入祭唱 "Requiem aeternam" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ114)
Graduale Romanum (1974) / Graduale Triplex, pp. 669–670 (これら2冊の内容は四線譜の上下のネウマの有無を除けば基本的に同じだが,本文中で言及するときは,煩雑を避けるため後者のみ記す); Graduale Novum I, p. 409.
gregorien.info内のこの聖歌のページ
【教会の典礼における使用機会】
【現行「通常形式」のローマ典礼 (1969年のアドヴェントから順次導入された) において】
1972年版Ordo Cantus Missae (Graduale Triplexはだいたいこれに従っている) では, 「すべての亡くなった信者の記念」の日 (死者の日,万霊節。11月2日),また個人の葬儀ミサや死者記念ミサで用いることができる入祭唱の一つとなっている。後者についてだが,葬儀ミサや死者記念ミサが復活節中に行われる場合のための聖歌が少し後にまとめて記されているところを見ると (Graduale Triplex, p. 677),この入祭唱は復活節以外に用いることが想定されているのかもしれない。
2002年版ミサ典書では,やはり「すべての亡くなった信者の記念」の日 (11月2日) や個人の葬儀ミサで用いることができる入祭唱の一つとなっている (なおこちらでははっきりと「復活節以外の時期に」と記されている) が,死者記念ミサ用としては指定されていない。ほかの使用機会は,PDF内で "aeternam dona eis" をキーワードとして検索をかけた限りでは見つからなかった。
【20世紀後半の大改革以前のローマ典礼 (現在も「特別形式」典礼として有効) において】
1962年版ミサ典書でも, 「すべての亡くなった信者の記念」の日 (11月2日) および死者のためのミサ全般 (亡くなった当日,埋葬,記念) に割り当てられているが,いずれにおいても,こちらでは典礼改革後と異なりほかの選択肢がなく,つまり必ずこの "Requiem aeternam" が用いられることになっている。
AMSにまとめられている8~9世紀の諸聖歌書には登場しない。Graduale TriplexやGraduale Novumに書き写されているネウマの出所となっていることが多いLaon 239 (9世紀後半か10世紀前半) とEinsiedeln 121 (10世紀後半) については,前者には含まれているが後者には含まれていない。
【テキスト,全体訳,元テキストとの比較 (アンティフォナ)】
Requiem aeternam dona eis Domine: et lux perpetua luceat eis.
永遠の安息を彼らにお授けください,主よ。そして絶えることのない光が彼らを照らすようにしてください。
第4エズラ記 (第4エズラ書) 第2章第34–35節がもとになっている。この「第4」という数え方はVulgataにおいてのものである。
第4エズラ記はプロテスタント教会はもちろん,カトリック教会でも正典に含まれていない文書である。
第3~14章 (狭い意味での「第4エズラ記」はここだけ。後述) はもともとヘブライ語で著されたとみられるが原文は残っておらず,ギリシャ語訳も断片的な引用で伝わるにすぎず,現在はラテン語などの諸言語でのみ伝わっている (完全な形で伝わっているのはラテン語でのみ)。
第1~2章と第15~16章は後で (おそらくキリスト教徒によって。特に第1~2章) 付け加えられたもので,ラテン語でしか伝わっていない (おそらくギリシャ語で著されたテキストの翻訳であろうと推測されている)。これらの部分はそれぞれ第5エズラ記,第6エズラ記とも呼ばれ,この呼び方を用いるならば,今回の入祭唱のもとは第5エズラ記だということになる。(以上2段落はRGG onlineの "Esra/Esrabücher" の項 [2024年10月27日アクセス] を参考にした。)
しかしVulgataではこれらの部分もすべて含めて「第4エズラ記」としているので,本稿もこれ以降それに従う。
