映画『罪の声』は原作の行間を的確に映像化した傑作~こんな人生があったかもしれないと思うこと~
推理小説の実写化についてあれこれ綴る、つづきです。
前回はこちら。
映画『さよならドビュッシー』が謎解きより〝心解き〟を選んだ理由~『十角館の殺人』実写化のタイミングに寄せて|涼原永美 (note.com)
(以下、作家や俳優名等は敬称略とさせていただきます)
実写化されるなら、原作が好きでたまらないか、原作の良さを最大限生かせる方に手掛けてほしい。ファンとしての切実なお願いだ。
そんなことを改めて思うのも、綾辻行人による傑作ミステリー『十角館の殺人』(講談社文庫/税別695円)実写化のニュースを聞いたから。そこで、どうしても今このタイミングで・・・と思い、あれこれ書いているのだが、今回は塩田武士『罪の声』(講談社文庫/税別920円)の映画化についてである。
ちょっとジャンルの話をするが、分けるなら『十角館の殺人』は本格、『罪の声』は社会派ミステリーになるだろう。もしかしたらこれで、読む、読まないの好みが分かれる場合もあると思う。
(1)本格も社会派も、ミステリーなら行き着く先の面白さは同じ!
けれど、私はどちらも大好きだ。
たとえばパズルのように論理的な謎解きを楽しむ本格ミステリーと、社会的背景や人間ドラマを軸にした社会派ミステリーでは、まったく毛色が違うじゃないかと言う人もいるかもしれない。
が、個人的に「本質的には同じ」と感じるのは、いずれも「そうだったんだ」という謎解きの面白さがそこにあり、「その物語が行き着く先」を夢中で追いかけられるところだ。見事な展開さえあれば一気に読了できる。作品によって出来に差があるだけで、それはジャンルの違いではない。
たとえば『十角館の殺人』なら、「犯人は誰か」「それはいかにして行われたか」が行き着く先である。映像化に対する興味としては「あの1行」をどう視聴者に納得させるか、驚かせるか、という点があるだろう。ワクワク、ドキドキ、ええっ! なるほど・・・が気持ち良く体験できるように、いまは楽しみに待っている段階だ(2024年2月現在)。
では、今回取り上げる社会派ミステリー『罪の声』の「行き着く先は」どこだろう。ちなみに著者、塩田武士の最新作『存在のすべてを』(朝日新聞出版/税別1900円)は2024年の本屋大賞にノミネートされている。魅力的な作家さんである。
(2)大事件の陰でいちばん不幸になったのは誰か?
『罪の声』の行き着く先、それは「社会を揺るがした大事件の陰で、いちばん不幸になったのは誰か」である。事件の直接的な被害者は数社の有名企業だし、犯人グループの手口は記録上は整理され、丹念に調べた先に犯人達の動機も顛末も見えてくる。――だがそれは、上澄みだ。
『罪の声』を読んで以来、私の心から「生島望、聡一郎」という姉弟が離れない。その存在はずしりと重い。彼らは小説の登場人物かもしれないが、それで片付けていい存在ではない。ふだんニュースを見聞きするたび「きっといるんだろう」と漠然と感じていた「表面化されない被害者」を、この小説はくっきりと浮かび上がらせているのだ。
こんな優れた小説をたくさんの人に読んでほしいと思う。――ところがこれがまた、難しかったりもする。
(3)優れた小説を広めたいと願う時、「映像化」は天啓に近い恵み
いわゆるベストセラー本や有名な賞の受賞作は、本好きの世界では有名だが、読者習慣のない人にとっては「そもそも生活圏内に入ってこないもの」だったり、「読むのに大変な労力のいるもの」だったりする。知識の仕入れ先としてだけでなく、娯楽の選択肢ですらない。
――本好きとしては残念だが、習慣は人それぞれなので仕方ない。
ただ、この話はどうか広まってほしいと願った時、「映像化」「映画化」は天啓に近い力を持つ。本当に、嬉しいことだ。
ドラマや映画なら気軽にお勧めできるし、家族や友人と一緒に観ることも、感想を言い合うことだってできるかもしれない。
実際に私自身、映像作品を目にしてから「先に小説があったんだ」と本を手に取ることがある(最近ではNHKでドラマ化された『デフ・ヴォイス』に驚かされた)。映像化のパワーと情報伝達のスピードはすさまじい。たとえて言うなら波に乗って押し寄せてくる感じだ。――だがその分、責任はあると思う。多くの人の目に触れる分、原作の良さを的確に映像化し、本質的なメッセージが同じでないと意味がない。
そんなわけで私は、このすごい小説『罪の声』の映画版(監督・土井裕泰/2020年)を、すぐに観た。そして――大いに泣かされた。
原作を読んで以来忘れることのできなかった、生島望と聡一郎が確かにそこにいたのだ。
※ここから、原作小説と映画の内容に触れます。本格的なネタバレではありませんが、多少ラストの展開に触れますので、気になる方はご注意ください。
(4)世間を震撼させた大事件の「声」が自分のものだったら?
