入祭唱 "Rorate caeli desuper" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ14)

 Graduale Romanum (1974) / Graduale Triplex, pp. 34–35 (詩篇唱:第18 [19] 篇), p. 403 (詩篇唱:第84 [85] 篇) (これら2冊の内容は四線譜の上下のネウマの有無を除けば基本的に同じだが,本文中で言及するときは,煩雑を避けるため後者のみ記す)
 Graduale Novum I, pp. 15–16 (詩篇唱:第18篇), II, p. 134 (詩篇唱:第84篇).
 gregorien.info内のこの聖歌のページ
 


更新履歴

2024年11月10日

  •  現在の方針に合わせ,全面的に改訂した (記事タイトルの変更, 「教会の典礼における使用機会」の部の新設, 「テキストと全体訳」の部の「テキスト,全体訳,元テキストとの比較」への名称変更およびそれに応じた増補,対訳の部と逐語訳の部との統合など)。

  •  これまではGraduale Triplex/Novumにおいてアドヴェント第4主日のところに載っている詩篇唱 (第18 [19] 篇) のみ扱っていたのだが,聖母の共通式文 (Commune) のところに載っているもの (第84 [85] 篇) の訳も加えた。

  •  "iustum" の解釈についての部分において,私の考えた経過をそのまま追うような形にしていたため整理されていない記述になっていたのを,簡潔な説明に改めた。

  •  余談的な部分を,一部 (ドイツ語聖歌の話など) は削除し一部 (日本語聖歌の話) は稿末に移した。

  •  YouTube動画を差し替え,位置もテキストと全体訳の下に移した。

2021年12月21日

  •  冒頭にYouTube動画を埋め込んだ。本文の変更はない。

2018年12月16日 (日本時間17日)

  •  投稿
     


【教会の典礼における使用機会】

【現行「通常形式」のローマ典礼 (1969年のアドヴェントから順次導入された) において】

 1972年版Ordo Cantus Missae (Graduale Triplexはだいたいこれに従っている) では,今回の入祭唱は次の諸機会に割り当てられている。

  •  アドヴェント (待降節) 第3週の水曜日 (12月17日・18日以外に限る※)。詩篇唱は第18 (19) 篇。

  •  アドヴェント第4主日。詩篇唱は第18 (19) 篇。

  •  しゅのお告げ (神のお告げ,受胎告知) の祭日 (原則3月25日,四旬節第1~5の主日と重なる場合は翌日,しゅの主日 [=枝の主日] ~復活節第2主日と重なる場合は復活節第2週の月曜日)。詩篇唱は第18 (19) 篇。

  •  聖母に関する日のための共通式文 (Commune)。ほかの選択肢あり。詩篇唱は第84 (85) 篇。

  •  聖母に関する随意ミサ。詩篇唱は第84 (85) 篇。

※  アドヴェント第3週の水曜日は,12月19日や20日にくることもありうる。Ordo Cantus Missaeの「12月17日・18日以外に限る」という指示
を素直に受け取れば,19日や20日でも今回の入祭唱を歌うということのように思えるが,12月17日以降の日々 (アドヴェント最後の特別な日々) については別の指示が記されているため,どちらを優先すべきかこれを読んだだけでははっきり分からない。いや,19日についてはさらに「この日の朗読にふさわしい」入祭唱が挙げられているので,そちらを選んでおけば間違いないだろうが,20日の場合どうするかの問題がなお残るのである。
 Graduale Triplexでは「12月17日より前にくる場合」という指示に変えられているので (p. 22),19日や20日には今回の入祭唱を歌わないことがはっきりしている。しかし,Graduale NovumではOrdo Cantus Missaeの言い方に戻っている (II, p. 5)。

 2002年版Missale Romanum (ローマ・ミサ典礼書) においては,PDF内で "Rorate" や "desuper" や "germinet" をキーワードとする検索をかけて見つけることができた限りでは,今回の入祭唱は次の機会に割り当てられている。なおこちらでは,詩篇唱は記されていない。