日本の聖書協会共同訳聖書や新共同訳聖書 (いずれも「旧約聖書続編付き」の版のみ) には「エズラ記 (ラテン語)」として収録されており,翻訳元はVulgata (ドイツ聖書協会版。聖書協会共同訳でも新共同訳でも,第何版かは記されていない) である。
Vulgata (ドイツ聖書協会2007年第5版) の第4エズラ記第2章第34–35節は次のようになっている。太字は今回の入祭唱に対応する部分である。
「聞きまた理解する諸国の民よ」とあるが,この言葉が置かれている本来の文脈は,もともとの神の民 (ユダヤ人,聖書的な意味での「イスラエル」) が神の恵みを受けてきたにもかかわらず不従順だったので,神は諸国の民 (神の民イスラエルの対概念としての「異邦人」) へと恵みを転ずる,という話である。
では死者の話は関係ないかというと,そんなことはない。というのも,その恵みというのは「イスラエルに与えるはずであったエルサレムの王国」(同章第10節,聖書協会共同訳。以下同じ), 「イスラエルのために用意した永遠の幕屋」(第11節) なのだが,続く「命の木は彼らを香油の香りで包み,彼らは労苦することも疲れることもない」(第12節),さらには「僅かな日々がさらに短くなるように願え。王国はすでにあなたたちのために用意されているのだ」(第13節) という言葉 (「僅かな日々」は地上の生涯のことのように読める) からして,この「王国」は地上・この世のものではないことがうかがえるのである。
さらに, 「私は死者たちを己の場所からよみがえらせ,墓から引き上げる」(第16節), 「あなたの子どもたちがゲヘナ [=地獄] を見ることのないよう,私の手はあなたを守る」(第29節), 「眠りに就いているあなたの子どもたちを思い起こせ。私は地の穴から彼らを引き出して,彼らに憐れみの業を行おう」(第31節) といった言葉も同章中に見られる。
入祭唱には含まれていないものの,上に引用した第34節には「世の終わりに到来なさるあの方」という表現があり,これはキリスト教徒ならばまずイエス・キリストのことだと思う言い方である (そもそも,前述の通りこのテキストはキリスト教徒によって書かれた可能性が大きいとされる)。そして文脈上,これは「永遠の安息を [……] あなたがたに与え」てくれる「あなたがたの牧者」の言いかえであると考えられる。
というわけで,キリスト教的に読めば「永遠の安息を [……] 与え」る「牧者」とはイエス・キリストのことだということになり,このこととつなげて考えるならば,入祭唱の "Domine (主よ)" という呼びかけはイエス・キリストに対するものだ,ともいえるだろう。
入祭唱に対応する部分の聖書テキストと入祭唱テキストとの相違点,またそれについての若干の考察は次の通り。
もとの聖書テキストでは (未来時制の) 直説法を用いた平叙文で語られていることが,入祭唱では命令法や接続法を用いた祈願の文になっている。
祈願の文にするということは,これを言う主体はわれわれ自身になるため,人称代名詞は "vobis (あなたたちに)" のままではおかしいので,置き換えが行われている。
それにあたっては,もとの聖書テキストに即するならばむしろ "nobis (われわれに)" に置き換えたほうがよかったろうが (「永遠の安息をわれわれにお与えください」),そうではなく "eis (彼らに)" となっている。これにより,永遠の安息が与えられるよう・絶えることのない光に照らされるよう願われるのが死者たちにはっきり限定されている (「彼ら」が死者たちを指すということ自体はテキストでは言及されておらず,この入祭唱が死者に関するミサの中で使用されることから分かることでしかないが)。
【テキスト,全体訳,元テキストとの比較 (詩篇唱:Graduale Novumによる)】
詩篇唱のテキストはGraduale TriplexとGraduale Novumとで異なっており,伝統的に用いられてきたのは後者 (この部で扱うもの) のほうである。前者の訳・解説は需要が少ないだろうと思うので,本稿の最後で行う。
以下,[1.],[2.] それぞれの後にアンティフォナ ("Requiem aeternam…") が繰り返される。
[1.] Te decet hymnus Deus in Sion, et tibi reddetur votum in Jerusalem.
