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ヨーロッパ留学の経験を「ぼうけんのしょ」として収録。 ドイツ、ノルウェーなど異国の地で感じたことを写真と文章表現で綴る。 教育者としての、ぼうけんのきろく。
織られた布も 結ばれた糸も いつかは、ほどける。 大きな裂け目もある 深い穴もある 繕いは意志だ。 「そんなあなたを愛してる。」 経年変化を繕って 愛という景色は育っていく。 意志のかぎり深く、永く。
21日大江戸骨董市、22日渋谷蚤の市 どちらも初出店、無事故・ご盛況にて経ることができました。 ここには、心のきろくとして。 大江戸骨董市 ふと落ち着けば、一日をアドレナリンで乗り切ったような久々の感覚。 蚤の市をお客さんとしてではなく出店者として迎える初めての景色。 なにより、「このお店をめがけて来ました!」「たのしみにしてましたよ」「インスタライブ観ました!」とお声掛けくださった方もいらっしゃったことに、感激尽くせぬ日となりました。 僕のわずかな発信を見つけてく
ガラガラとシャッターを開けると、所狭しとつみあげられたダンボール。大きな家電と小さな部品。コードやら工具やらが、まるで飼いならされたように自分の居場所をみつけ静かにしている。 僕のおじいちゃんは電気屋さんだった。 個人経営で、町に住む人から仕事の依頼を受けては、しゃがれた音の鳴る車でそろりそろりと出張していた。すでに他界したものの、僕もまだ小学生くらいの時におじいちゃんと出張してお仕事のお手伝い(エアコンの修理)をした記憶がある。 あれは夏休みの日だったか、おじいちゃんの
これからどんな明日、一年後、五年後、十年後になっているのかわからないけど、今の自分の正直な感覚を遺しておきたいと思った。 必死にもがいて、それはどうすることもできない赤ん坊が泣きわめくように必死にもがいて、ようやく明日が手にできるとすれば。 ようやく平穏な明日が迎えられるとすれば。 きっと僕は、その「必死」になるまでの感度が鈍感なのだと思うし、どこかで楽観的とも思えるように、なにかに甘えて、なにかを信じて生きているのだと思う。 焦っているようで、せわしなくはない。心は相変わ
【大江戸骨董市出店のお知らせ】 夏の猛烈な暑さも、ここ最近の朝晩は和らいできました。この時季の風とひなたぼっこは、きもちよいものです。僕も早速今朝エネルギーチャージしました☀️ いかがお過ごしでしょうか。 さて、早速ですが、 【2023年10月15日(日)に大江戸骨董市への出店】 が決まりました! 僕にとって初出店・初露店の経験となります。 https://etbolero.official.ec ここでは、露店出店を決意するに至るまでの経緯をご紹介します! き
雨の日にみつけた🌀 【侵食・運搬・堆積】 道路(アスファルト)のかけらか、たばこの吸殻か… 水たまりをくるくると漂う小さな彼らも、もともとは"大きな何か"の一部だったのだろう。雨や風によって、すこしずつ、すこしずーつ、それが削られて(侵食)いま流れている。 どこから来たのかわからない彼らも、ひとしきりこの水たまりでダンスを踊ってから、またどこかへ流され行くのだろう(運搬)。 そしてやがてどこかで「塵も積もれば山」となり(堆積)、形は変われど、この世界の一部でありつづける。
「他の人とかぶりたくない。」 はじめは、そんな動機からだった。 僕は着る服を考えることで、"自分"とはなにかというアイデンティティを探していた。 僕にとって服を考えることは 自分とはなにかを哲学することだ。 衣服は他者とのコミュニケーションであり 自己とのコミュニケーションでもある。 僕は僕だと、自分は自分だと証明するもの。大したお金も持っていない高校生の僕は、これを古着に求めた。きっかけは、叔父のひとこと「古着屋さんにいけば、いいブランドものが安く手に入るよ」という情報
手が届きそうで、届かない。その絶妙な距離。 僕はこの"距離感"に惹かれる。 僕が生活で使っている古い服や古道具などの古物たちも、およそ100年前のものたちだ。 ものによって年代にばらつきはあれど、特に1870年〜1920年の時代を好んで纏っている。 でも、なぜ僕は「100年前」の世界観が好きなのだろう。「100年前」にこだわるのだろう。そんなことを考えた。 一生という距離感 「ひぃおじいちゃんの頃はどんな世界だったの?」 と、自分のおじいちゃんに訊ねて、やっと様子が知
