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好きって名前の免罪符
ゆんは好きを押し付けてないかなぁ、とちょっと考えこんでしまう事があったので、旅行後もしばらく中々文章が書けずにいました。
言葉は、思いは、好きは。
使い方を間違えればいくらでも人を追い詰めてしまうよね。
でも、本人からみたらそれは純粋な好きなんだよね。
愛に見返りは必要なのか。
とても難しい問題だなぁ、と思います。
だってさ。
見返りが必要なものなんて、愛じゃないっていうのは簡単なんですよ。
でも、人って、無意識だろうがなんだろうが、いつの間にか愛故に期待をしてしまうものだともゆんは思うんです。
愛されてる側からしたら、期待すらされないのはとても虚しいよね。
でも、愛してる側と、愛されてる側の期待の方向性が少しでも違えば、それは重いよね。
人は、愛を受ける側も、愛する側も、なんて都合のいいもんなんだろう。
例えばそれは恋愛に限らないんですよ。
ゆんだって、親からの期待は重かった。
医者なんてなりたくないし。家業なんて継ぎたくないし。
いくら家族のためだろうが、どちらにもミリの興味も持てなかった。
でも、だからといって、それが重かったから自分が人に期待しないかと言えばそうでも無い訳で。
ゆんは、姪っ子を溺愛していて。
どんな経験もさせてあげたいし、何をやりたいって言っても応援したいけど、その感情って結局期待だよなって思うし。
もひ、姪っ子が「特にやりたい事なんてないよ」って無気力なタイプに成長したら「何やりたい?何やりたい?なんでも応援するよ!」ってゆんの感情は多分重荷ですよね。
まぁ、今回考え込んでしまうきっかけになった出来事は、家族でも恋愛でもないのですが。
とある人の行動を見て不快な気持ちになったけれども、それならばゆんは、知らず知らずのうちに似たような事をしていないだろうかって、ずっと考え込んでしまいました。
こういうの、気をつけてても無意識に出ちゃうもんだと思ってて。
だとしたら、それは中々怖いことで。
どんな期待でも、それは、確かに好きだからなんだけど。
期待通りに行かなくても構わないし、見返りが欲しい訳でもないって理性が言っていても、ゆんの内側からにじみ出るものは、本当にそう思ってるのか。
ゆんは、自分がそんなに清廉潔白である自信なんてないんですよ。
どんな、傍から見てて有り得ないと思う事でも。
じゃあ、自分がそれと同じことを絶対しないって思うかって問われたらそれは肯定しきれない。
だって、人間って人間が思うほど理性的じゃないよ、大抵。
それでも、気をつけて行くことだけは出来るから。
人の振り見て我が振り直せ、なんて事はできないけれど、人の振り見て自省せよ。はしっかりしていきたいな。
私の好きが、できるだけ、とても綺麗なものでありますように。
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