あなたにはシオンでの讃歌がふさわしい,神よ。あなたにはエルサレムで誓いが果たされるでしょう。
[2.] Exaudi orationem meam, ad te omnis caro veniet.
私の祈りを聞き入れてください。あなたに向かってすべての肉なる者が来るでしょう。
詩篇第64篇 (ヘブライ語聖書では第65篇) が用いられており,ここに掲げられているのはその第2–3節である。テキストは,"Jerusalem" の綴りを除けばローマ詩篇書に一致している (ローマ詩篇書では "Hierusalem"。Vulgata=ガリア詩篇書でも同じ)。Vulgata=ガリア詩篇書には "meam (私の)" の一語がない。
(「ローマ詩篇書」「Vulgata=ガリア詩篇書」とは何であるかについてはこちら。)
【対訳・逐語訳 (アンティフォナ)】
Requiem aeternam dona eis Domine:
訳1:永遠の安息を彼らにお授けください,主よ。
訳2:(……) お恵みください,(……)
最も一般的な「与える」という意味の動詞はdo, dareだが,ここではdono, donareが用いられている (典礼文中からほかの有名な例を挙げると,Agnus Deiの最後 "dona nobis pacem")。
逐語訳にも示した通り,この動詞も単に「与える」と訳してもよいのだが,この語特有のニュアンスを大切にしようと試みたのが上に掲げた2つの訳である。個人的には訳2も捨てがたいのだが,訳1のほうが無難だし原語が何なのか分かりやすいと思うので,全体訳ではこちらを採った。
et lux perpetua luceat eis.
そして絶えることのない光が彼らを照らすようにしてください。
直訳:そして絶えることのない光が彼ら (のほう) に輝きますように。
接続法なので祈願文のように訳す (上記「直訳」で示した) のが普通だが,直前が「主」に向かって願いを直接述べる命令文であり,続くこの文も「主」に向かって直接言っている言葉だと感じられる。そしてここで述べられている願いを誰に実現してもらうのかといったらほかならぬ「主」にであるから,結局直接お願いしているのと変わらない。そこで前と同じように「~してください」と訳すことにした。
"luceat eis" は「彼らの上に輝きますように」などと訳したくもなるが,これだと「彼ら」自身が光源になっているように読めないこともない。そうではなくあくまで別のところからきた光が「彼ら」に当たっているということを明確にするため,上記のような訳文にする。
【対訳・逐語訳 (詩篇唱:Graduale Novumによる)】
繰り返しになるが,詩篇唱のテキストはGraduale TriplexとGraduale Novumとで異なっており,伝統的に用いられてきたのは後者 (この部で扱うもの) のほうである。前者の訳・解説は需要が少ないだろうと思うので,本稿の最後で行う。
Te decet hymnus Deus in Sion,
訳1:あなたにはシオンにおいて讃歌がふさわしい,神よ。
訳2:あなたにはシオンでの讃歌がふさわしい,神よ。
訳3 (採らない):あなたには讃歌がふさわしい,シオンにいらっしゃる神よ。
"in Sion" は「シオンでの」と形容詞的にとって "hymnus" にかけてもよいし (訳2), 「シオンで」と副詞的にとって文全体にかけてもよい (訳1)。
この "in Sion" は直前の "Deus" にかかっているようにも読める (訳3) が,手元の七十人訳ギリシャ語聖書 (ドイツ聖書協会2006年第2版) を見ると "Deus" にあたる語と "in Sion" にあたる句との間にコンマがあるので,この解釈は採らない。
アウグスティヌスによれば,ここで暗黙のうちに言われているのは「バビロンでではなく,シオンで」ということ。シオン (=エルサレム) は天の国を象徴し,バビロンはこの世 (単に地上・今生きている人生というより,現世的欲望を追求する生き方が支配するところを意味する) を象徴する。この世を愛する者ではなく天を愛する者が歌う讃美こそ神にふさわしいということ。(参考:『アウグスティヌス著作集』19/I [詩編注解3],教文館,p. 284以下,特にpp. 287–288。)
et tibi reddetur votum in Jerusalem.
