聖母マリアへのアンティフォナ "Alma Redemptoris Mater" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ70)
Antiphonale Monasticum I (2005), pp. 472–473; 同II (2006), pp. 10–11; 同III (2007), pp. 484–485.
Antiphonale Monasticum (1934), pp. 173–174 (荘厳調), pp. 178–179 (単純調).
Liber Usualis, pp. 273–274 (荘厳調), p. 277 (単純調).
Cod. Sang. 390 (Hartker) pag. 10.
gregorien.info内のこの聖歌のページ
"antiphonale synopticum" 内のこの聖歌のページ:荘厳調/単純調
このアンティフォナのよい解説がトマス小野田神父のBlogにある。
更新履歴
些細な修正は記録しない。
2024年11月19日 (日本時間20日)
訳と解説中に用いている語をわずかに改めた (「罪びとたち」→「罪びとら」, 「私たち」→「私ども」)。
対訳の部と逐語訳の部とを統合した。
対訳 (・逐語訳) の部の解説がかなり読みづらかったため,少しでも読みやすくなるよう改善を試みた。
2023年1月1日
投稿
【教会の典礼における使用機会】
「聖母マリア (へ) のアンティフォナ (Antiphonae mariales)」と呼ばれる歌の一つであり (聖母マリアへのアンティフォナ全般についての簡単な説明はこちら),いろいろな機会に用いられるが,特に終課 (Completorium,寝る前の祈り) の終わりに歌われる (その共同体で一日の最後の聖務日課が晩課 [Vesperae] である場合には,晩課の終わりに歌われる)。
歌う季節は基本的にはクリスマスを中心とする時期だが,これは伝統に基づく目安であって,現在は正式な定めがあるわけではない。
この「クリスマスを中心とする時期」のはじめは明確で,アドヴェント (待降節) 第1主日 (前晩から) がそれなのだが,終わりをどことするかについてはさまざまな考え方がある。
現行「通常形式」のローマ典礼 (今のカトリック教会で最も普通に見られる典礼) における降誕節は「主の洗礼」の祝日 (1月7~13日のどこか) までで,2005–2007年版Antiphonale Monasticumはそれに従い,"Alma Redemptoris Mater" を歌うのは「主の洗礼」の祝日までとしている。
しかし,伝統的にはもうしばらくクリスマスの余韻が残る日々が続き,2月2日の「主の奉献/聖母の清め」で終わるので,"Alma Redemptoris Mater" は長らく2月2日の晩課 (Vesperae) まで歌われていたし (実際,Liber Usualisにはそのような指示書きがある),この伝統を守っているところでは今でもそうしていることだろう (なおあくまで晩課 [第2晩課] までで,この日の終課ではもう "Ave Regina caelorum" に切り替わることになっていた)。
【テキストと全体訳】
Alma Redemptoris Mater, quae pervia caeli porta manes, et stella maris, succurre cadenti, surgere qui curat, populo; tu quae genuisti, natura mirante, tuum sanctum Genitorem, Virgo prius ac posterius, Gabrielis ab ore sumens illud Ave, peccatorum miserere.