  •  アドヴェント第4主日。

  •  聖母に関する日のための共通式文 (Commune) (アドヴェント用)。ほかの選択肢あり。

【20世紀後半の大改革以前のローマ典礼 (現在も「特別形式」典礼として有効) において】

 1962年版Missale Romanum (ローマ・ミサ典礼書) では,今回の入祭唱は次の日々に置かれている。

  •  アドヴェント (待降節) の「四季の斎日」の水曜日 (日取りはアドヴェント第3週の水曜日)。詩篇唱は第18 (19) 篇。

  •  アドヴェント第4主日 (12月24日に当たる場合は「主の降誕の前日」が優先され,この主日のミサは行われない)。詩篇唱は第18 (19) 篇。

  •  聖母の土曜日 (アドヴェント)。詩篇唱は第84 (85) 篇。

 AMSにまとめられている8~9世紀の6つの聖歌書写本のうち,入祭唱に関係ある5つの写本 (M=Monza以外,すなわちR, B, C, K, S) では,今回の入祭唱は次の日々に置かれている。

  •  R, B, C, K, Sすべてで,アドヴェントの「四季の斎日」の水曜日。詩篇唱はいずれにおいても第18 (19) 篇。(AMS第5a欄)

  •  S=Senlisサンリスでのみ,アドヴェント第4主日。詩篇唱は第18 (19) 篇。R=RheinauライナウとC=Compiègneコンピエーニュではこの日は別の入祭唱※。B=Montモン-BlandinブランダンとK=Corbieコルビではこの日についての記載自体なし。(AMS第7bis欄)

  •  Sでのみ,聖マリアへのお告げ (=主のお告げ,受胎告知) の祝日。詩篇唱は第18 (19) 篇。B, C, Sではこの日は別の入祭唱。Rではこの日についての記載自体なし。(AMS第33a欄)

 ここからお察しいただけるかと思うが,実は今回の入祭唱 "Rorate" のもともとの使用機会は,アドヴェント第4主日ではなく,アドヴェントの「四季の斎日」の水曜日である (1972年版Ordo Cantus Missaeがアドヴェント第3週の水曜日にこの入祭唱を用いるよう指示しているのは,そのような歴史を大切にしてのこととも見られる)。

※  Compiègneにおけるアドヴェント第4主日の入祭唱は,後で書き加えられたものだと思われる。AMS第7bis欄の註によると,当該入祭唱 ("Memento nostri") は,この写本においてネウマつきで書かれている唯一のものだからである (AMS収録の諸写本は基本的にテキストのみ収めているものである)。

【四季の斎日について】

 四季の斎日 (羅:Quattuor tempora / Ieiunia quattuor temporum,英:Ember days,独:Quatembertage,仏:Quatre-Temps) というのはその名の通り春夏秋冬の各季節のはじめに1回ずつ置かれている (といっても先の典礼改革後は影が薄くなった) 断食週間で,水・金・土曜日に行われる。
 日取りは時代によって少しずつ異なる (し,現在は教区によって異なる) が,1962年版ローマ・ミサ典礼書では次の通りである。

  •  アドヴェント第3週

  •  四旬節第1週 (四旬節第1主日に始まる週)

  •  聖霊降臨祭の週

  •  9月の第3日曜日に始まる週

 これらの日には節食が行われるだけでなく,それぞれの日のために固有のミサ式文も定められている。
 そのうち土曜日のミサは,古くは夜遅く始めてそのまま主日 (日曜日) に入るものだった。そのためこれは同時に主日ミサも兼ねると考えられていたので,その主日については固有のミサ式文が定められていなかった。現在入祭唱 "Rorate" が置かれているアドヴェント第4主日もその一つであり,上述のようにMont-BlandinやCorbieの聖歌書写本でこの主日の聖歌が記されていないのもそのためだと考えられる。

【アドヴェント第4主日の入祭唱の変遷について】

 時代が下ると四季の斎日直後の主日にも固有のミサを行うようになり,そのために式文が定められていった。
 その際,アドヴェント第4主日の入祭唱はすぐ "Rorate" になったわけではない (少なくとも教会全体としては)。それは時代だけでなく地域によっても異なっていた。なおこのことに限らず,ローマ典礼の全教会で典礼の形が統一されたのは,ようやく16世紀のトリエント公会議後のことである。

 次に示すのは,8~12世紀くらいの諸聖歌書写本におけるアドヴェント第4主日の入祭唱である (年代については,情報源の新しさ・信頼性がさまざまなので,細かいところではなくおおよその傾向だけ受け取っていただきたい)。

