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【取材旅行】宗我坐宗我都比古神社

近鉄大阪線の真菅(ますが)駅のそば、ほぼ線路沿いに位置します。
(Pもあります。有難いです!)
蘇我氏の本拠地と伝わる神社で、その地名は万葉集に伝わります。

「真菅吉 宗我乃河原尓 鳴千鳥 間無吾背子 吾戀者(巻12・3087)」
(ま菅よし 宗我の川原に鳴く千鳥 間なし我が背子 我が恋ふらくは)

菅のすがすがしいこの宗我の河原に千鳥が鳴き続けるように私の貴方への思いも果てることはないですよ…といった意味になります(私流意訳)。

「ま菅よし」は「そが」の枕詞となっています。
万葉の時代、この地にはスゲが一面に生い茂り、そこに千鳥が住み着いていたのでしょう。
千鳥は群れ(100羽以上)を成すのでその鳴き声はまさに間断なく響き渡り、その声に自分の恋嘆く忍び泣きの声を作者は重ねたのかもしれません。

作者は不明ですが「背子(愛しい男性)」と呼び掛けているので、女性でしょうね。
(wikiの真菅村の条に人麻呂作とありますが…そういう伝承が当地にあるのか?時時ある編者の間違いなのかはわかりません)

この歌に因んで「真菅村」が命名され、駅名も村名に由ったものだそうです。
読みは「ますが」「ますげ」とも。
私の持っている万葉集にも「ますげ」派と「ますが」派の読みに意見が分かれていることが校注にあります。

「すが」は「すがすがしい土地」という意味で古事記等によく登場します。
その「すが」も地名に掛けられているのでは?と思えますね。

尚「宗我川」の描写は万葉集にこの一首しか見られません。

(余談…調べてみたところ磐余神社にこの句碑があり、教育員会の案内板には「ますが」の読み方と、作者不詳との説明が記されています。)


神社入口

蘇我氏の本拠地…とこの地の説明をしましたが、蘇我氏は謎多き一族でその出自も定かではありません。
(私は蘇我氏大王家説を提唱していますが)

蘇我氏は自らの出自については武内宿祢(孝元天皇曽孫)の子孫であると明言していたようなことが散見されます。
それを踏まえてか『五郡神社記』(室町時代成立)には、
「推古天皇の御代に蘇我馬子が武内宿禰と石川宿禰を祀って神殿を蘇我村に造営した。」
と記しているようです。

その出身地についても大きく3つ+渡来人説の4説が有名です。

奈良県青年神道会は、「蘇我氏=河内石川郡出身説」を推しているようで、
「当神社の所在地域の曽我は古名を蘇我と記し、
 8代孝元天皇の御子彦太忍信命の孫にあたる竹内宿禰の第三子石川宿禰が、蘇我の大家を賜って、大阪河内から移り住み、姓を蘇我と名乗ったという。 
 33代推古天皇の御代になって蘇我石川宿禰五世馬子宿禰が、この地に社殿を造営して、始祖夫妻をお祀りしたと伝えられ、およそ1400有余年前で、当神社の起源とされる。
 蘇我氏の始祖を祀る当神社は古くから地元曽我の人達から「曽我ンさん」と呼ばれ広く親しまれている。」
との記載を見つけました。

一方この真菅を蘇我の本拠とする説は「蘇我氏=大和高市郡出身説」です。
神社の社伝にはどのように伝わるかといいますと…その点に直接の言及はなさそうです。

「持統天皇が蘇我氏一門の滅亡を憐み、蘇我倉山田石川麻呂の次男である徳永内供に蘇我氏の一氏族である紀氏を継がせ、内供の子の永末が祖神を祀るための土地を賜って社殿を造営した」とのみ伝わるようです。

(境内に社伝等見当たらなかったのでこちらを参考にさせていただきました)


