入祭唱 "Laetare Ierusalem" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ34)
Graduale Romanum (1974) / Graduale Triplex, pp. 108-109 (これら2冊の内容は四線譜の上下のネウマの有無を除けば基本的に同じだが,本文中で言及するときは,煩雑を避けるため後者のみ記す); Graduale Novum I, pp. 83-84.
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Graduale Novumでは子音字としてのiはjで記すので,この入祭唱の冒頭句は "Laetare Jerusalem" となっている。
更新履歴
2024年11月4日 (日本時間5日)
対訳の部と逐語訳の部とを統合し,それに伴い解説をだいぶ整理した。
訳文を少し改めた。「喜んで跳び上がりますように」→ 「喜び躍りますように」など。
2019年3月25日
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【教会の典礼における使用機会】
昔も今も,四旬節第4主日に歌われる。
冒頭 "Laetare (歓べ)" と歌われるこの主日は,四旬節のただなかにありながら,復活祭の喜びを思って慰め・励ましを受けるという性格を持っている。ちょうど,入祭唱 "Gaudete" (これも「喜べ」という意味) が歌われるアドヴェント第3主日が,降誕祭の喜びを先取りするものであるのと同じである。
なお,この2つの動詞の「よろこび」方の違いについては,対訳・逐語訳 (アンティフォナ) の部の第1文の解説をお読みいただきたい。私は,降誕祭を目指す時期の入祭唱が "Gaudete" で復活祭を目指す時期の入祭唱が "Laetare" であるのは (この逆でないのは),ふさわしいことだと感じる。
アドヴェントも四旬節も,司祭が着る祭服の色は基本的に紫 (悔悛を表す色) なのだが,この両主日のみはバラ色の祭服を着用してもよいことになっている。
ところで, 「バラ色」と書いてふと,バッハのカンタータ第182番を連想した。この曲に用いられているコラールに, 「私の魂は薔薇の上を歩む」という言葉が (喜びを歌う文脈で) 出てくるのである。これは四旬節第4主日ではなく棕櫚の主日のためのカンタータだし, 「私の魂が薔薇の上を歩む」理由はここではイエスの復活ではなく受難 (!) となっているので,いろいろとずれてはいるのだが,とにかくこれを連想した。
冒頭の語 "Laetare" の部分の旋律は,復活徹夜祭のアレルヤ唱 (Graduale Triplex, p. 191; Graduale Novum I, p. 159) の最後の部分の先取りである。
単に復活祭 (復活祭には復活徹夜祭とその後の日中ミサとの2つがある) の聖歌の先取りだというだけでなく,ほかならぬアレルヤ唱,しかも復活徹夜祭のそれを先取りしているというのが味わい深い。四旬節には,主日であろうが祭日であろうがアレルヤ唱が一切歌われない (アレルヤ唱に限らず,典礼全体で「アレルヤ [ハレルヤ]」という言葉が避けられる) からである。そういう時期を抜けてついに再び「アレルヤ (ハレルヤ)」と歌うことができるのが,復活徹夜祭なのである。やがて来る喜びを予告して四旬節の半ばにある者たちを励ます旋律として,これ以上のものはあるまい。
【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】
Laetare Ierusalem: et conventum facite omnes qui diligitis eam: gaudete cum laetitia, qui in tristitia fuistis: ut exsultetis, et satiemini ab uberibus consolationis vestrae/eius.
Ps. Laetatus sum in his quae dicta sunt mihi: in domum Domini ibimus.
