募集をかけるときは、相手を慮ること。
仕事の掲示板があるでしょう。
「〇〇やってくれる人、募集」みたいな。
リクルートや、仕事発注のほとんどがそういう内容です。
最近ではフリーランスのコミュニティメンバー募集の内容でも、似た様な内容が書かれています。
ああいうのを見ても何も思わない自分と、ああいう内容が溢れていることにギャップがあるのかと思って、この理由を考えてみたら、いつも話していることに行き着きました。
「知らない人は助けられない」
ここだけ聞くと冷酷なように聞こえるでしょうが、助ける内容の深さと助ける相手との関係の深さに相関があるということです。
例えば、電車で席を譲る程度であれば、関係性が深くなくても助ける(譲る)でしょう。
けれど、同じ電車の同じ車両の自分と近くにいなければ、席を譲ることは起きない(できない)です。
東京の電車の席を、大阪の電車に乗っている人に譲るのが不可能なように、これは事実です。
さらに、人に拠るところとして、好ましくなさそうに見える相手には譲らないものです。
これはぼくだけかもしれませんが、暴れそうな人、厳めしい人には譲っていないと思います。
席を譲ることをとっても、こうやって事実と個人的側面が組み合わさって、助けるかどうかが決まってきます。
これを踏まえて、仕事内容の募集を見てみると、「〇〇に情熱がある人」「自主的に〇〇できる人」って書かれているのが多いのですが、情熱があれば既に仕事にしているでしょうし、お節介を働くに相応しい相手かどうかは募集内容だけでは分からないんですよね。
ぼくの事務所サンポノでは、初見の相手とは必ず会ってから、その仕事を受けるかどうかを決めます。
相手を気に入れば受注するし、相手がぼくを気に入れば発注するでしょう。
ぼくの選定基準で言えば、仕事相手を「家族や友人と思えるか」で選んでいます。
それは、浅いところから深いところまで、ぼくはお節介を働くからです。
その人に必要な本を教えたり、必要な情報やデザインを提供したり、ステージに連れてったり、お土産を持って行ったり……お節介はたくさんあります。
これを募集内容に当てはめたら、「自主的に〇〇できる人」になるでしょう。
けれど、これは相手次第です。
たとえば、連続殺人犯にお節介を働くかと質問されても、「会ってみないとわからない」と答えます。
「会ってみたい」ではなく、「会ってみない」とわからない。
仮に、会ってみたいと思っていたら、会えるように動いているでしょう。
やりたいことは、既に仕事にしていることです。
これからやりたいと思ったことも、ぼくは仕事にするでしょう。
だから、仕事にしていないことや取引関係にない人とは、すべて「会ってみないとわからない」なのです。
ここまではぼくの考え方ですが、実はデザイン事務所あるあるでもあります。
クライアント企業内の担当者がころころ変わる現場では、プロジェクトが進まないのです。
これはぼくらだけではなく、多くの事務所が同じことを言います。
プロジェクトを形にしてリリースするだけであれば、担当者が変わっても可能です。
けれど、いい形、いい価値を持ってリリースさせるためには、担当者同士の信頼関係に依存します。
担当者が変わるというのは、「この人はお節介を働くに値する人間かどうか」の判断する期間が生まれてしまうということ。
なぜなら、お節介というのは他人から求められるものではなく、自主的に行動するものだからです。
こうやって考えると、担当者を変えなければならないときのケアって、とっても大事だと気づきました。
企業に属していたら、どうしても担当から離れなければならないときもあるでしょう。
こういうとき、自分の都合ばかりを話すのではなく、これから新しい担当者とやっていかなければならない相手の都合を慮ることができるか。
事実として知らない人は助けらないけれど、知り合った人なら助けられる。
そして、助けたいかどうかは、相手による。
全員は助けられないけれど、友人や家族なら助けたいと思うでしょう。
そうであるならば、相手のことを友人や家族と思える努力を怠らない。
どうしても無理なら、仕方がない。
ぼく自身も、慮れる人でありたいと思いました。
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