 このように,当初はむしろ "Memento nostri" を用いるのが優勢であった印象を受ける。それでも最終的に "Rorate" に落ち着いたのは,ローマでそうだったからなのかもしれない。いや,ローマでそうであったかどうか確かなことは今のところ私は知らないのだが,上記Roma, Bibl. Angelica 123写本が記されたのはボローニャにおいてであり,比較的ローマに近いからである。
 なおベネヴェント (上記Benevento 34写本は記されたのもベネヴェントである) はローマへの地理的な近さにおいてボローニャを上回るが,ベネヴェントはもともと典礼上の中心地の一つであり,独自の歴史を歩んできたところがあるので (※),ローマの傾向をよりよく反映しているのがボローニャだとしても不思議ではないと考える。

※  参考:Cyrille Vogel (rev. and transl. by W. G. Storey and N. K. Rasmussen), Medieval Liturgy. An Introduction to the Sources, Washington, D. C. 1986, p. 284, pp. 394–395. 手軽に参照できるところでは,このWebページで "Benevent" をキーワードとするページ内検索をかけて出てくる箇所。


【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】

Rorate caeli desuper, et nubes pluant iustum: aperiatur terra, et germinet Salvatorem. T. P. Alleluia, alleluia.
Ps. [アドヴェント,主のお告げの祭日] Caeli enarrant gloriam Dei: et opera manuum eius annuntiat firmamentum.
Ps. [聖母のCommuneや随意ミサ] Benedixisti Domine terram tuam: avertisti captivitatem Iacob. 
【アンティフォナ】天よ,上から露を滴らせよ,雲はただしき者を降らせよ。地は開かれよ,そして救い主を芽生えさせよ。(復活節には) ハレルヤ,ハレルヤ。
【詩篇唱 (アドヴェント,しゅのお告げの祭日)】天は神の栄光を (詳しく) 語り,彼の手のさまざまなわざを大空は告げ知らせる。
【詩篇唱 (聖母のCommuneや随意ミサ)】しゅよ,あなたはあなたの地を祝福なさり,ヤコブの捕囚を終わらせてくださいました。

 アンティフォナに用いられているのはイザヤ書第45章第8節の前半であり,テキストはVulgataに一致している。
 ここで「天よ,露を滴らせよ」などと言っているのは誰なのかだが,もとのイザヤ書では "et iustitia oriatur simul / ego Dominus creavi eum (それとともに正義は起き上がれ。私,しゅが彼を生んだ)" という言葉が続いており, 「主」が命じているのだと分かる。救い主の到来は神御自らそう望んでくださって起きたことなのだ,ということを,この入祭唱を歌いながら思うのもよいかもしれない。

 アドヴェント用・主のお告げ (神のお告げ,受胎告知) の祭日用の詩篇唱テキスト "Caeli enarrant …" は詩篇第18篇 (ヘブライ語聖書では第19篇) であり,ここに掲げられているのはその第2節 (実質的な最初の節) である。
 テキストは,少なくともVulgata=ガリア詩篇書 (ドイツ聖書協会2007年第5版) にほぼ一致している。「ほぼ」といっても異なるのは "annuntiat" がVulgata=ガリア詩篇書では "adnuntiat" となっていることだけで,これは音便の問題にすぎない。
 ローマ詩篇書では,テキストを参照するために私がいつも利用しているサイトではこの "annuntiat" が "adnuntiant" となっており,最初が "ad-" なのはやはり音便の問題にすぎないのでよいが,最後が "-nt" になると文意が大きく変わる (今回の場合,主語と目的語とが逆転する!) ので大問題である。写本に本当にそう記されていたのかもしれないが,Webページ作成時のタイプミスを疑いたくもなる。テキストの出所である本が入手困難なので,残念ながらすぐには確かめることができない。
 (「ローマ詩篇書」「Vulgata=ガリア詩篇書」とは何であるかについてはこちら。)

 聖母に関する日のミサ (なお現在の考え方では,上記「主のお告げ」の祭日はこれに分類されない) 用・聖母に関する随意ミサ用の詩篇唱テキスト "Benedixisti Domine …" は詩篇第84篇 (ヘブライ語聖書では第85篇) であり,ここに掲げられているのはその第2節 (実質的な最初の節) である。
 テキストはローマ詩篇書にもVulgata=ガリア詩篇書にも一致している。
 

【対訳・逐語訳 (アンティフォナ)】

Rorate caeli desuper, 

天よ,上から露をしたたらせよ,

rorate 露を滴らせよ (動詞roro, rorareの命令法・能動態・現在時制・2人称・複数の形)
caeli
天よ (複数) ……複数形であることをはっきり出して「もろもろの天よ」と訳してもよいのかもしれない。「諸天」だと仏教用語にそういうものがあるらしく,別の意味になってしまうだろうから避けるべきだろう。
desuper 上から