ですが、この「徳永内供」が他に記録に残っていないこと、また石川麻呂の息子たちは父と共に自ら果てたとされていることから疑問が残ります。

また「この地を賜って」が単純相続なのか、天皇から下賜されたかによって、当地本拠説の判定に大きく違いが出てしまいます。
持統天皇が相続していた土地を内供に与えたのであればどちらもクリアーですけれど。
持統天皇は山田寺では仏の力をもって、この曾我都比古神社では神の力をもって、石川麻呂とその一家を供養したかったのでしょうか?その中にはご自身の母上・越智郎女も入っているのかもしれません。

(余談…
 他には「蘇我氏=大和国葛上郡出身説」もあります。
 こちらを有利とみると越智崗上陵の被葬者問題にも関係がして来そうな…)

境内

こちらの御祭神は「曾我都比古神」「曾我都比売神」の二柱です。
名前からも蘇我氏由来の神(祖先神?)だと思われます。
ですが、その正体は詳らかになっていません。

『延喜式』神名帳では祭神を2座とされていて、
『五郡神社記』では武内宿禰・石川宿禰、
元禄年間(1688-1704年)頃の社記では彦太忍信命(武内宿祢の祖父)・石河宿禰、としています。

いつから「ソガツヒメ」という女性神の名が登場したのは謎ですが、
上記の社伝が本当であれば「ソガツヒコ」は石川麻呂、「ソガツヒメ」は越智郎女なのかもしれない…そう思ってしまいます。

越智郎女は父の死を知り、気が触れてしまったという逸話が残ります。
『天上の虹』で里中大先生の描かれたその描写は、当時まだ学生だった私にはショッキングですらありました。
もしそれが史実であるならば、娘である持統天皇は母を弔いたく思ったに違いありません。

また、大田皇女が死した際に最初に葬られたのが越智崗上古墳であったと考えた場合、現斉明天皇陵とされる陵墓は越智郎女の墳墓なのかもしれません。
健皇子は母と姉と同じ場所に葬られていたため、斉明天皇の意向はあえて無視されて間人皇女(娘)と共に牽牛塚古墳に埋葬されたのかもしれません。
(間人皇女は中天皇として即位した説もありますし)。
…そうなると「大田皇女改葬」に謎がまた生じますが。
最初に母と同じ山に葬られた後に斉明天皇と共に眠ることとなったのでしょうか?なぜ?
(個人的は大田皇女は最初に正妃であったことと関係があるようにも感じます。蘇我の女系の長女であったこととも関係があるかもしれません)

松が美しい御手水

話が前後しますが、石川丸の子・内供が新たに蘇我と関係のない土地を賜ったという考え方は筋が通らないように感じます。
こちらの神社は境内も清々しく広いのですが、更に奥に森が広がっています。
そしてこちらの神社を中心に「中曽司遺跡」という弥生時代の遺跡が見つかっているのです。
農耕器具や生活用品(土器)が出土していることから生活の場であったことがわかります。

この集落が蘇我氏のものであったかは不明ですが、何もない土地に突然社殿を建てたわけではなさそうです。

また、『紀氏家牒』(平安時代成立)に、蘇我石川の家は大和国高市郡蘇我里にあるとあります。

やはりこの地は蘇我氏…石川麻呂に関わるだったのでしょう。

現在も近鉄大阪線が走るようにこの地は橿原(神武天皇をはじめとする宮)と難波(海への玄関口)を結ぶ要所だったのでしょう。
その地はまた蘇我氏にとっても要所であったはずで、そこを石川麻呂は管理していたのかもしれませんね。
それに因んで持統天皇が石川麻呂を祀る神社を建てたのでは…と私は勝手に妄想してしまいます。

境内社

興味深いことがもう一つ。
『大和志』(「日本輿地通誌」の一部。江戸享保年間成立)に「入鹿宮」と称されていたことが記されているそうです。
「蘇我氏=入鹿」という近世史観なのでしょうか?それとも…?妄想は止まりませんね。


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