(そして) あなたにはエルサレムで誓いが果たされるでしょう。
Exaudi orationem meam,
私の祈りを聞き入れてください。
ad te omnis caro veniet.
あなたに向かってすべての肉なる者が来るでしょう。
直訳:あなたに向かってすべての肉が来るでしょう。
「肉 (なる者)」は,死すべき者にすぎない存在としての人間のこと。
【テキスト,全体訳,元テキストとの比較 (詩篇唱:Graduale Triplexによる)】
昔の作曲家の手になる合唱曲に取り組むためにこの記事をお読みになっている場合,ここではなく上の【テキスト,全体訳,元テキストとの比較 (詩篇唱:Graduale Novumによる)】の部をご利用いただきたい。
以下,[1.] ~ [5.] それぞれの後にアンティフォナ ("Requiem aeternam…") が繰り返されることになっている。入祭唱の詩篇唱はいつもは1ユニット分しか掲げられていないところ5ユニット分も載っているのは,アンティフォナが比較的短いので,大きなミサだと1ユニットや2ユニット分歌っただけでは足りない (入祭唱は司祭たちが入堂してきて定位置につくまで歌われる歌だが,長さが足りないと定位置につくところまでゆかない) ことを想定してのことかもしれない。
いずれにせよ,書いてあるからといって必ず全部歌わなければならないわけではない。司祭たちが定位置についたら,そのときアンティフォナを歌っているところであればアンティフォナの終わりでやめればよいし,詩篇唱を歌っているところであればそのユニットの後アンティフォナをもう1度歌ったところで終わりにすればよい (とはいえこのテキストを読むと,終わりのほうまで歌いたくもなるが)。
[1.] Te decet hymnus, Deus, in Sion; et tibi reddetur votum in Ierusalem.
あなたにはシオンでの讃歌がふさわしい,神よ。あなたにはエルサレムで誓いが果たされるでしょう。
[2.] Qui audis orationem, ad te omnis caro veniet propter iniquitatem.
祈りをお聞きになる方よ,あなたに向かってすべての肉なる者が不正のゆえに来るでしょう。
[3.] Etsi praevaluerunt super nos impietates nostrae, tu propitiaberis eis.
なるほどわれわれの不敬虔はわれわれを圧倒したにしても,あなたはそれに寛大であってくださるでしょう。
[4.] Beatus quem elegisti et assumpsisti, inhabitabit in atriis tuis.
幸いだ,あなたがお選びになりお受け入れになった者は! その者はあなたの前庭に住むことでしょう。
[5.] Replebimur bonis domus tuae, sanctitate templi tui.
われわれはあなたの宮のよいもので,あなたの神殿の神聖さで,満腹することでしょう。
詩篇第64篇 (ヘブライ語聖書では第65篇) が用いられており,ここに掲げられているのはその第2–5節である。
テキストはNova Vulgata (第2バチカン公会議後に発行された新しいVulgata) に一致している (相違が大きいため,ローマ詩篇書でもVulgata=ガリア詩篇書でもないことは明らかである)。Graduale Triplexにおいて,入祭唱の詩篇唱として明らかにNova Vulgataのテキストが採用されている例は,私はほかに見たことがない (テキストが同じなので見分けがつかないことならよくあるが)。なぜ昔からのテキストに替えてこちらにしたのだろうか。
1972年版Ordo Cantus Missaeに何か書いてあるかと思い,この入祭唱が載っているところ (第394番) を見てみたが,Nova Vulgataを用いよとは書いていなかった (なおNova Vulgata全部が完成・発行されたのは1979年だが,詩篇は1969年にもう出ていたので,これを用いよと書いてあってもおかしくないところだった)。
