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北斎訪ねて、いざ小布施 (前編)

 小布施でどうしても、もう一度目に焼き付けておきたいものがある。
それは、葛飾北斎の作品。

食べる時間、寝る時間も惜しんで憑りつかれたように創作にのめり込んでいたとされる北斎。
晩年は、自らを「画狂老人卍」と号し、素晴らしい作品をここ小布施にも残している。


そんな小布施は、古い友人川上氏が住む特別な町でもある。
年賀状だけで40年ほど繋がっていた彼のところに突如として会いにいったのが8年ほど前のことだ。

大学卒業直前に父親が急逝するという不幸から地元小布施に戻り家業のりんご農園を継ぎ、株式会社にまで育て上げた男だ。

今回、小布施では川上夫妻と一献傾けること、そして北斎縁の地なので北斎館、岩松院を訪ねることである。

ここで作っているりんご、ぶどうはとっても甘味が強く美味しいのでお薦めしたい。

除草剤、化学肥料を使わず土作りから拘っているので、甘味が全く違うのだ。
兎に角、美味しいので、百聞は一見にしかずで一度お試しあれ。

これからの時期シャインマスカットなど旬のブドウが楽しめます。


話を戻そう

🔶葛飾北斎(1760~1849)

 奇才とも鬼才とも称される北斎は83歳から亡くなるまでの間、4度に渡りこの小布施を訪れ作品を残している。
名前を変えること30回、転居回数93回とされる北斎。

そもそも、何故、小布施を訪れたのだろうか?
片道250kmもの道のり。
健脚だったとはいえ、80歳越えの高齢者が簡単に来れる距離ではない。
片道8日間掛けてやって来たとの記録があると訊く。
1日平均30km強。 
時速4kmで歩いたとしても8時間。
どうみても、かなりの健脚の持主だ。

きちんとした栄養バランスなんか摂れない時代、粗食だったであろうから生まれつき持久力のある体躯の持ち主だったのだろう。

だからと言って、何に引き寄せられて小布施に向かったのだろうか?

幕府による天保の改革によって江戸では絵の制作が制限されたとも、地元の豪農・豪商の高井鴻山(1806-1883)の招きに応じて訪れたとも謂われているが、いずれにしても相当居心地が良かったから足が向いたのだろう。

江戸では借家暮らしで汚なくしていたので、家主から追い出されることも度々だったろうし、小布施に向かった一番の理由は絵を描くのに必要な材料が豊富に揃っていたことも大きな要因だと思う。

寝食に気を使わず、画材だけでなく、顔料、中でも岩絵具などを惜しみなく揃えてもらっていたので描きたい物を描きたい時に自由に描ける〝場〟が小布施にあったから、遠かろうが時間がかかろうが必死になって目指してきたのであろうと想像がつく。

とりわけ、後編に出てくる岩松院がんしょういんの天井画を完成させることに命を燃やしていたので、小布施に4度にも渡って訪れたのであろうと推察する。

北斎と言えば、近いところで言えば米雑誌「LIFE」で過去1000年間で最も偉大な業績を残した世界の100人に日本人として唯一選ばれているが、フランスでかつてジャポニズムというブームが起き多くの画家、芸術家に多大なる影響を与えた中心人物であることは皆様ご存知の通りだ。

エドゥアール・マネ、クロード・モネ、ピエール=オーギュスト・ルノワール、ポール・セザンヌ、エドガー・ドガ、フィンセント・ファン・ゴッホ、ジェームズ・マクニール・ホイッスラー、ポール・ゴーギャンら多数の画家が北斎の影響を受けたとされる。
その他、音楽家のクロード・ドビュッシーや彫刻家のカミーユ・クローデル、ガラス工芸家エミール・ガレなど、他の分野の芸術家への影響も言及されている。

葛飾北斎が影響を与えた芸術家
出典:Wikipediaより引用

詳しくは下記をご覧ください。



さあ~て、小布施に到着したよ。



北斎館の入口付近には、神社の参道のように素敵な店構えの街並みが。


🔶信州小布施北斎館

 北斎は80歳代半ば、地元の豪農商・高井鴻山(1806~1883)の庇護のもとに、岩松院や東町・上町祭屋台の天井絵を描きました。
当時の小布施は繁栄を誇り、北斎をはじめ文化人たちを惹きつける魅力ある町でした。
北斎館は、これら天井絵のある二基の祭屋台と、長く受け継がれてきた肉筆画をもって、昭和51年(1976)11月に開館しました。
肉筆画を中心に、版本や錦絵など、北斎の画業を広くご覧いただけます。

出典:信州小布施 北斎館ホームページより引用


高井鴻山は、儒学者、浮世絵師。
陽明学の教え「知行合一」の精神で「国利民福」を唱えた。
国利民福とは、国の利益と人民の幸福のことである。

鴻山は、北斎に弟子入りして浮世絵を習い、互いに「先生」「旦那さま」と呼び合っていたそうである。
鴻山は、パトロンであり、浮世絵の弟子でもあった訳だ。
鴻山、晩年は北斎の影響で妖怪画を数多く残している。


因みに北斎が人生の大半を過ごしたお江戸東京にある、すみだ北斎美術館については下記をご覧ください。


ここで、なんとなんとアクシデント発生!

