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【ティエポロ】ミラノのクレリチ宮
17世紀にはヴィスコンティ家の邸宅だった建物を、その後カルロ・ジョルジョ・クレリチ侯爵が買い取り、ミラノにそれまでにないような豪華な宮殿にしようと大修復が行われました。
それがミラノ大聖堂からすぐの、裏通りにひっそりと佇むクレリチ宮です。
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18世紀になり、カルロの息子のアントニオ・ジョルジョ・クレリチにその「大修復」の意思は引き継がれます。
当時イタリアでも話題になっていたヴェルサイユ宮殿の「鏡の間」を意識し、バロック芸術の粋を集めようと、アントニオは莫大な資金力でそれを実現していったのです。
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当時かなり高価であった鏡をふんだんに配置し、その向かいの壁にはフランドル地方で織られた豪華なタペストリーが掛けられています。
このクレリチ家ご自慢のサロンは全長なんと22メートル!
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その頃ヨーロッパ各地で名が知られていたヴェネツィアの画家ジャンバッティスタ・ティエポロをミラノに呼びよせ、1741年にはサロンの天井いっぱいにフレスコ画『太陽神の凱旋車の疾走』 を完成させました。
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天井画は下方から見上げる仰視法を取り入れ、明るく優美な彼の画風の効果を一層盛り上げる役割を果たしています。
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この手法は当時のミラノの貴族たちにも大人気で、クレリチ家のサロンは舞踏会などの待ち合い室としても使用され、ミラノ社交界の場でもありました。
ティエポロはまた、フレスコ画に遊び心を取り入れるのも得意でした。そうした工夫が、貴族たちの目を楽しませ、知的な会話を促していたのでしょう。
天井の四隅には『四大陸(ヨーロッパ、アジア、アメリカ、アフリカ)』を描き、世界観を表現しています。
もちろん彼の自画像も描き込んで、ちゃっかり自己アピールするのも忘れていません。
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女性が手をあげている、その下にある顔がティエポロ自画像だと言われています。
これだけの贅を尽くし、一族の資産を使い果たし、人生を謳歌したアントニオ・ジョルジョ・クレリチが1768年に亡くなりました。資金繰りに困った跡継ぎのフランチェスコは、その時ミラノを統治していたハプスブルグ家の女帝マリア・テレジアの息子フェルディナンド大公とマリア・ベアトリーチェ・デステ大公妃に、このクレリチ宮を「賃貸」し、その後ミラノ王宮が建設されて大公夫婦がそちらへ移ってしまった後、1813年にナポレオンに譲る事になりました。
華麗な歴史を刻んだクレリチ宮は1942年からISPI(国際政策研究所)として機能して現在に至ります。
時々ガイドツアーを開催し、この素晴らしいティエポロの間を見学できる機会がありますので、ご興味ある方はぜひ予約して行ってみてください。