原作の小説『罪の声』は1984年、日本で実際に起こった「グリコ・森永事件」を題材にした物語である。フィクションとして書かれているが、著者の言葉を借りれば「モデルにした『グリコ・森永事件』の発生日時、場所、犯人グループの脅迫・挑戦状の内容、その後の事件報道について、極力史実通りに再現しました」とある(『罪の声』巻末、著者の言葉より抜粋)。
まずは物語のあらすじとして、文庫本裏表紙あとがきを引用させてもらおう。
曽根俊也は「なぜ自分の声が?」――と戦慄を覚えながらも自分なりに事件を調べはじめる。もしかしたら、ごく近しい人間が事件に関わっているのかもしれない。だがそれは、自分が「テープの子ども」として世間に晒される恐怖との闘いでもある。作中で「ギンガ・萬堂事件」ーー通称「ギン萬事件」とされている事件は既に時効を迎えているが、それでも世間の耳目を考えると恐ろしい。
一方で、上司の命を受けて事件を調べ始めた新聞記者の阿久津英士は、事件の関係者を追ってイギリスに飛んだり、昔の資料を調べたり、関係者から聞き取りをしたりと忙しい。その足跡を追うにつれて、読者(観客・視聴者)は「ギン萬事件」のあらましについて効率よく理解できることとなる。
このあたりは小説に詳しいが、映画のよいところは映像の助けを借りてスピーディーに事件の流れを理解できるところだろう。
私自身、「グリコ・森永事件」はリアルタイムで何となく覚えていて(子どもだったので)、だからこそ「詳しく知りたい」と興味を持って文章を追うことができるが、そうでない人、文章量にひるむ人にとってはなかなか重い読み物なので、この点をとっても映画化の功績は大きい。
――話を戻し、映画の魅力はまず、テーラーの曽根俊也を演じた星野源と、記者の阿久津英士を演じた小栗旬だと思う。個人的には2人とも、小説のイメージとぴったりなのだ。
(5)テープの子どもはあと2人いる・・・!「事件の行き着く先」とは
この2人、立場は違えど同じ30代の男性で、ごく普通の(と思われる)家庭で、両親に愛されて育ったという設定だ。それなりにやりがいのある仕事と収入があり、そして何より善良だ。
この、善良であること、基本的に正義を信じたいと思っていることが、前面に押し出されてはいないが、物語のひとつの柱になっている。
なぜなら「テープの子ども」である曽根俊也が、いまの生活を守ることだけを考えていたら、中盤で出会う阿久津英士の申し出を拒否して話は終わったはずだからだ(小説でも映画でも、最初は恐怖を感じて拒絶している)。
阿久津は阿久津で、記者として通りいっぺんの仕事をこなそうとだけ考えていたなら、仮に「生島聡一郎」を最後に見つけたとしても、いっそう傷つけて終わったかもしれない。
2人の男は結局、この事件は突き詰めると「テープのこども」に行き着くと気づく。曽根俊也以外に「声」を使われた、もう2人の子どもである。何も知らず平穏に育った曽根俊也に対し、ある日を境に行方不明になった2人の子どもは、無事で済んだとは思えない。
それが生島望と聡一郎という姉弟である。いったい、この2人は誰に、どうやって声を利用され、その後どんな人生を歩んだのか――。
(6)圧巻のドラマ! 原作の行間を見事に映像化したクライマックス
原作では、関係者あるいは本人が「こうでした」と語る回想が、映画ではクライマックスでドラマティックに再現されている。
文庫で535ページある内容の濃い原作から、映像の説得力をもって最も伝えるべき場面はどこなのか、このすくいあげ方によって映画の出来はまったく違うものになっただろう。
そしてこの映画は、原作を読んだ者として、最も観たかった場面をみごとに映像化してくれていた。
姉の望を演じた原菜乃華の熱演もあり、15歳と8歳だった姉と弟の悲劇は、涙なしには観られない。――これは本当にフィクションなのだろうか。いやもちろんそうなのだが、こんな話は、もしかしたらそこら中に溢れているのではないだろうか。
何かが起こった時、最も弱い者が最も辛い思いをするのは日常だ。
そして大人がその時の浅はかな考えで子どもを利用することは、想像以上に罪深い。子どもは何をするべきか、しないべきかを選べない。――にも関わらずその後の人生は長い。利用した側の大人より長い人生が待っているのだ。「なぜ」と問われた時に大人は、返す言葉をちゃんと持っているのだろうか?