【アンティフォナ】歓べ,エルサレムよ。集会を催せ,彼女 (エルサレム) を尊び愛するすべての者たちよ。歓び喜べ,悲しみのうちにあった者たちよ。あなたたちが喜び躍りますように,あなたたちの/彼女 (エルサレム) の慰めの乳房から飲んであなたたちが満ち足りますように。
【詩篇唱】私は歓んだ,こう言われて。「主の家に行こう。」
アンティフォナの最後の語は,写本によって "vestrae/vestre (あなたたちの)" となっていたり "eius (彼女の)" となっていたりする。
この入祭唱においてGraduale Triplex/Novumに書き写されているネウマの出所である,Laon 239とEinsiedeln 121との2聖歌書においては,前者で "vestre",後者で "eius" となっている。AMSにまとめられている8~9世紀の諸聖歌書 (この箇所が載っているのは4聖歌書) ではいずれも "vestrae/vestre"。
アンティフォナはイザヤ書第66章第10–11節に基づいているが,Vulgataと比べると同じようなことを違う語で表現している箇所が次々と出てくるため,Vetus Latina (Vulgataより前のさまざまなラテン語訳聖書テキスト) をもとにしているのかもしれない。
BREPOLiSのVetus Latina Database (私がVetus Latinaを参照するときにいつも利用しているオンラインデータベース) には,イザヤ書第66章のVetus Latinaは収録されていない (2024年11月4日現在)。しかしHerder社から刊行されているものには収録されているようなので,近いうちに比較したいと思う。(本来この比較を行なってから記事の更新を行いたいところだったが,ほかの部分をだいぶ書き直したので,それが何かのはずみで失われないようにするためいったんこのまま更新する。2024年11月4日。)
詩篇唱に用いられているのは詩篇第121篇 (ヘブライ語聖書では第122篇) であり,ここに掲げられているのはその第1節である。
テキストはローマ詩篇書にもVulgata=ガリア詩篇書 (ドイツ聖書協会2007年第5版) にも一致している (「ローマ詩篇書」「Vulgata=ガリア詩篇書」とは何であるかについてはこちら)。
【対訳・逐語訳 (アンティフォナ)】
Laetare Ierusalem:
歓べ,エルサレムよ。
laetare 歓べ (よろこびを外に表せ) (動詞laetor, laetariの命令法・受動態の顔をした能動態・現在時制・2人称・単数の形) ……この漢字を用いている理由など,下の解説を参照。
Ierusalem エルサレムよ ……手元の辞書のうち,Stowasserでは中性名詞とされ,Sleumer (教会ラテン語辞典) では中性または女性とされている (なおいずれにおいても綴りは "Hierosolyma")。この入祭唱では女性名詞扱いになっていることが,後で出てくる代名詞から分かる。
動詞laetor, laetari (>laetare) は「よろこびを外に表す」ことを,後に出る動詞gaudeo, gaudere (>gaudete) は「内面でよろこぶ」ことを表す。両者が一つの入祭唱に出現しているため,訳し分けるべく別々の漢字を用いることにし,laetor, laetariに「歓」,gaudeo, gaudereに「喜」をそれぞれ充てた。
あくまで両者が一つのテキストに出てきたゆえの措置であり,今後別のテキストでlaetor, laetariが現れたときわざわざ「歓」の字を使うとは限らないことをお断りしておく。この2つの動詞の意味の差異は,今回は実はあまり重要でない可能性もある。よろこべ,よろこべと繰り返し書くにあたり,単に同じ語を繰り返すことを嫌ってこうしただけなのかもしれないからである。
とはいえ,上述のようにここの旋律が復活徹夜祭のアレルヤ唱の先取りであることを思うならば, 「よろこびを外に表す」というニュアンスを意識する意味もあるかもしれない。アレルヤ (ハレルヤ) とはもともと「主をほめたたえよ」という意味の語だからである。
et conventum facite omnes qui diligitis eam:
そして集会を催せ,彼女 (エルサレム) を尊び愛するすべての者たちよ。
et (英:and)
conventum 集会を
facite 行え (動詞facio, facereの命令法・能動態・現在時制・2人称・複数の形)
omnes すべての者たちよ ……全人類のことではなく,ある条件を満たす者「すべて」であり,その条件は次の関係詞節で示される。
qui (関係代名詞,男性・複数・主格) ……男性形だが,話を男性の人間に限っているわけではない。男女両方を指したいときにはラテン語では男性形を用いることになっているだけである。
diligitis 尊び愛する (動詞diligo, diligereの直説法・能動態・現在時制・2人称・複数の形) ……呼びかけの対象である "omnes" を受ける関係代名詞を主語とする述語動詞なので,2人称の形をとっている (呼びかけというものは常に「あなた」に対するものである)。
eam 彼女を ……エルサレムを指す。
"qui" 以下は「彼女 (エルサレム) を尊び愛する」を意味する関係詞節で,それが "omnes (すべての者たちよ)" にかかっている。呼びかけの対象なので,動詞 "diligitis" は2人称の形である。
gaudete cum laetitia, qui in tristitia fuistis:
歓び喜べ,悲しみのうちにあった者たちよ。
直訳:歓びをもって喜べ,(……)
gaudete (内面で) 喜べ (動詞gaudeo, gaudereの命令法・能動態・現在時制・2人称・複数の形) ……「内面で」という点は今回はあまり気にしなくてよいかもしれないことについては,上の "laetare" のところで述べた。
cum laetitia 歓び (よろこびを外に表すこと) をもって (cum:英 "with",laetitia:歓び [奪格])
qui (関係代名詞,男性・複数・主格) ……漠然とした先行詞を含んでいる。英語なら "those who" と書くところ。
in tristitia 悲しみのうちに (tristitia:悲しみ [奪格])
fuistis あった (動詞sum, esse [英語でいうbe動詞] の直説法・能動態・完了時制・2人称・複数の形) ……ここも,呼びかけている対象を受ける関係代名詞を主語とする述語動詞なので,2人称の形をとっている。
「よろこぶ (こと)」を表す2種の語の違いについては,第1文 "Laetare Ierusalem" の解説を参照。
ut exsultetis, et satiemini ab uberibus consolationis vestrae/eius.