【実用のためのとりあえずの訳】贖い主をお育てになった御母,通ることができる天の門であり続けてくださる方,海の星よ。倒れつつあり,立ち上がろうともがいている民を助けに駆けつけてください。自然が驚く中,あなたの聖なる創造主をお産みになった方よ。(あなたの聖なる創造主をお産みになった) 前にも後にも処女であられる方,ガブリエルの口からかの「アヴェ」をお受け取りになった方よ。罪びとらを憐れんでください。
このテキストは,複数の箇所において多様な解釈を許すものである。また,そういう場合一般的なグレゴリオ聖歌であれば旋律 (特にネウマ) が解釈のヒントになることが多いのだが,今回の聖歌については成立が遅いため旋律の様式がだいぶ異なり,その手はどうもあまり通用しそうにない。
上に掲げたのは,歌ったとき私に無理なく感じられる意味を日本語にしたものであるが,テキストだけを見たとき,本当にこうだろうかと思う点もある。それらを対訳・逐語訳の部で一つ一つ検討してゆくことにする。
【対訳・逐語訳】
Alma Redemptoris Mater, quae pervia caeli porta manes, et stella maris,
訳1:贖い主をお育てになった御母,通行可能な天の門であり続けてくださる方,海の星よ。
訳2:贖い主をお育てになった御母,通行可能な天の門にして海の星であり続けてくださる方よ。
"quae" 以下は "Mater" にかかる関係詞節なので, 「贖い主をお育てになった,(……) であり続けてくださる御母よ」と訳すこともできる。
この関係詞節 "quae pervia caeli porta manes" において,"pervia caeli porta" は英文法でいう第2文型 (SVC) のC (補語) の役割を果たしている。S (主語) は関係代名詞 "quae",V (動詞) は "manes"。
訳1と訳2を分けるポイントは,"et stella maris" をこの関係詞節の一部と見るかどうかであり,関係詞節には含まれないと見たのが訳1,含まれると見たのが訳2である。
旋律を見ると,新旧のAntiphonale MonasticumもLiber Usualisも,荘厳調ではこの語句の前に二重区分線を引いており,これに従うならば関係詞節には含めないことになろう (訳1)。単純調では,新旧Antiphonale Monasticumは小区分線を置いているだけで,Liber Usualisは中区分線。
succurre cadenti, surgere qui curat, populo;
訳1:倒れつつあり立ち上がろうと努めている民を助けに駆けつけてください。
訳2:倒れて立ち上がろうと努めている民を助けに駆けつけてください。
まず,語順が分かりづらいので分かりやすく並び替えると,succure cadenti populo qui curat surgereとなる (なお,上掲の小野田神父のBlogでもこの語順に直して説明している)。英訳すれば,"rush to help the falling people who are struggling to get up" といったところ。
理解するぶんにはこれでよいとして,問題はもとの語順で歌ったり唱えたりしながら意味をとるのが難しいことだが, 「cadentiでsurgere qui curatなpopulo」という感じで一気に進むとなんとか直読直解できる。
"cadenti (倒れる,英:falling)" は現在能動分詞であり,本来は文全体で言われていることが起こった時点と同時に起きていることを述べるものである。つまり, 「(民が) 倒れる」のと「(聖母が) 助けに駆けつける」のとは同時点であるはずで,すると結局, 「倒れる」のと「立ち上がろうと努めている」のとは同時に起こっているはずである。この原則に従ったのが訳1である。
そうはいっても, 「倒れてしまった後,立ち上がろうと努めている」というほうが自然である気もする。そして後期ラテン語 (3~6世紀) 以降は上記のような現在能動分詞の「同時性」の原則が崩れていることもあるそうなので (参考:國原,p. 85),これも十分にあってよい解釈といえるだろう。これに基づいているのが訳2である。
tu quae genuisti, natura mirante, tuum sanctum Genitorem, Virgo prius ac posterius, Gabrielis ab ore sumens illud Ave,
訳1:自然が驚く中あなたの聖なる創造主をお産みになった方であるあなたは,(そのご出産の) 前にも後にも,ガブリエルの口からあの「アヴェ」をお受け取りになった処女でいらっしゃいます。
訳2:自然が驚く中,あなたの聖なる創造主をお産みになった方よ。(そのご出産の) 前にも後にも,ガブリエルの口からあの「アヴェ」をお受け取りになった処女であられる方よ。
訳3:自然が驚く中,ガブリエルの口からあの「アヴェ」をお受け取りになり,(ご出産の) 前にも後にも処女であられる方として,あなたの聖なる創造主をお産みになった方よ。
主要な諸問題に入る前に細かいことを一つ。訳1および訳2において,分詞句 "Gabrielis ab ore sumens illud Ave (ガブリエルの口からあの「アヴェ」をお受け取りになった)" を "Virgo (処女)" にかかるものと解釈しているが,そうではなく独立したものと取って「ガブリエルの口からあの『アヴェ』をお受け取りになった方 (よ)」と訳すこともできる (全体訳ではそうした)。
