〈手記3〉余命ゼロの姉と調停と、こども家庭庁の発足[前編]
興味を持ってくださり、ありがとうございます。
この前段階の話は、よろしければこちらからどうぞ。
[1]どうか本当に「まんなか」になりますように
2023(令和5)年4月、こども家庭庁が発足した。
姉が一人娘に会えないまま無念死した日から5年以上が経っていたが、私はこの国がより「こども」という存在に向き合って未来へ進もうとしていることを信じたくて、公式ホームページを開いてみた。
スローガンは「こどもまんなか」。
――こどもまんなか、か・・・。
読み込んでみて、特に次の要項が気になった。
・子どもの最善の利益(子どもにとってもっともよいこと)…子どもに関することが決められ、行われる時は、「その子どもにとって最もよいことは何か」を第一に考えます。
・子どもの意見の尊重(意見を表明し参加できること)…子どもは自分に関係のある事柄について自由に意見を表すことができ、おとなはその意見を子どもの発達に応じて十分に考慮します。
※「児童の権利に関する条約のいわゆる4つの原則」(日本ユニセフ協会ホームページより抜粋)
なるほど、な・・・。
このこと自体は良いと思うし、本当にそういう社会になってほしいと願っている。
――だが、現実を知る人間として、胸が痛んだ。
複雑な気持ちだった。
基盤となっているユニセフの「子どもの権利条約」自体は、こども家庭庁の発足以前から、日本はもちろん世界各国で受け入れられている人権条約だ。
だからこども家庭庁が発足する前から、当たり前と言えば当たり前の、国際的な人権意識のはずなのだ。
上記の文言は、姉が調停をしている間も、よく読んでいた。
けれども数年前、私が見つめていた母と子のひとつの事案は、まったくこうではなかった。
確かに見た目は「こんなふう」だった。
「子どもの意見を尊重します」
「おとなはその意見を子どもの発達に応じて十分に考慮します」
――でもその「意見」が、真に正しい情報に基づいていない場合は、どうするのだろう?
与えられるべき情報が与えられていない状態で発せられた「意見」を、どこまで尊重することができるのか。
なぜその時、その子が、そんな言葉を、意見を、口にするに至ったのか。
そのことを、深く、丁寧に、本当の知見と優しさをもって、整理すること。
大人の個人的な事情や感情が、まっさらな子どもの人生に影響を与えないように。
ーーこども家庭庁および、この先、子どものさまざまな事案に関わる識者の方々。
現代で、大人の不和に巻き込まれる子どもには、それぞれ複雑な背景があります。
もちろん、先刻承知のことでしょう。
どうか起こった出来事をじょうずに整理して、
その子どもが数年後、
「親や家庭以外の世界はこんなにも広い」と知った時、
「人生の選択肢は自分にある」と気づいた時に、
「これで良かった」と心から思える道が伸びているよう、ご配慮願います。
その場しのぎの「こどもにとってよいこと」では、足りません。
[2]論点のずれた提出文書
〈何があり なぜそうなったか整理する 未来のあなたへ繋がるように〉
ーー平成28年2月、姉・皆川梨花子が義兄・皆川秀樹に対して申し立てた「子との面会交流調停」が始まってからまもなくして、義兄側の弁護士から神崎弁護士へ文書が届いた。
そこには「同居時、妻の家事がいかに至らなかったか」「自分がどれほど娘のことを大切に育ててきたか」などの内容が書かれていたが、姉が激しくショックを受けたのは、これらのことではなかった。
〈沙世子・・・私がまるで、すみれを虐待していたかのような内容が書いてあるの・・・ひどすぎる〉
姉からのラインには、私にとっても衝撃的な言葉が綴られていた。
〈私がすみれに、「早くご飯食べなさい!」「早く寝なさい!」って怒っていたことが虐待なんだって・・・。最近になってすみれが急に、テレビドラマで似たシーンを見て、「これって虐待だよね?」って言い出すようになったって・・・。本当にひどい。私を自殺に追い込みたいのかな・・・〉
〈え~っ! そのくらいのことなら、私もしたことあるけどな・・・〉
ーー冷や汗が出た。
子どもを叩いたことはない。だが、怒鳴ったことはある。小さな子どもをワンオペで育てていたら、いつも冷静ではいられない。
〈それで・・・沙世子ごめん。沙世子のことも書いてあるんだ。すみれが、沙世子の家にはもう行きたくないって言ってるみたい。ついでに、S市のおじいちゃんおばあちゃんにも会いたくないって〉
〈は??? どういうこと?〉
ショックだったし、まったく意味もわからなかった。
〈私の入院中、沙世子の家で2週間すみれを預かってもらったでしょう? その時、小さな子の世話をさせられたのが嫌だったって。ひどいよね・・・ごめんなさい〉
一瞬、思考が停止して天井を見た。
小さな子の世話・・・。我が家の2人の娘のことだろうが、当時1歳だった次女のオムツを替えてもらったことも、泣いているのを押し付けたことも、「ちょっと2人を見てて」と留守番させたこともない。
ただ毎日、子ども3人の健康維持(主に食べさせること)に必死だったのを思い出す。すみれが病気のママを思って悲しくならないよう、できる限り明るい雰囲気を維持しようと気持ちも張っていた。
だが・・・そうか。
〈もしかしたら、うちの娘達が毎日「すみれお姉ちゃん!」ってくっついていたかもしれない。それが嫌だったんだろうね。すみれは賢いから、期待に応えようと頑張って遊んでくれていたのかも・・・。気づいてあげられなくて、こっちこそごめんなさい。でも誓って、私は子どもに対して一切恥ずかしいこと、人に見られたら困ることはしていないよ〉
〈わかってる・・・お世話になった相手に対して、こういうの文書に書いてくること自体、親として恥ずかしい〉
すみれに申し訳ないと思いつつ、私は本題に思考を戻した。
――これ、論点がずれていないか?
