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「激怒」で考える「言いたいことを言う映画」について
高橋ヨシキ監督作「激怒」見てきました。
映画ライター、アートディレクターとしても活躍する高橋ヨシキの初長編監督デビュー作「激怒」。映画評はいつも新鮮な視点で面白いし、担当した映画ポスターやビジュアルも大好きなものが多いし、書籍も読んだことがある(面白い)、とあまり特定の人物の映画評を楽しんで待つ習慣がない僕にしては、控えめに言って彼の「ファン」であると言ってもいい。直接お会いしたことはもちろんないけど。
劇場はほぼ満席で、ネット上も彼のファンによる本作の感想で溢れていて、なぜそんなに人々は彼に惹かれるのだろうと冷静に考えてみた結果、豊富な映画知識に裏打ちされた独自の視点だけじゃなく、彼の生き方や人柄に共感を覚える人が多いからなのではないだろうか、と思った。それだけブレずに独自のスタイルや人生観を貫く生き方を持ってる人だし、彼は常に著書や記事、発言やファッションなどからもそれを発信し続けてきた。好きな映画評論家は?の問いに「高橋ヨシキ」と答えることの意味は好きな映画のTシャツを着て歩くことほど大きい。それほど「アイコン」になっている人物。
そんな大好きな映画ライターが初めて長編劇映画を企画・脚本・監督するのだから見ないはずはない。しかもテーマは常に彼が発信し主張し続けてきた「暴力」や「権力」の恐ろしさ。千円札を2枚握りしめて喜び勇んで劇場に向かった。
…ただ、楽しめなかった。
映画の内容は同意しても同意しきれないほど納得のテーマを主張していたし、期待していた暴力描写もあった。「社会から猥雑なものを排除することや許容しないことの暴力性」、「過剰な社会の漂白や監視社会の怖さと閉塞感」そしてなにより「自分の頭で考えない人間が一番恐ろしい」という真理。
このテーマが繰り返し表現される序盤から溜飲が下がりまくって新宿武蔵野館の1階まで落ちて行っちゃうくらい思わず何度も膝を打ちまくったし、主演川瀬陽太の一見どこにでもいそうだけどよく見ると只者ではない存在感も役にピッタリ。
映画自体はとにかくヒットしてほしいし、願わくば高橋ヨシキにはすぐにでも次回作を作ってもらいたいという素直な思いのせいでこの感想も正直書こうかどうしようか迷ったが、「激怒」を見たことにより「言いたいことを言う映画」について考えるきっかけになったので、なぜこの映画を素直に楽しんで見れなかったかについて自分なりに考えたことを書き残したい。まずはみんな劇場へGO。
「激怒」は「言いたいことを言う映画」
この作品のテーマははっきりしている。おそらく小学生でも見れば「作者の気持ち」を読み取って感想文が書ける。それほど分かりやすく描かれている。
例えば冒頭、人々が一切車が来ないのに歩行者信号が赤だからという理由だけでひたすら信号が青に変わるのを待っているシーン。言いたいことはすごく分かる。自分の頭で考えずに作られたルールに従うだけの人々の描写。
「安全・安心なまち」な舞台の富士見町では町内完全禁煙。町には「みんなが見てるよ」と書かれた防犯ポスターが張り巡らされていて、少しでも「いかがわしく見える」人々には防犯パトロール隊が集団で暴力を行使する。
どのエピソードも実生活でよく目にする「閉塞感」や「過剰な監視社会」にまつわるものだ。(防犯パトロール隊はネット上でよく目にする)
最初は「そうそう!怖いよな!」とスクリーンを見つめていたが、途中からなぜかこれに息苦しさを感じるようになっていった。
「激怒」が持つ別の「息苦しさ」
途中からとにかくすべてのシーン、全ての台詞、全てのキャラクターや行動、展開がこのテーマを伝えるためだけに機能してるように感じてしまった。根本的に言えば創作物とはそういうものなのかもしれないが、これによって非常に「息苦しい」映画になってしまったように思える。
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