三田三郎『鬼と踊る』歌集評①~酷く理性的な酔っぱらい?(文・シゲフミ)
連作「肝臓のブルース」でパラレルに示される「僕」の矛盾したセルフ・イメージ
文: シゲフミ
三田三郎による「肝臓のブルース」は、徹頭徹尾、アルコールに取り憑かれた連作である。たとえ内容を一言で要約せよ、と言われても「何がどうあろうと酒が飲みたい人の歌」、としか返しようがない。そこから先の、「僕」のとる姿勢に対する評価は、読者に委ねられている。観る人によって、自他の知識や経験に基づき、親身になって案じたり、愚かだと詰ったり、あるいは我が身を省みたりと、投影してみる裁量があるだろう。
対して、描かれる様そのものはシンプルながら、表現とレトリックに着目するとパート分けができ、五七五七七の定型を越えた連作としての詩的構造を持つことが分かる。自身の行動を上手くコントロールできないように見せる反面、「僕」の言葉選びは随分と理知的であるらしい。
つまり本稿は、10首を一つながりのテクストとして扱い、文体論の知見に依拠することで、連作「肝臓のブルース」の構造を明らかにするものである。本文中の修辞技法のカテゴライズにあたっては、『「例解」現代レトリック事典』と『日本語レトリックコーパス』に基づく。また、以降では便宜的に1首ずつ連番を振り、L1~10のように表記しよう。
3つの矛盾と繰り返し
まず、どちらかといえば内容に比重のあるところから確認したい。テクストを見るに、「僕」の言動には、三つの矛盾が挙げられる。一つ、飲酒の理由。二つ、深酒の責任。三つ、肝臓を労る態度。これらが、全10首の中で二転三転するのは、一貫している。
飲んだくれる原因を他に求めなかったかと思えば、憂さ晴らしを兼ねると仄めかし、度数の高い酒をチャンポンして、己が招いた事態への報いを忘れることすら望んでしまう。仮に飲み過ぎたとしても、正体をなくし判断力に欠けた状態であったと述べもすれば、自らに非を認めもする。何より、肝臓への負担を理解していながら、酷く酔っ払うまで飲むことが止められない。
これら、三つの矛盾の提示される順番からは、あるパターンが見て取れる。飲酒の理由と深酒の責任は、テクストの半ばを過ぎるまでに移り変わってゆく。一方で、肝臓に関する二律背反な態度は終盤に集中させてある。どうも、本連作は三部構成のようなのだ。
さて次に、形式的な特徴からも、この直感を支持して見せよう。レトリックとして「肝臓のブルース」に顕著なのは、様々な繰り返しである。特に、いわゆる文法に基づいて、同一カテゴリーや似通った組み合わせを繰り返す、並行法・平行構造(parallelism)が際立つ。具体的には、L2
及びL6
が、節単位の反復に該当する。それぞれ抽象化して言えば、構文「XはYがVした」、「AとBをVするならC」が重ねられることで、1首となっている。対して、L5の「酔えなくても酔い潰れても」(三田2021: 64)とL7の「歯で噛んだり舌で潰したり」(三田2021: 65)は、並列表現に当てはまる。どちらも「VしてもVしても」「VしたりVしたり」と破調、句またがりで頭に据えられている。
さらには、別種の繰り返しも見受けられる。L3で自己目的化した「酒を飲みたいから酒を飲む」(三田2021: 63)は、語句による反復構造(repetition)にあたる。前言「歯で噛んだり舌で潰したりしなくてもいいからいい」からの言い換えであろう、L7の「液体はいい」(三田2021: 65)も、内容を重複させている点では、不要な冗語法・剰語(pleonasm)に感じられる。くどくどしいのは、くだを巻く酔っ払いらしいといえば、実にらしいかも知れない。しかし問題は、これらが全体の内に占めるパターンだ。
フラクタルな対句
ここで各々の配置から、一つ、分かりやすいところから入ってみよう。ひとまず並列表現の目立つL5とL7が、1首内で節を反復させたL6を取り囲む格好になっている点に注目されたい。2首は内容面からしても、それぞれ「酒は悪くない」(三田2021: 64)と「液体はいい」(三田2021: 65)とで、主題に対する価値判断が対応している。そこから遡及して、実はL1とL3が共に上の句「絶望に十分すぎる生い立ちが」「世界中の因果がひっくり返っても」(三田2021: 62, 63)から高められる期待を裏切って、等しく飲酒に特別な理由などないと嘯くものであるのなら、同様に似た2首が節を反復させるL2を挟んだ形と見なせるだろう。