【3つの訳を分けるポイント1:"tu (あなた)" と "Virgo (処女)" との格】
これは,私が見た限りの訳ではいつも呼格と解釈されているし,私自身もそう思ってきた。
しかしこれが唯一の可能性というわけではなく,いずれをも主格ととって,"tu" を主語 (S),"Virgo" を補語 (C) とするSVCの文 (「tuはVirgoである」) を読むこともできる (訳1)。この2語の間にはさまっているのは "tu" にかかる関係詞節なので,括弧に入れて考えればよい。
なお,SVCのうちV (動詞) が見当たらないが,これは英語でいうbe動詞が隠れているためである (ラテン語ではよくある現象)。そしてこう読んだほうが,"Virgo" の次にある副詞句 (というより2つの副詞を "ac" で並べただけのものだが) "prius ac posterius (より前にもより後にも)" の収まりがよいのではないか,と私は思う。
というのは,副詞であるから基本的には名詞以外の語あるいは文全体にかかるわけだが,上記のようなSVCの文を読み取るならば,この文全体にこの副詞句がかかるものと考えることができ,何ら問題が生じない。それに対して,"tu" および "Virgo" を呼格と解釈し,このSVCの文が成立しないことにしてしまうと,"prius ac posterius" がかかることができるのが "Virgo" という名詞だけになってしまうのである。
ややこしい説明になったが,とにかく,副詞が名詞にかかることになってはまずいだろう,ということである。それでも "Virgo" を呼びかけと解釈し,"prius ac posterius" を "Virgo" にかかるものと解釈するならば (訳2), 「より前にもより後にも処女である方よ」と少し言葉を補って考えることになろう (ラテン語でこの通り書けば "[tu] quae prius ac posterius Virgo es" か)。
旋律はどうかというと,新旧のAntiphonale MonasticumやLiber Usualisでは,荘厳調では "Virgo" の直前に二重区分線があり,単純調では大区分線があり,いずれにせよここで文が切れるように聞こえるようになっている。つまり,"tu quae genuisti" から文が続いているのではなくここで切れて,"Virgo" で改めて呼びかけているように聞こえる。この観点からは訳2に軍配が上がる。
【3つの訳を分けるポイント2:"quae" に始まる関係詞節はどこまでか】
普通は "Genitorem" までと見るだろう。訳1・訳2はこの解釈に基づいている。
これに対し,"Virgo" 以下をも関係詞節に含まれるものと考えたのが訳3である。ここでは "Virgo" を主語 (関係代名詞 "quae") と同格とみて, 「~として」の意味に取っている。英語ならば「~として」と言いたいときには "as" をつけるが,ラテン語の場合単に同格の名詞2つを出すだけでこの意味を表すことができるのである。
この解釈でも,"prius ac posterius" という副詞句が "Virgo" という名詞にかかることになってしまうという問題が生じるが,これは訳2のとき同様, 「~である方」という言葉を補って考えることにしてしまえばよいだろう。
【現在能動分詞 "sumens" の問題】
現在能動分詞は,原則として,全体で言われていることと同時点のことを語るものである。
この場合の「全体」の時点がいつであるかだが,訳1および訳2の解釈では現在 (聖母に向かってこのアンティフォナを歌っている今この時),訳3の解釈では聖母が「聖なる創造主をお産みになった」ときとなる。
いずれにせよ,大天使ガブリエルから聖母が「アヴェ」(受胎告知の最初の言葉) を受けた時点よりも後である。つまり,現在能動分詞を用いて語られているできごとと全体で言われていることとの時点がずれていることになる。これは,前の "cadenti" のところで説明したような,後期ラテン語以降のイレギュラーな現象 (現在能動分詞の「同時性」の原則が崩れる現象) が起きているものだと考えればよいだろう。
あるいは,ガブリエルの「アヴェ」を単なる歴史上の一時点のできごとでなく,永遠性を持つものと考えている,ということが実はあったりするのだろうか。
【"Ave" について】
受胎告知の際,大天使ガブリエルがマリアに最初に言った「あなたにあいさつします,恩寵に満ちたお方。主はあなたとともにおいでになります」(ルカによる福音書第1章第28節,バルバロ訳) のうち, 「あなたにあいさつします」にあたる語がこの "Ave" である。
なおこのガブリエルの言葉 (ラテン語で "Ave gratia plena, Dominus tecum") は,Ave Maria (カトリックの基本的な祈りの一つであり,さまざまな曲がついていることでも知られる) の最初の部分のもとである。この "ave" というラテン語自体は,動詞aveo, avere「~を楽しむ,欲する」の命令法・能動態・現在時制・2人称・単数の形であり,このように命令法で挨拶の言葉として用いられる。
なお,もとのギリシャ語χαῖρεは「喜びなさい」とも訳せる語である。
peccatorum miserere.
罪びとらを憐れんでください。
「罪びとら」は「私ども」のことだと考えてよいだろう。