  •  "desuper" の強勢はGraduale Triplexでは "de" に置かれているが,Graduale Novumでは "su" に置かれている。
     これは "desuper" が "de" と "super" とから成り立っている複合語 (compositum) であり,中世においては複合語は各部分が独立した語であるかのように発音されることがあったためである。つまり今回の場合,"de super" と書いてあるかのようにということ。

et nubes pluant iustum:

訳1:雲はただしき者を降らせよ。
訳2:雲は (一人の) 義人を降らせよ。
訳3:雲は義を降らせよ。

et (英:and)
nubes 雲が (複数)
pluant 降らせるように (降らせなさい) (動詞pluo, pluereの接続法・能動態・現在時制・3人称・複数の形)
iustum
正しい者・人を/正しいもの・ことを (いずれの場合も単数。男性または中性)

  •  3通りの訳を示した "iustum" は, 「正しい」を意味する形容詞 iustus (男性形) / iusta (女性形) / iustum (中性形) が名詞化したもので,つまり「正しい人」(男性形または女性形の場合) または「正しいもの・こと」(中性形の場合) を意味する。ここでは直接目的語として現れているので,対格 (日本語でいう「~を」) をとっている。
     対格で "iustum" という形になりうるのは,男性形または中性形 (いずれも単数) である。男性形ととれば「正しい人を」,中性形ととれば「正しいもの・ことを」となるが,どちらがよいか。

  •  結論,私はこれを男性形ととり,しかも「正しい人を」ではない訳を採りたい。つまり,人格的存在ではあるが人ではない者が指されていると考える。すなわち神,それも聖霊である。

  •  こう考えるのはもちろん,この入祭唱がアドヴェント (待降節) に歌われるためである。
     この後「地は開かれよ,そして救い主を芽生えさせよ」という言葉が出てくるが,キリスト教的には「救い主」といえばイエス・キリスト以外の誰でもなく,彼を「芽生えさせ」た,すなわち産んだ方といえば聖母マリア以外の誰でもないので,ここで言われている「地」は聖母のことだといえる。では聖母はどのようにイエス・キリストを胎に宿したかといえば,聖霊によってである。こう考えれば, 「天よ,上から露を滴らせよ,雲はiustumを降らせよ」というとき,滴らせよ,降らせよと言われている「露」や "iustum" は聖霊のことだと考えるのが最も素直だと思うのである。
     しかも,この入祭唱の本来の使用機会であるアドヴェントの四季の斎日の水曜日に朗読される福音書箇所は,まさに受胎告知の箇所 (ルカによる福音書第1章第26–38節) である (Missale Romanum 1474年版,つまりトリエント公会議より前の時代にも)。

  •  なお,旧約聖書 (イザヤ書) の一部なのだから聖霊やマリアが関係あるはずがない,ということは考えなくてよい。もとになっているのはたしかにキリスト教より前の時代にヘブライ語で書かれたイザヤ書だが,これはキリスト教的に読み直され,ラテン語で新たに定着し,イエス・キリストの記念を行う教会の典礼の中で実用されてきたテキストだからである。

  •  ちなみにNova Vulgata (第2バチカン公会議後に発行された新しいVulgata) は "iustum" を "iustitiam" に替え,一義的に「正義」を意味するようにしている。

aperiatur terra, et germinet Salvatorem. 

地は開かれよ,そして救い主を芽生えさせよ。

aperiatur 開かれるように (開かれなさい) (動詞aperio, aperireの接続法・受動態・現在時制・3人称・単数の形)
terra 地が
et (英:and)
germinet 芽生えさせるように (芽生えさせなさい),育てるように (育てなさい) (動詞germino, germinareの接続法・能動態・現在時制・3人称・単数の形)
Salvatorem 救い主を  

T. P. Alleluia, alleluia.

(復活節には) ハレルヤ,ハレルヤ。

T[empore] P[aschali] 復活節に (奪格) (Tempore:季節に,Paschali:復活祭に関する)
alleluia ハレルヤ

  •  アドヴェント (待降節) に歌うぶんには関係ない指示だが,しゅのお告げの祭日を前述の事情により復活節第2週の月曜日に移して祝う場合など,この入祭唱を復活節に歌うときのためにこれが書かれている。
     復活節には何でもかんでも「ハレルヤ (alleluia)」をつけて歌うので,この入祭唱でもそれができるようにと旋律が記されているわけである。
     