これは映画でも、強いメッセージとして語られる。
曽根俊也が「自分の声をテープに吹き込んだ人物」と対峙するシーンだ。これは小説にもあるのだが、映画ではより強い怒り、悲しみとともに俊也の言葉で語られる。その相手が誰かということはここでは書かないが、俊也のセリフだけは映画から引用したい。
星野源と、その相手の俳優の名演が光る。胸に迫るシーンだが、相手が何も言い返せないことにも、この物語の本質があると思う。
語るべき言葉がない。あれほどのことをやった人間が、語るべき言葉を持っていないというのは、受け手からすると空虚である。
じつはこの場面と似たシーンは、阿久津英士にもある。
阿久津は「ギン萬事件」の主犯格を特定し、その人物が住むある場所へ出向く。既に時効なので現状で訴追はできず、あくまで記者として話を聞くだけなのだが、犯人の言葉に阿久津は虚しさを覚える。犯行の手口も目的もわかった。ーーでも、より深い理解が及ばない。社会に不満があった? それで何か変わったというのか?
このやりきれなさを、小説の場面から引用する。
このシーンは映画でも描かれている。阿久津の・・・演じる小栗旬の見せ場でもある。この時、多くの観客・視聴者が阿久津と同じ気持ちになれたなら、この映画は成功したと言えるのではないだろうか。私はなった。
記者として能力は高いものの、根っからの人のよさで社会部の取材のあり方に疑問を抱いていた阿久津が、自分なりの正義に目覚めていく過程が、とくに映画ではよく描かれている。そこも好きだ。
ちなみにこの、主犯格の人物と阿久津が対面する場面、小説よりも映画のほうが時系列としてはずっと後ろに設定されている。これが映画のクライマックスとしてかなり効果的だ。うまいなぁと思う。
この映画はこうした「映像だからできること」を生かして丁寧に作られている。阿久津のスーツの着こなしが雑なこと(それを見る曽根のなんとも言えない表情)や、ギンガ(グリコ)のキャラメルのおまけなど、ちょっとした小道具にも注目して観るとまた楽しい。
(7)原作でも映画でも語られる「素因数分解」「素数」の意味とは
原作でも映画でも、ラストは生島聡一郎に救いの手が差し伸べられる。
が、それは「生きててよかったよかった」という安易なものではなく、壮絶な半生を浮き彫りにするものだ。それでも、阿久津と曽根の意志と行動によってひとつの奇跡的な再会があり、一筋の光が射して物語は終わる。
原作では、ほぼすべての「やるべきこと」を終えた阿久津と、鬼の事件記者である上司、鳥居の会話が印象的だ。
このシーンは映画でもあり、上司の鳥居を演じた古舘寛治がまた、いい味を出している。
ただ、これはやはり原作を読んだ者として、文章の味というべきか、ジワジワ広がる感動は小説のほうが上だった。ーーすごい。ものすごいと胸が熱くなる。著者はまさにこの想いで小説を書き上げたのだろう。
面白い物語の「行き着く先」を追いかけ、最後に素晴らしい「締めの文」を読むことは、本好きしか得られない達成感だ。だからたくさんの人に読書を楽しんでほしいと願っているのだが、相変わらずハードルは高い。それでも、本が苦手な人にはこの物語を的確に映像化した、映画『罪の声』を観てもらえばいい。
こんな素晴らしい映像化なら、原作ファンとしては感謝しかない。
(8)手を差し伸べること、救いの形を見つけることはできるだろうか
曽根俊也と阿久津英士が善良であることが、この物語の柱だと先ほど書いた。
生島聡一郎を見つけたのがこの2人だったからこそ、物語の最後にまだ一筋の光が見えた。聡一郎が見つからなかった可能性もあるし、見つかってもっと不幸になった可能性もある。
この社会の片隅に、確かにいるであろう生島望と聡一郎のような存在を、私達はどのくらい知ることができるのだろう。どんな形なら「救いの手」になるかを一人ひとりに合わせて考えることは可能だろうか。いや、「ギン萬事件」・・・「グリコ・森永事件」のような大事件が起こった時、それだけでなく日常的な小さな事件が起こった時、最も傷ついたのは誰なのか――という想像力をはたらかせることはできるだろうか。
文庫本巻末の著者の言葉に、こう書かれている。
その言葉通り、本当にこのような人生があったかもしれない――と思うのに十分な力作だった。そして映画も。
阿久津英士や曽根俊也は決して完璧な人間ではない。もしかしたらたまたま偶然が重なって、聡一郎にとって「よい人間」になれたのかもしれない。
自分も人生のどこかで「誰かにとってよい人間」になれたら嬉しいと思う。そしてもし自分が「聡一郎」になった時、誰かが私を見つけ、そして「よい人間」であってくれるだろうか? ーーわからない。
けれど『罪の声』のような物語に出会うことで、想像力を膨らませることはできる。思考のかたちを得ることはできる。それがもしかしたら誰かを、自分を救うことのチャンスに繋がるかもしれない。
だからこれからもずっと望と聡一郎を忘れたくないと思う。
『罪の声』、もっともっとたくさんの人に読んで、観てほしい作品である。本当に素晴らしかった。
つづきます。
つぎは松本清張原作『砂の器』について書きます。
まさに奇跡の別物! 映画『砂の器』が邦画屈指の音楽映画でもある訳~ただ音楽が凄いとかそんな理由じゃない~|涼原永美 (note.com)
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