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フトドキモノは生きている。

きれいにみせることに必死で
きれいでなくてはいけなくなっていた。

だれかの「よい」に合わせることには
慣れている。

よい息子。よい生徒。よい人。

だれかのための僕であるごとに
成績はぐんぐん伸びる。

人よりも少し多くの知識をもっていて
それを得意げに見せびらかすことで
すごいって言われる。

僕はアタマデッカチだ。

たしかに頭自体もデカいんだけど
アタマデッカチなんだ。

学校のテスト前には勉強会を開いて
放課後は希望する人を募っておさらいする
ミニ先生になる。

テストが終わって、僕の周りには
人が集まってくる。

正答が配られるよりも
僕の解答と照らしたほうが
手っ取り早いからだ。

僕が答えて、
あってただの、まちがってただの
一喜一憂する人をみて
僕は苦笑する。

先生から発表される成績優秀者の列に
常連と化した僕の名前。

丸が多くて、数値も高い答案用紙をみせて
親は叱るはずもなく、喜んでくれる。

赤点なんてとる人は
きっととんでもない悪者なんだろうと
誇らしげに自分を肯定する。

クラスで飛び交う恋愛話。
だれがだれと付き合って、ケンカして、別れて、また付き合って。どんなグループがあって、派閥抗争みたいなのがあって。

ロッカーに漂うシーブリーズのよい香りが
僕は、わるい子の香りだと思っていた。

真面目に勉強もせず
好き勝手なことやって
ルールなんて関係ない。

「おい、ちゃんと生きろよ」
そんなことを言えるはずもなく。
僕にとってそんな
独り言はひとりごとのままで。

僕は注意されることもなく
むしろ僕が彼らに注意することで
大人たちからはヨシヨシ。よい子だと。
きちんと生きて偉い子だと。

だからよく
大人しい子だね。とか
偉いねとか。よく言われた。

そうやって言葉をかけられてきたから
流行りのアーティストの曲を知らなくても
縛りを抜け出して遊びにいく快感を知らなくても
誰かを好きになることを知らなくても
誰かに嫌われることを知らなくても
自分は他の子より良い子なんだと信じていた。

僕のキャラは
どうやら大人たちには都合がよいらしい。

教師になりたいと言い出したら
「いいね、先生に向いてるよ」
「いい先生になるよ」
と否定されることはなかった。

"みんなにとって"よい子を増やす。作っていく。
そのためには
僕というキャラは適役だったのかもしれない。

でも教員免許をとるために大学に入って
世界は一変する。
「教育」とはそもそもなにか
なんてことを問うたもんだから。

誰かにとっての僕であることで
誰かの「よい」を自分の「よい」にしていいのか。
僕の「よい」という判断を、
僕が「よい」とするのはどういうことなのか。

励ますってなに?
幸せってなに?
好きってなに?
善さってなに?
生きるってなに?

それまでのアタリマエを問うて、考え直して、
他の人に照らしてみて、僕が経験をしたこと。

教育とはなにか。

そんな僕の教育観がゆらいだ先は
なんだか悔しくて。

あのころ、"誰かのよい子"だった自分は
誰かにとっての僕だった。

僕にとっての僕はどこにいるのか。
僕が感動することはなんなのか。
僕が好きなことはなんなのか。
僕がシビレるような経験はなんなのか。
僕が生きているということはなんなのか。
僕が死ぬということはなんなのか。

そう問うてみた僕からすると、
あのシーブリーズの香りは
悪者の香りなんだろうか。

とんでもない。
いや、むしろフトドキモノは
わるい子なんかじゃなくて
誰かによい子とされた僕よりはるかに
彼ら、彼女ら自身の人生を
生きようとしていたんじゃないのか。

僕は、僕を認めてくれる人がいてはじめて
僕でいることができていた。
でも、フトドキモノたちは
誰になんと言われようと、
自分自身が認められる自分を探っていたんじゃないだろうか。

たしかに、好き勝手の"勝手"というのは
他の人なんて知ったこっちゃないと
誰かの不幸に乗っかって自分の幸せを味わう
そんなのはどうかなと思うけど。
遠慮はないけど、配慮もないような。

それでもフトドキモノたちは
自分なりに、必死に
誰かの「よさ」という縛りの視線の中を
もがいて、あがいて、
たとえわがままで子どもっぽい選択だとしても、
自分がその時「よい」って言える生き方を
しようとしていたんじゃないのか。

なんだか彼らが羨ましくなった。

誰かの「よさ」に当てはめて
僕の「よさ」に当てはめて
彼らの「よさ」を測って
「ちゃんと生きろよ」って注意していたなんて
僕はなんてことをしていたんだろう。

「ちゃんと生きろよ」って言われていたのは
僕の方だったのかもしれない。

そんなことを思った。

だからこそ、やっぱり
僕の善さはどこにあるんだろう。
好きも嫌いも、苦いも甘いも、
きれいもみにくいも。
僕の感情はどこにあるんだろう。

僕の感情はちゃんと"僕が"感じてあげよう。
まずはそこからだ。

誰かに認められるために
当たり障りのない
賢く、無難な選択をして生きる人は
失敗を経験しない。

失敗のない人生を
僕は教えたいんだろうか。

生きた感動のない人生を教える教師に
僕はなにを学ぶだろうか。

どこかに絶対的な「善さ」があって
それは誰にでも共通する「正解」であって
だとするなら
いかに早く、正しくその「善い」人間になれるか
そんな競争をする教育。

「もう決まったことだから」
「それがルールだから」
「そう言われてきたから」

なにかを手っ取り早く片付けようとしている
そんな言葉たちには
凶器が潜んでいる。

あなたの「よい」なんか関係ないんだ。
もう「善い」ことは決まっているから。
僕もそれを「よい」としているんだから。
あなたも、従ってくれなきゃ困るよ。

考えることをやめた人間は
問うことを諦めた人間は
自分を見捨てた人間は

なにかから学ぶことはない。

それでも、生きているんだけど
ただ呼吸をして、手足が動くだけの、その人間は
どうして生きているんだろうか。

きれいでなくてはいけない
かっこよくなければならない
そうでなくてはならない

決まったようにみえるアタリマエを
問い直してみること。
自分とは全く違うだれかから
学んでみること。
1秒前とは少し違う自分と
向き合ってみること。

どこかにあるような「善さ」から
少し離れてみて、
僕はなにを「善い」とするんだろう。と
ゆらいでみる。

その瞬間は
不安だし、お腹痛くなるし、周りの目が気になるし、だれかにやっぱり答えを聞きたくなるし、明日どうなるかもわからないんだけど

ゆらぎ続けて
自分が経験したことを
たしからしめてゆくことで
僕は、僕の道を
僕の足で歩んでゆく。

ゆらいだ分だけ
それが他のなにものでもない
僕の人生になると信じている。

そうして歩んだ道を、だれかが見たときに
シビレるものはきっと、
知ったように教えたどんなことより
僕が伝えたいことなんだ。

だから
かっこよくなくても
きれいでなくても
僕が僕の足で立って生きていること。
それをまず・今・僕が・感じること。

そうやって生きてゆく。
そうやって生きている。






でもやっぱり、
かっこよくみせようとしちゃうんだよな。
きれいにしようとしちゃうんだよな。
そうしてまた、ゆらぎながら。






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よろしくお願いします!

BORELO 谷


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