発掘した大量のメモ。いつだってその時のベストだった
今月の自分のテーマが断捨離なので、毎日少しずつ不要なものを処分していっている。
今朝は物置の奥に押しやっていた段ボールの箱を引っ張り出した。過去の日記やらファイルやらメモやらが雑多に放り込まれている。
今の家に引っ越してきてから半年以上経つけれど、荷解きを放棄して見て見ぬふりをし続けていた箱だ。
その箱の中身を精査するのは、過去の自分に向き合うことと同義だった。骨が折れるというか、そういうのって頭が疲れる。放っておいて、そのうちフッと箱ごとなくなっていたらいいなとか思っていた。
しかしいつまでも先送りにしてちゃいかん。スッキリしたい。気合いだ!
クリアフォルダに大量に入っているメモ。ノートが10冊ぐらい。がさっと全部ゴミ袋に入れたいけれど、シュレッダにかけるべき情報がないか見なきゃいけない。一冊一冊パラ見してみる。
エンジニア時代の勉強ノート、転職準備ノート、仕事用ノート、日記。
それと、ハガキサイズの大量のメモはいずれも「脳内吐き出し」的な内容。仕事、家族、生き方、自分自身、楽しかったことなど、悩みや思いが小さい文字でびっしり書きたくられている。それらのメモは、カテゴリ分けされクリアフォルダにどっさりストックされていた。いろいろと煩悶しまくっていた痕跡。
A4方眼紙に色々書いているのもたくさん出てきた。当時読んでいた本の影響だったはず。
手帳に挟んでいた、お気にりの言葉のメモも出てきた。ポータブル座右の銘にしていたのだった。
箱を開くまでは「この箱、これまでの日記類を入れてたよな。どうせ黒歴史や厨二病の履歴しかないんだし、直視したくないなー」とか思っていたけれど。
開けて、中身を確認してみて良かった。え、私めっちゃ懸命に生きてたんやん。
自分で言うのもおかしいかもしれないけれど、不甲斐なさとか至らなさとか恥ずかしさとかを凌駕する「懸命さ」がそこにはあった。
今日それらをざっと読み返してみて、「イケてない思い出のまま記憶の底に溶けていきそうだった過去」が、「精いっぱい生きていた過去」になった。
その時の自分に対する評価がどうであろうと、人の目にどんなふうに映っていようと、いつだってその時なりのベストを尽くしていたんだよな。
きっと、他の多くの人もそうなんだろう。
余裕がなくてカリカリしてしまったり自己中な振る舞いをしたり、無駄遣いしちゃったり誘惑に負けたり、ついいらんことを口走ってしまったり、後悔したり、自分が嫌になったり、同じことの繰り返しなんじゃないかと漠然とした不安に苛まれたり、人の幸せを手放しに喜べなかったり、いい大人になっても叱られて滑稽に凹んだり。
そういう時も、「あの人」も自分も、精いっぱいだったのだ。
人って多面的。重厚感がある。膨大な過去や気持ちの蓄積があるなんて、当然すぐには感じられない。
家族、友達、スーパーの店員さん、新しく知り合う人。誰と接するときも「この人も自分も、立体的で何層もの顔がある存在なんだ」と留めておきたい。
ヤなことだって、そのうち風化する。
どんなときも、その状況を面白がっていきたい。そんな、俯瞰できるもう一人の自分をいつでも召喚できる自分でありたい。
あー、夜眠いなかnoteを書くと「深夜のラブレター現象」になってしまいがち。
この記事も明日の朝読み返したら、ポエマーかよ!って恥ずかしさで暴れたくなるかも。
そういうのも、明日の自分に面白がってもらうことにする。