〈お姉ちゃんが申し立てているのって面会交流だよね? ただ「会いたい」って言ってるだけなのに、どうして叔母や祖父母に対する批判が出てくるの? 関係ないよね〉
〈ああ・・・それはたぶん向こうの弁護士が、監護権や親権争いも視野に入れて動いたほうがいいですよ、ってアドバイスでもしてるんじゃないかな。
監護権や親権争いの場合、シングルで子どもを育てる側の親にとって頼れる親族がいるかどうかが重要視されるらしい。
もし離婚でもして私が親権を持ったら、必然的に沙世子とかうちの親に頼ることになるから、先回りして「すみれはそちらの親族を嫌っています」と主張してきてるんじゃないかな・・・〉
――こういうことを説明する時の姉はいつも、当事者とは思えないほど冷静で論理的だった。もちろん神崎弁護士からの助言もあっただろうが、実際に自分でもよく調べていた。
〈は~そうなんだ・・・〉
ライン上だけでなく、実際に私は深いため息をついた。
なぜこんなにややこしい話になるのだろう。
逆に、監護権や親権争いにまでたどりついているならば、少しは救いがあった。
――わからないのだろうか? いや、わかってやっているのか。
姉は数カ月もの間、娘の声すらほぼ聞けていないのだ。
今日一日、今この時が、どれほどもどかしいのか。
呼吸すらままならないほど、苦しいのか。
いつまで元気でいられるかわからない人間が、「ただ子どもに会いたい」と切望し法律にすがったのに、「監護権や親権争いを見越して」論点を複雑にしてきている。
論点が増える、複雑になるということは、ただでさえスローな調停を、さらに長引かせることになる。
〈こんなのおかしい! そもそもお姉ちゃんとすみれが別居したのはこれらが理由じゃないんだから、どう考えても後付けでしょ。面会交流をどうするか、だけが論点じゃないの? 向こうの弁護士も弁護士だよね。秀樹さんが言っていることをただ文書にして提出していて、それでいいの? 子どもが親に会う権利だってあるはずだよね?〉
〈まあそれも案外、向こうの作戦なのかもしれないね・・・。調停が長引いているうちに、私の病状が悪化して、うやむやになるかもしれないって思っているのかもしれない〉
――めまいがした。
片方の親と子どもが離れた事情がどんなものであったにせよ、別居期間が長ければ長いほど、子どもは同居する親との絆が強くなり、その生活が日常になっていく。
その後の審議の結果がどうであれ、子どもの福祉を鑑みれば、「今の親との生活を続けることが、子どもの環境にとって最もよい」という判断になりやすいのが、今の日本の現状だ。
だから審議が長引くほど、非監護親は不利になる。どちらが正しいか、ではなく、あくまで現状として。
[3]夫婦ゲンカをする気はないから
数日経ち、例の文書に関して少し冷静に考えてみたところ、新たな疑問点が湧いてきた。
義兄は、「M市に行っても毎日のようにすみれから電話をさせるし、休みには何度でも母親のもとへ連れていく」という約束を果たさなかった理由について、一言も書いてきていない。
私が憤慨して姉に、
〈おかしいよね? こっちはただ、約束を守ってほしいと言っているだけなのに、そのことについては完全にスルーだよ〉
燃える私に対して、姉は冷静だった。
〈だから、はじめから守る気がなかったんでしょ〉
ガーン、と私は心で言った。
〈この先お姉ちゃんは、どう反論するの・・・? お姉ちゃんの人格的なものを否定してくるなら、こっちだって言いたいこと、あるんじゃないの?〉
〈いや、私は紙上でも調停の場でも、秀樹さんの悪口を言う気はないよ。夫婦ゲンカのために調停やるわけじゃないからね。すみれに会いたい、って言い続けるだけだから〉
この言葉通り姉は、最後まで義兄の悪口は言わなかった。意味がないと思ったのだろう。
さらに冷静になって考えると、いちばん大切なのは、すみれの心だと気づく。
この件が始まって以来、そして最後の最後まで、まんなかにいたのは常に「すみれ」だ。
