の転勤が決まる。事務所に平謝りで退職、引っ越し。
知り合いの紹介で在宅翻訳者としてのトライアルを受けるも、書類選考すら通らず・・・英検もTOEICも受けたことなかった状態だったので、まあ当然。そこでとりあえず、英検1級を受けよう!と思い立つ。
その直後、妊娠。
出産、事務職員として働きながら育児。当然、英語の勉強は遅々として進まず。
子どもが3歳くらいになって少し手が離れた頃から、英検を受け始め、4歳くらいの時に英検1級一次試験通過。二次試験不合格。
2度目の二次試験を受けるべく準備してたら、第二子妊娠・・・
安定期に二次試験を受けられることが判明。妊娠状態で準備を続け、大きいお腹で面接試験を受けに行って合格。おそらくおめでたポイントを加算してくれたものと(違)
約20年前・・・第二子出産。また転勤、引っ越し(涙)
一番目が小学校入学、二番目が赤ちゃんの間にメディカル翻訳の通信講座を受ける。上の子が学校に行って下の子が寝てる間に勉強を進め、優秀生として修了。でも特に仕事に結びつかず。
そんなある日、特許事務所で一緒に働いていた人から、とにかく山のようにバイオテクノロジー分野の特許翻訳(英日)の仕事があってさばききれないから手伝って、と連絡あり。「大学で化学が専門だったんならバイオもわかるよね!」というなかなか無理筋な依頼ではあったが引き受けることに。
そしてこれ以降、本当に次から次へと山のような特許翻訳の仕事が押し寄せてくることになり、フリーランスの特許翻訳者としていつの間にかスタートする。
2000年代初頭の時代背景と翻訳事情
すぐに翻訳の仕事を得られたのは当時の特殊な時代背景の影響と思われます。2000年、ヒトゲノムの解読があらかた完了し、アメリカから「遺伝子特許」というものが山のように日本にやってきた時代でした。それと同時に創薬にもコンビナトリアルケミストリーという革新が起きて、新薬候補の化学物質が続々と出てきました。現在隆盛を誇っている「ゲノム医療」「免疫療法」の基礎が誕生した時代でした。なので、新薬を作り出せそうな遺伝子配列、新薬候補になり得る化学物質についてとにかく片っ端から特許を取る、というアメリカの戦略の下、日本にも国際特許申請が怒濤のごとく押し寄せてきました。しかもアメリカの特許申請書って信じられないほどのページ数でした。1件A4 300ページ分を3人がかりで1週間で翻訳せよ、などという仕事もありました。そんな時代だったので、本当に「ネコの手」でいいから翻訳者を集めろ!ということで、何の実績もない、専門も全然異なる私のような素人にも、それなりの年収(それでも数百万程度)を稼げるほどの仕事がやってきたのです。当時、日本の特許申請の制度には「翻訳のための猶予期間」が設けられておらず、とにかく一日でも早く仕上げろ、ということで、睡眠時間を削り、土日休日も返上で仕事をしました。
当時の仕事の雑なことと言ったら、穴があったら入りたい・・・。
でも、とにかく泣きながら訳もわからない特許文書を読みこみ、翻訳するために専門書や専門辞書を読みこみ・・・としているうちに、全然専門外だったバイオテクノロジーについて、なんとなくコトバがわかるようになっていきました。仕事が空いたときには分子生物学や免疫学の教科書も読みあさり、ときに近所の大学の生物学の講義にもぐりこみ参加させてもらって勉強し(良い時代でした)・・・としているうちに、バイオや創薬についての基礎知識が身についていくようになりました。
もはや時系列がよくわからなくなりましたが、そんな怒濤のように仕事をこなしているある日、運命の出会いがありました。
(長くなったのでまた今度)