【取材旅行】甘樫丘
何となく「甘樫丘の夕景が見たい」と旅程を組みながら思っていました。
少しだけ涼しくなってきたので、愛犬も散歩モードで共に丘に登ります。
丘は綺麗に整備されていてランニングを楽しむ人の姿もちらほら。
駐車場に車を停めるとそのすぐ上に「蘇我入鹿旧邸宅跡地」があります。
「ここ・・・かな?看板とか遺構もないけど」
その辺りと思われるのが上の写真です。
以前「蘇我氏は身の危険を感じていなかったのはその邸宅の位置取りからもわかる」という論文を読んだのですが(筆者失念)、
同行していたドライバ…もとい旦那氏(中国史好きから日本の戦国時代好きに。高校では世界史をやっていたので古代史知識皆無)が
「全然山城じゃないやん。これは攻められるのを守る位置取りじゃない」と同じようなことを言っていました。
確かに。今は草木深しの体ですが、ここに邸宅があったとしたら責められ放題です。
更にそばには「甘樫丘東麓遺跡」もありますが「麓遺跡」の名の通りです。
こちらも蘇我氏の邸宅跡かと推察されていますが、全くの無防備です。
乙巳の変で蝦夷が邸宅に火を放ったのが史実であれば、この位置では軍隊に包囲されたら終わりだったからかもしれません。
ですがそもそも責められるはずのない地位にいたのが蘇我氏であり、この時代の王家の一つであったと私は考えています。
(詳しくはまたの機会に)
改めて驚くほど綺麗に整備された道を上り展望台に。
途中、万葉の植物が植えられて植物クイズとなっている場所もありました。
ここからの眺めは明日香を一望できます。
↓このような眺望の説明図もあり、とてもわかりやすい!
大和三山も二上山も見渡せるこの景色は、明日香を国見するのにぴったりではありませんか?
この甘樫丘周辺は蘇我氏関連の寺や宮(邸宅)が多いのは古代史ファンには言うまでもがな…だと思います。
甘樫丘を掌握していた蘇我氏はやはり明日香の王だったのだと私には思えてなりません(妄想含む)。
蘇我と中大兄皇子の確執は日本書紀の虚構である…という見方は最近よく耳にしますが、私もやはり後世(藤原氏)によるご都合主義の物語だと思っています。
(この話もまた後日…)
丘を推古天皇の豊浦宮方面に下りていこうとすると、また遺跡がありました。
平吉(ひきち)遺跡です。
6世紀から9世紀の住居跡や土器などが出土した旨が書かれています。
↓このような記事もありました。
蘇我氏が滅亡後にもこの丘が再整備されていたのは、重要な拠点であった所以でしょうか。
それとも他に理由が・・・?
甘樫丘については蘇我氏の謎と共に再評価する必要がありそうですね。