僕は100年前の古物たちと生活しながら 「生きる心地」を探求している。 ああ、あついお茶がおいしいなぁ。 ああ、ひなたぼっこは癒されるなぁ。 ああ、炊きたてのごはんがおいしいなぁ。 ああ、あったかいお風呂がきもちいいなぁ。 ああ、干したてのお布団がふかふかだなぁ。 日常生活の中で、 『生きているなぁ』『心地よいなぁ』 と感じる時がある。 そんな「生きる心地」のする瞬間を、 僕は心から味わっている。 そもそも、 心地よさとは何なのか。 心地よい暮らしとはどんなものか。 生
僕が憧れるのは、おじいちゃんとおばあちゃんの暮らし。知恵のある暮らし。 いわゆる「おばあちゃんの知恵袋」的なものを感じられる瞬間が大好きだ。 日常にある不自由を、巧みな知恵と少しのユーモアで見事に解いてしまうおばあちゃんたちの知恵は、長い暮らしのなかで培われた魔法のようだ。 そんな方法があったのか!と、おばあちゃんたちの魔法にはいつも驚かされる。 そして、その知恵はおおよそ自然との共存や循環のもとに成り立っているから不思議だ。だれも無理することなく、だれに無理をさせるでも
お気に入りの古物が、かなり集まってきた。 理想の暮らしへ向けて着々と少しずつ、すこしずつ。今となっては、生活のありとあらゆる場面を古いものと共に暮らすほどになった。 寝具、調理器具、食事の一式、お風呂場からバルコニーにいたるまで、もちろん服装も。全てお気に入りのものを揃えている。 僕のお気に入りは、ほとんどが100年前のものか、使い込まれ育った風合いのあるものだ。 はじめは服好きがこうじて古い服を集めるようになり、次第にアクセサリーやバッグなどの装身具を求めるようになった。
花火は消える。 打ち上がり、一拍おいて 華麗に咲く そして花火は消えてゆく。 静寂と轟音をあやつり 空に舞う巧みな大輪たちも 所詮は火なのだと知る。 点いた火は、いつか消えるもの。 なぜ私は、花火に魅了されるのだろうか。 風物詩として どこかのベランダから聞こえてくる風鈴の涼しい音色。蚊取り線香のにおい。虫とり網を意気揚々と構えて歩く少年と、その隣りをゆくお父さん。 ヨーロッパに留学した時の「夏」とは明らかに異なる「なつかしい夏」を感じる機会に、今年は多く恵まれた。
1歳くらいだろうか。 ようやく首が座ったくらいの THE赤ん坊を、胸に抱えたお父さんが 僕の隣に座った。 ガタンゴトンとゆられる。 向かいの席には3歳と5歳くらいだろうか。 いかにも少年サッカーに通っていそうな おそらく海外出身の子どもたちが座っている。 いでたちを例えるなら、小さなメッシ兄弟。 さて、 ぷよぷよの白い足を なんどもぷらぷらさせながらも 驚くほどに隣の赤さんは静かだ。 いったいどう育てれば、電車内でこの歳の子が ここまで静かでいられよう。 それにしても
ツンツンツン...。 ノックとは思えないが、微かな音が鳴った気がする。 いつものお弁当を開いて、お昼ごはんを食べ始めた矢先 鳥でも来たのかな?と音の正体が気になって 一応、裏口の扉を開けてみた。 そこには、ランドセルを背負った幼い少女が立っていた。 少女の涙に学ぶここはお店、僕の職場の裏口。 この扉をノックするのはたいてい宅配業者か、差し入れを持ってきてくださるご近所さんだ。 なのに、今回の訪問者はどうも様子がおかしい。 少女が口を開く。 「あの、...上に住んでるん
僕はピリッと冷えたあの川の温度を知っている。 昼下がりの公園で寝転ぶあの長閑さも 古びた螺旋階段をのぼると軋むあの音色も 庭を華で、卓上を果物で彩り名画と化すあの感性も 街の中に家の中にクリスマスが灯るあの温かさも 僕は知っている。 「知っている」とは僕にとって「知っている」とは、単に知識として理解しているということではなく、この命で体感したということだ。 たとえば、アルプスから流れる清い川の映像を観て、「あぁ雪解け水だから何℃〜何℃くらいね」と理解するのではな
アーティストという免許がある。 「芸事をする」というのは、その術をもちあわせた人のみ、成し得るものだとばかり思っていた。 2021年6月26・27日の土日、渋谷の一室で僕は初めての個展をひらいた。『童心』と名付けたこの催しは、僕がただ好きなもので好きな空間をつくってあそぶというもの。簡単に言えば、ひみつきちを創ろうという試みだ。 僕が自然体でいること。 来てくれるお客さんも自然体でいられること。 いろんなことを試し遊べる空間。 僕は、数十キロあろうかという量の古物を担ぎ込