ただ,わざわざ「詩篇第64篇Te decet hymnusとともに,入祭唱用のいつもの第6旋法の詩篇唱定式で」と書いてあり,これは異例である。用いる詩篇の番号が記してあるのは拝領唱ならば普通だが,入祭唱では詩篇唱のテキストまでミサ典書やミサ聖歌書にもともと記されているので,わざわざ記す意味がないのである (同じアンティフォナに対しさまざまな詩篇での詩篇唱がつく場合は別だが。例:Graduale Triplex, p. 34 / p. 403 "Rorate caeli")。あるいは,もし典礼改革前に用いられてきたのと異なる詩篇を指定するのであればわざわざ書くのも理解できるのだ (というより,書く必要があるだろう) が,ここで指定されている第64篇はこの入祭唱の詩篇唱でもともと用いられてきた詩篇にほかならないから (※1),そういう事情でもない。
カギとなるのは,実は指示の後半部分「入祭唱用のいつもの第6旋法の詩篇唱定式で」かもしれないと思う。第2バチカン公会議前のGraduale Romanum (1908年版でp. 81*,1961年版でp. 94*。それぞれアスタリスクまでページ番号に含む) やLiber Usualis (p. 1807) を見ると,当時はこの入祭唱の詩篇唱は独自の旋律で歌われていたことが分かる。それを廃し,ほかの第6旋法の入祭唱と同様の詩篇唱定式を用いよというのが上記の指示だということになる (実際,Graduale Triplexでこの入祭唱のところに載っているのは,この「いつもの」詩篇唱定式である)。(※2) そうすると詩篇のテキストに改めて音を割り振ることになるわけだが,旋律を替えるならとついでにテキストも最新のものに替えてしまった,というところではないだろうか。
あるいは次のようにも考えられるかと思う。いつもは,入祭唱においては詩篇唱まで旋律が諸写本によって記されて伝えられてきており,そしてそれらの旋律は昔のテキスト (たいていVulgata=ガリア詩篇書) についているものなので,普段はいわば「仕方なく」昔のテキストを相変わらず用いている。しかし今回は旋律を替えるので,昔のテキストをなおも用いる理由がないといえばない。それでNova Vulgataのテキストを採ったのではないだろうか。
【対訳・逐語訳 (詩篇唱:Graduale Triplexによる)】
昔の作曲家の手になる合唱曲に取り組むためにこの記事をお読みになっている場合,ここではなく上の【対訳・逐語訳 (詩篇唱:Graduale Novumによる)】の部をご利用いただきたい。
Te decet hymnus, Deus, in Sion;
訳1:あなたにはシオンにおいて讃歌がふさわしい,神よ。
訳2:あなたにはシオンでの讃歌がふさわしい,神よ。
et tibi reddetur votum in Ierusalem.
(そして) あなたにはエルサレムで誓いが果たされるでしょう。
Qui audis orationem,
祈りをお聞きになる方よ,
ad te omnis caro veniet propter iniquitatem.
あなたに向かってすべての肉 (なる者) が来るでしょう,不正のゆえに。
Etsi praevaluerunt super nos impietates nostrae,
訳1:なるほど私どもの不敬虔は私どもを圧倒したにしても,
訳2:なるほど私どもの不敬虔は私どものもとで優勢であったにしても,
tu propitiaberis eis.
訳1:あなたはそれ (ら) に寛大であってくださるでしょう。
Beatus quem elegisti et assumpsisti,
幸いだ,あなたがお選びになりお受け入れになった者は!
文頭の語が主語でなく補語であったり,主語が関係代名詞の中に隠れている漠然とした先行詞であったり,英語でいうbe動詞が省略されていたりして,英語の感覚で読むとかなり難しい文ではないかと思う。
分かりやすいように言葉を補い,また一般的な英語の語順に直すと,"(Homo) quem (tu) elegisti et assumpsisti (est) beatus" となろう ("homo" は「人間」という意味の語。これは単数・主格の形)。
inhabitabit in atriis tuis.
その者はあなたの前庭に住むことでしょう。
Replebimur bonis domus tuae, sanctitate templi tui.
われわれは満腹することでしょう,あなたの宮の (諸々の) よいもので,あなたの神殿の神聖さで。
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