すみれがずっと、何を知らされ、何を知らされず、何を考え、感じていたのか。
このことを周りの大人がずっと注意深く、最大の関心事として、愛をもって見つめていなければならなかった。
時系列を戻し、平成27年7月、義兄とすみれがM市に引っ越すことが決まり、姉―母親―と離れることになったすみれの心情はどんなものだったかと・・・思いをめぐらせる。
[4]「ママと離れたくない!」と泣かなかったすみれの心
「私は梨花子にも反省点があったと思ってる。すみれ、M市に行く時『ママと離れたくない』って大騒ぎしなかったでしょう。
それにね、向こうへ行った後で周りの大人から『ママはこんなひどい人』って言われたとしても、『・・・そうなのかな』と信じてしまったところに、梨花子の落ち度があったと思う。
怒ったり、夫婦ゲンカしていた光景がすみれの目に焼き付いていたんでしょう。誤解があったとしても、毎日過ごすなかで、子どもの心に何を印象づけているのか、考えるべきだったのかもしれないね・・・」
――これは姉の死後、私達姉妹の母がしみじみと語った言葉だ。
母は娘を失い、泣いて、嘆いて、涙が枯れたのち、なぜこんなことが起こったのかを考え、自分の娘が至らなかった点に考えをめぐらせたのだろう。
相手を責めるのはたやすいが、それだけでは終わらないと思案した。
自らの言動は果たして、子どもの心に何を印象付けているのか・・・親であれば時折立ちどまって、考えるべきだろう。
自身も娘を育ててきた、母親らしい発想だった。
確かに、私にも思うところはあった。
姉がすみれと離ればなれになり、調停を申し立てたーーそのことを、私が親友・美樹に話した時、一人息子を溺愛する美樹は、驚いてこう言った。
「パパとM市に引っ越すよ、ママは行かないよ、っていう時、すみれちゃんは『やだ! ママと一緒がいい!』って泣かなかったの? 私なら、俊太にそう言ってもらえなかったら大ショックなんだけど・・・」
確かにそうだった。
そうして私は、すみれが見たであろう光景を、時系列で整理してみることにしたのだ。
・平成27年1月 母親が食道ガンで入院・・・父親からその話を聞き、号泣するも「ママは絶対に帰ってくるから2人で頑張ろう」と約束し、父子の生活が始まる。4カ月の間、父親が一人で家事育児に奮闘する様子を間近で見る。
この期間ですみれは、ある意味母親のいない生活に「慣れた」のではないか。もちろんこの時点で母親に対する愛情は薄れてはいないが、父と2人の生活のイメージが出来上がったとも推測できる。
・平成27年5月 母親が退院・・・この時は本人も「嬉しかった」と後に語っている。ただ、ここから数カ月にわたって夫婦ゲンカが絶えず、すみれの前で言い争うことも何度かあった。後で振り返ってすみれは「あれだけケンカするんだから、一緒には暮らせないのかもしれない」と語っている。
・平成27年7月 父親とM市へ引っ越す・・・「ママは後で来るんだろう」と漠然と考えていて、この時点では母親に対する拒否感はない(後で本人がそう語っている)。
この頃、すみれが母親に対して感情的な行動をあまりとらなかったことは、あるいは母親の態度を鏡のように映していたからかもしれない・・・と私は思うのだ。
姉は、すみれの前で泣き叫んだり、「お願い・・・すみれ」と子どもに追いすがるようなことを絶対にしてはならないと、自分を律していた。
そういう、強い自分、母親でいることを、生きる力の源にしていたのだ。
〈お姉ちゃん、もっと弱い部分を見せてもいいんだよ・・・〉
――と私はよく言っていたのだが、姉は昔から、〈都合が悪くなると泣く女〉が大嫌いで、たとえば会社にそういう女子社員がいると、〈ああいう人、信じられない〉とよく私に愚痴っていた(そのクセ私の前では、よく泣いていた)。
そんなわけで、
〈すみれの前では冷静でいたいの。すみれの心をかき乱したくないから〉
――これが姉の信念だったが、本人には伝わっていなかったのではないだろうか?