訳1:あなたたちが喜び躍り,あなたたちの/彼女 (エルサレム) の慰めの乳房から飲んで満ち足りますように。(祈願)
訳2:(……) 満ち足りるように。(目的)
直訳:(……) 乳房によって満ち足らされますように/満ち足らされるように。
ut (英:接続詞としてのthat / so that) ……さまざまな働きをする語だが,今回は「目的」あるいは「願望 (祈願)」を表す文を導く接続詞であると考えられる。
exsultetis あなたたちが喜び躍る (喜んで跳び上がる) (ということ) (動詞exsulto, exsultareの接続法・能動態・現在時制・2人称・複数の形) ……目的や願望 (祈願) を表すut節では,述語動詞は接続法をとる。
et (英:and)
satiemini あなたたちが満ち足らされる (ということ) (動詞satio, satiareの接続法・受動態・現在時制・2人称・複数の形)
ab ~によって (前置詞) ……受動態をとっている動詞 "satiemini" を補い, 「何によって」満ち足らされるのかを示している。
uberibus 乳房 (中性・複数・奪格)
consolationis 慰めの (女性・単数・属格) ……直前の "uberibus" にかかる。
vestrae/eius あなたたちの/彼女の …… "vestrae" ならば間違いなく直前の "consolationis" にかかるが,"eius" の場合2つの可能性がある。下の解説を参照。
ラテン語で「~の」ということを表現するとき,文法的にみて2つの場合がある。所有形容詞 (所有限定詞。英語でいうmy, your, his, her, its, their) を用いる場合と,名詞の属格 (敢えて英語でいえば「of + 名詞」) を用いる場合とである。
ラテン語において,形容詞は,それがかかる名詞の性・数・格と同じ性・数・格をとる。これは所有形容詞でも同じである。したがって,たとえば「私の父が」であれば "pater meus" (pater:父が,meus:私の。いずれも男性・単数・主格の形) となり, 「私の母を」であれば "matrem meam" (matrem:母を,meam:私の。いずれも女性・単数・対格の形) となるわけである。「~の」という意味だからといって,所有形容詞が属格をとるわけではないということに注意が必要である。
今さらながらこの説明をしたのは,ここの "vestrae (あなたたちの) / eius (彼女の)" のすぐ前に2つの名詞 "uberibus (乳房)" (中性・複数・奪格) と "consolationis (慰めの)" (女性・単数・属格) とがあり,"vestrae", "eius" それぞれがどちらの名詞にかかりうるのかを考えるために必要だからである。まず "vestrae (あなたたちの)" だが,これは所有形容詞である。したがって,性・数・格において,この形容詞がかかる名詞に一致していなければならない。そしてこれは女性・単数・属格ではありうるが中性・複数・奪格ではありえない形なので,間違いなく "consolationis" にかかることになる。
次に "eius (彼女の)" は,代名詞の属格である。したがって,かかる名詞の性・数・格には何ら影響されないことになる。それゆえ,形の上では,どちらの名詞にかかるのかは決定できない。「彼女の慰めの」ととってもよいし,「彼女の乳房」ととってもよいことになる。
【対訳・逐語訳 (詩篇唱)】
Laetatus sum in his quae dicta sunt mihi:
私は歓んだ,こう言われて。
直訳:私は歓んだ,私に言われたこれら (のこと) について。
laetatus sum 私が歓んだ (動詞laetor, laetariの直説法・受動態の顔をした能動態・完了時制・1人称・単数の形)
in his これら (のこと) において,これら (のこと) について (his:これら [のこと] [中性・複数・奪格])
……「これら (のこと)」が何であるかは,続く関係詞節で初めて明らかになる。
…… "his" が中性である (したがって「人」ではなく「もの・こと」である) ことはここだけでは決定できないが,次の関係詞節から分かる。
quae (関係代名詞,中性・複数・主格)
……前の "his" を受ける。
……これが中性・複数・主格であることはここだけでは決定できないが,次の動詞 "dicta sunt" から分かる。
dicta sunt 言われた (動詞dico, dicereの直説法・受動態・完了時制・3人称・複数の形) …… "sunt" は間違いなく複数であり,したがってそれと組み合わせて用いられている完了受動分詞 "dicta" も複数形でなければならない。複数形で "-a" の語尾になるのは中性だけである。こうして "dicta" が間違いなく中性・複数であることが分かり,それにより主語 "quae" が中性・複数であることが分かり,したがってその先行詞 "his" も中性であることが分かる。
mihi 私に
in domum Domini ibimus.
「主の家に行こう。」
in domum Domini 主の家へ (domum:家 [対格],Domini:主の) ……「in + 対格」は方向を示す (英:into)。
ibimus (われわれが) 行こう (動詞eo, ireの直説法・能動態・未来時制・1人称・複数の形)
「主の家」とはエルサレム神殿のこと。