【対訳・逐語訳 (詩篇唱:アドヴェント,主のお告げの祭日)】

Caeli enarrant gloriam Dei:

天は神の栄光を (詳しく) 語る。

caeli 天が (複数形)
enarrant 詳しく語る/説明する/描写する (動詞enarro, enarrareの直説法・能動態・現在時制・3人称・複数の形) ……手元の辞書 (STOWASSERやSleumer) には最初に「全部語る (語りつくす)」という意味が載っているが,神の栄光を「全部語る」「語りつくす」ことがありうる,と聖書を書いた人やグレゴリオ聖歌を作った人が考えていたとは思えないので,少し控えめにして「詳しく語る」ということだと考える。
gloriam Dei
神の栄光を (gloriam:栄光を,Dei:神の)

  •  ここでも「天」は複数形なので, 「もろもろの天」と訳してもよいのだろう。

et opera manuum eius annuntiat firmamentum.

彼の手のさまざまなわざを大空は告げ知らせる。

et (英:and)
opera わざを,仕事を,作品を (複数) ……単数・主格の形は "opus",つまり楽曲などの作品番号に用いられているあの語。
manuum eius 彼の手の (manuum:手の [複数],eius:彼の)
annuntiat 告げ知らせる (動詞annuntio, annuntiareの直説法・能動態・現在時制・3人称・単数の形)
firmamentum 大空が (単数)


【対訳・逐語訳 (詩篇唱:聖母のCommune,聖母に関する随意ミサ)】

Benedixisti Domine terram tuam:

しゅよ,あなたはあなたの地を祝福なさいました。

benedixisti あなたが祝福した (動詞benedico, benedicereの直説法・能動態・完了時制・2人称・単数の形)
Domine しゅ
terram tuam あなたの地を (terram:地を,tuam:あなたの)

avertisti captivitatem Iacob.

あなたはヤコブの捕囚を終わらせてくださいました。
直訳1:(……) 転じてくださいました。
直訳2:(……) 遠ざけてくださいました。

avertisti あなたが転じた,遠ざけた (動詞averto, avertereの直説法・能動態・完了時制・2人称・単数の形)
captivitatem Iacob ヤコブの捕囚を (captivitatem:捕囚を,Iacob:ヤコブの) …… "Iacob" は格変化しない。

  •  イスラエルの民の「イスラエル」はもともと個人名からきており,その族長イスラエルのもとの名は「ヤコブ」である (創世記第32章第29節参照)。このことから, 「ヤコブ」の名で神の民イスラエルを指すことがよくある。

  •  つまり「ヤコブの捕囚」とは神の民イスラエルが捕囚されていたこと,すなわちバビロン捕囚を指す表現である。
     

【余談:日本語版Rorate「天よ露をしたたらせ」について】

 日本のカトリック教会におけるアドヴェント (待降節) のミサでは,今回扱った入祭唱 "Rorate" の日本語版である「天よ露をしたたらせ」(『典礼聖歌』第301番) が入祭のときに歌われる。作曲者は高田三郎,彼が作曲した聖歌で好きなものはいくつもあるが,これはその中でも私が最も好きなものの一つ,いや「~の一つ」どころかまさしく「最も好きなもの」かもしれないほどのものである。
 特に好きなのは中間部で,ここには詩篇第71 (72) 篇第3節と第6節に基づく自由なテキストが置かれている。

まきに降りる露のように,
地を潤す雨のように,
王は来る,王は来る,
民に平和をもたらすために。

 このテキストや,そもそも詩篇第71 (72) 篇第3節・第6節を用いるということについて,もとになる何かがあったのかどうか分からない (グレゴリオ聖歌のほうの詩篇唱で歌われるのとは異なる詩篇である) が,両端部 (グレゴリオ聖歌でいうアンティフォナ部分,つまり「天よ露をしたたらせ……」) との相性といい,詩情と慰めに満ちた内容といい,なんと素晴らしい箇所を選択しなんと素晴らしくまとめたことであろう。
 特に両端部 (アンティフォナ) との相性に関しては,どうしてもとのグレゴリオ聖歌のほうもこうなっていないのかと思うほどである。あちらで詩篇唱に採られている詩篇第18 (19) 篇があまり合っていないと私は感じるだけに,なおさらそう思う。

 なお両端部の最後「正義の花を咲かせよ」は入祭唱 "Rorate" に対応する言葉がないが,これはもとのイザヤ書第45章第8節においてすぐ続く部分にある1行に基づいたものである。

 

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