出発直前に判明したことだが、訪問日8/19は翌日からの数年に一度の燻蒸日前日ということで肉筆画が見れない。
屋台だけを鑑賞することになってしまった。
誠に残念である。
仕方なく、肉筆画については、HPから拝借することとした。

🔷上町祭屋台

怒涛図「男浪」実物
浪は勇ましく、渦に吸い込まれるようだ。
怒涛図「女浪」実物
男浪と比べると、穏やかな浪で
ゆったりと渦巻いている。


上町祭屋台①
※天井絵はレプリカです。
上町祭屋台②
拡大するとこうです。
右:男浪
左:女浪
※天井絵はレプリカです。


上町祭屋台③
前方から


🔷東町祭屋台

「龍」図 実物
生き生きとした胴体、
眼つきを見ていると何か
を語り掛けてくるようだ。
「どうだい、近頃うまく
いってるかい?」
「鳳凰」図 実物
鳳凰の方の眼は羽根の
隙間からチラっと覗いて
いますが、物憂げで何か
哀し気な眼つきで語り
かけてきます。
東町祭屋台①
左:鳳凰
右:龍
※天井絵はレプリカです。
東町祭屋台②
左:鳳凰
右:龍
※天井絵はレプリカです。
東町祭屋台③
前方より

印象として、龍と鳳凰が北斎の分身として語り掛けてきたのには驚かされた。
緻密に塗り重ねられた色彩や構図が素晴らしいのは言うまでないが、晩年の最終局面を迎えていた北斎だからこそ、何か訴えかけるような作品になったのではないかと改めて思い知った次第。



ここからはHPからです。

🔷肉筆画作品

富士越龍ふじこしのりゅう
出典:信州小布施北斎館ホームページより引用

北斎晩年の作で絶筆とも言われています。
富士山を描くことに力を注いだ北斎は最期に富士山を描きました

黒雲を巻き上げながら富士を越え天高く登っていく龍。
北斎は自分自身の最期を龍にたとえ、天を目指す姿を描いたのかもしれません。

出典:信州小布施北斎館ホームページより引用

尚、本作品については、他の北斎の絵に無い特徴を備えていること、筆致や絵の画面配置などが娘の葛飾応為が描いた『夜桜美人図』に一致するとして、作品の全部あるいはほとんどを応為が手掛けたのではないかと推察もされている。



白拍子しらびょうし
出典:信州小布施北斎館ホームページより引用

白の狩衣に真っ赤な緋袴をまとい、金の烏帽子をつけたこの男装姿の白拍子は、源氏物語に登場する源義経との悲恋で有名な静御前と思われます。
腰に大太刀を携え、手に扇を持って立つ姿からは凛々しさと艶めかしさが伝わってきます。
北斎が為一を名乗った60代頃の作品です。

出典:信州小布施北斎館ホームページより引用




椿と鮭の切り身
出典:信州小布施北斎館ホームページより引用

美味しそうな真っ赤な身の鮭の切り身と椿の花。
描かれたモチーフの取り合わせは北斎らしい斬新なものです。
北斎81歳の頃に描かれた作品です。

出典:信州小布施北斎館ホームページより引用





菊(双幅)
出典:信州小布施北斎館ホームページより引用

赤や黄色、青といった様々な種類の菊が描かれています。
この作品は二幅の掛け軸が一対となって一つの作品となっており、その豪華な姿は見るものを圧倒させます。
菊を立体的に見させるグラデーションを使った描法は、まるで本物の菊を見ているかのような感覚に陥らせます。

出典:信州小布施北斎館ホームページより引用





手打ち蕎麦とまいろう。


さて、長野と言えば、蕎麦である。

🔶手打百藝おぶせ

店入口


そば打ち場
店内
メニュー
メニュー

女将さんのお奨めを訊いた上で、御前二色そばと三種そば、天婦羅を注文。
御前二色そばは、「更科さらしな」と「発芽そば切り」。
三種そばは、「更科」、「発芽そば切り」、「挽きぐるみ」の三種。

発芽そば切り
三種そば


天ぷら


🔷じっしょ〜く

発芽そば切りは、もちっとした食感。
挽きぐるみは、更科と発芽そば切りの中間の食感だ。
天婦羅がサクサクカリッカリなので、ビールが欲しくなってしまった。
クルマなので、ざんね~ん。


次の後編では、岩松院がんしょういんに向かいます。
お楽しみに!


後編はこちら


#葛飾北斎 #小布施 #夏の連続投稿チャレンジ #一度は行きたいあの場所 #賑やかし帯  


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