走るとは、魂を磨くこと。
私が、趣味としてのランニングを始めて、38年が経とうとしています。社会人になってからは、ほぼ毎日、走って来ました。
今でもそうですが、走る目的の一番は、タイムの向上に有ります。そして、「昨日より今日、今日よりも明日」と思い、自分自身が成長を感じられることが、ランニングの最大の魅力であると思って来ました。
しかし、ここ数年、ランニングに対する情熱が、自分では変わっていないと思いつつも、以前に比べ、冷めていたのかもしれないと感じ始めました。
そう思うきっかけとなったのが、先日、10年ぶりに出場した東京マラソンでの自身の走りに有りました。
結果は、26km過ぎでの途中棄権。もちろん、その日に向けて、トレーニングは毎日継続していましたが、明らかな練習不足が原因の結果でした。
しっかり距離を踏まなければ、フルマラソンをきちんと走ることが出来ないと分かってはいたものの、「何とかなるさ」と勝手に考え、レースに出場することに至りました。
そして、レース後、東京マラソンを振り返り、以上のような状況に、あまりにも『気持ち悪さ』を感じ、今一度、マラソントレーニングの基本である『走り込み』に重点を置いた練習を再開しました。
その過程となる今朝のトレーニング中で、自然と湧き上がって来たのが、タイトルの『走るとは、魂を磨くこと』という想いでした。
以前の投稿でも紹介しましたが、私は子供の頃、母親から「人生は修行の場」であると言われて来ました。
同様の表現が、今読んでいる『心の原点』(高橋信次著)にも出て来て、最近改めて「人生は修行の場」であると、自分に言い聞かせるようになりました。
その状況の中で、淡々と走り続けていた今朝のある瞬間に『走るとは、魂を磨くこと』と、自然発生的に思ったのでした。
ここ数年、苦しい練習を避ける傾向になったり、ランニングフォームという形ばかりに拘り過ぎて、マラソントレーニング本来の鍛錬の度合いが減り、結果として、魂を磨くまでに至っていなかったのだと、今朝のランニング中に悟ることが出来たのでした。
もちろん、苦しむだけがランニングの目的ではありませんが、自分自身と正面から向き合い、苦しさという困難から逃げない姿勢こそが、自身の魂を磨くことに繋がるのだと、今、心から感じている次第です。
56歳という年齢のせいにするのではなく、走ることを通して、常に苦しさと相対峙しながら、自分自身の魂を磨き続けることで、さらなる成長を遂げるプロセスを、これから、改めて楽しんでいくつもりです。