離別の際の母親の態度や表情について、すみれはどう感じただろう。
空港で別れる際、姉はすみれを抱きしめ、「またね」とつとめて明るく手を振ったらしい。
また、余命宣告された後、学校前に現れた時も含め、すみれが見た母親は常に優しく微笑んでいた。――それは子どもの目にはどう映っただろう?
「ママは私のこと、それほど強く思っていないのかな?」
「何を考えているのか、わからない」――とは思わなかっただろうか?
調停が行われている間、神崎弁護士から姉は、こんなことを言われたという。
「これまでたくさんの面会交流や親権に関する調停に関わってきましたが、子どもの心理として、もしかしたらすみれさんは
『ママはどうしてM市に一緒に来てくれなかったの? すみれのことが好きじゃないの?』と思っている可能性も・・・あるかもしれません」
そうして姉は私に、「そうじゃないの。そうじゃないのに・・・」
と言って泣くのだった。
ーー本当に、誤解されやすい人だった。
[5]ぜんぜん違った母娘の性格
また、M市へ引っ越した後の生活に関して、私はこんな想像をめぐらせる。
――すみれの新生活は、すみれの性格に合った、穏やかなものだったのではないか?
実はこのことが、姉にとって決定的に不利にはたらいたのではないか。
すみれは、穏やかな性格の子どもだった。
病気になる前の姉からよく聞いていたが、すみれは幼稚園時代から、ほとんどお友達とケンカをしたことがないという。生まれ持った性格として、争いを好まない平和主義者のように、叔母の私にも思えた。
それに加えて聡明で、親でなくても抱きしめたくなるような愛らしい笑顔の持ち主だ。ただ、何かに夢中になると・・・特に絵を描き始めると、なかなかご飯を食べないとか、布団に入らないとか、そんなどの家にでもありそうな親の悩みはあったらしい。
ーーすみれは母親から、よく叱られていたのではないか。
それは母子の日常だったし、すみれも「そんなもの」と思っていたかもしれないが、母親の病気を境にM市へ引っ越すことになり、父親と、父方の祖母との3人暮らしが始まる。
「嫌だ、ママと離れたくない!」と泣き叫ぶにはすみれは賢すぎたし、
4カ月間必死で頑張っていた父親への敬愛もあったのではないか。
生活は激変しただろう。
日常的な世話は祖母が担う。私も何度か会ったことがあるが、義兄の母親はとても穏やかな性格の人だったし、予想外に同居することになった孫の可愛さも相まって、すみれに愛情を注いだのではないか。
それは惜しみないーーわかりやすい愛情だったと想像できる。
すみれはどう感じただろう?
愛情にはさまざまなカタチがあると、大人のような理解ができただろうか?
それとも、穏やかな毎日とはこういうものかと子ども心に感じただろうか?
この一連の出来事の登場人物で、最も理不尽で、抗いようのないストレスを被ったのは、すみれだ。それは間違いない。
「死」をも予感させる母親の大病、退院したものの夫婦の不和を目の当たりにし、予想外の引っ越しと転校、自分をめぐる裁判(本当は調停だが)が行われるという不穏さ、その話をすると不機嫌になる父親・・・。
いい加減にしてくれ、普通に生活をさせてくれ、と叫びたかったのはすみれではないのか。
生活がガラリと変わったのは小学2年生、家庭裁判所の調査官が初めて話を聞きにやって来たのは小学3年生。いちばん伸び伸びと自分らしく生活したい年頃だ。
M市に移住してからのすみれは、垣間見える母親の行動について「自分の穏やかな生活を壊すもの」と次第に感じていったのではないかと思う。
だから妻に調停を申し立てられて憤慨する父親と、同調はしやすかった。
ただ、一度でもゆっくり2人で話す時間を持つことができたなら、
「ママはすみれが大好き」と母親から素直な気持ちを聞けたなら、誤解はあっさり解けただろう。
だって、ずっとずっと一緒に暮らしてきた母と子なのだ。
姉は調停で何度も訴えた。
「会えばわかります。自信はあります。目を見て、ギュッと抱きしめれば、分かり合えます。私が産んで、私が母乳を与えて、毎日ごはんを作って、7歳まで育てた子ですから・・・」
しかしだからこそ、一度も会わせてもらえなかったのかもしれなかった。
後編へつづきます。