すなわち、節による反復の前後にそれぞれ意味や形の上で類似した2首が位置するのも、連作中で繰り返されていることになる。その上、大きく益体もない繰り言と括ってしまえば、各部を締めるL3とL7にも共通する。よって、どのみちL4を間に置いて、3首ずつの単位が想定できるのである。
ちょうど対称軸となるL4は、ペアとなる3首セットそれぞれの橋渡しの役目を果たす。前段とうって変わって、後段では飲酒に向かう別の動機が垣間見えてくる。その皮切りとしてL4が、内容面での推移を仄めかすのだ。
せっかく当該の歌に「A地点からB地点へ」(三田2021: 64)との表現があるのだから、ここから、3首ずつのかたまりをAパート、Bパートと呼び分けることにしよう。「肝臓のブルース」は、あたかも主要なメロディ2つに間奏を挟み、サビが続くような構造になっていると考えられる。あるいは、オチの手前まで中身にこそ変化がありながら対句が入れ子になっている、と言ってよいかも知れない。ホントかよ、と思った向きは、試しに本から書き写してマーカーでも引いてみるとよい。
残るL8以後の3首も、真ん中のL9
を核としたパートである。見かけ上、L9は熱烈なラブコールにほかならない。擬人化された臓器への呼びかけに始まり、急に改まって、心中する勢いで歌いあげられる。全10首の中でも、デスマス調の敬体が採られているのは、L9のみであった。それまでの統一を破る文体の不調和が、この1首を際立たせる。
堅く「警報」や「勧告」の語が並ぶL8から転じて、「あなた」と「僕」の閉じた恋愛を思わせるコテコテの告白は、肝臓が事実、身体の一部として運命共同体であるからこそ、態度を皮相に印象づけている。いずれも健康状態を言い表すのにそぐわない雰囲気を借りてきたことに加えて、2首間での落差も、どうしようもない実態をいっそコミカルにさえ映す。
この盛り上がりは、L10で言動一致に至って最高潮に達する。L9以前の語られようから察するに、酒のせいで不具合の出た肝臓のために処方されたはずが、この時「僕」は、アルコールで服薬したらしい。傍目からも明らかに齟齬のある振るまいなわけだが、想像される不特定多数の対話者へ、終助詞を伴い「矛盾しようよ」(三田2021: 67)と持ちかけるにあたって言明するあたり、「僕」にだって自覚はあるのだろう。L10は、読者の肝を冷やす末恐ろしい誘いであると同時に、「僕」はあれもこれも既に「みんな一緒に矛盾し」たのだ、と告げるかのようでもある。
繰り返しによる前景化
というわけで、レトリックに注意しても、落ちに向けた構成が大きく三分割できた。より細かに捉えた結果、矛盾と繰り返しに彩られ、見えてくるのは鮮やかな対比である。違う語句で同じ型の反復といった1首内の、あるいは描かれた言動の整合しない前段と後段での、テクスト全体の調和を乱す文体間の、差異が「僕」の不安定な様子を描き出すのだ。これは、特に各々パートAとBを成すL2とL6内外の、またL4を軸とするパートAB間の(非)対称性に由来する。
前景化とは、平たく言うと、何らかの手立てで背景から分離し、相対的に目立たせることである。かの有名なルビンの壺は、向かい合う顔にも見える余地が残されているが、どちらかに派手な目印を添えたら、そうもいかない。
「肝臓のブルース」の場合、パートA~B間で形式上パラレルに、だが前言とは相反した内容が並べられていく。この食い違う平行構造こそが、連作にパターンを与え、読者の目を惹きつけるのだ。レトリックの成す方向づけに従えば、「僕」は無数の矛盾を繰り返し、酒に溺れに溺れたものと受け止められる。しかし、仮に全10首に渡るテクストと想定するのなら、「僕」の言葉選びは計算的とさえ言えるだろう。連作を通じて浮かび上がるのは、描かれる様に反して自省的で、妙に理性的なところもある酔っ払い像なのである。(了)
参考文献
小松原哲太他 (編) 2019. 『日本語レトリックコーパス』 ベータ版. https://www.kotorica.net/j-fig/
Nørgaard, Nina, Rocío Montoro and Beatrix Busse (2010) Key Terms in Stylistics. London; New York: Continuum.
瀬戸賢一, 宮畑一範, 小倉雅明(編著)(2022)『「例解」現代レトリック事典 』大修館書店.
本記事は、エイドラ4号(2023/05/21、第36回東京文学フリマ発行)掲載分に加筆修正を施したものです。
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