入祭唱 "Viri Galilaei" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ43)
Graduale Romanum (1974 / Graduale Triplex, p. 235; Graduale Novum I, p. 209.
gregorien.info内のこの聖歌のページ
この入祭唱については西脇純「聖歌のことばと聖書のことば—昇天祭ミサの入祭唱『Viri Galilaei』を手がかりに—」(『グレゴリオ聖歌研究』第32号 [2020年],pp. 53–70)で詳しく論じられており,お読みになることをお勧めする。
更新履歴
2024年5月29日 (日本時間30日)
対訳の部と逐語訳の部とを統合した。それに伴い,アンティフォナの最初の文を以前より大きい区切りで訳すようにした。
冒頭に西脇純教授の論文がダウンロードできるページへのリンクを加えた。
2022年8月27日
アンティフォナで "admiramini" という語が採られている (ほとんどのラテン語聖書テキストではそうなっていない) ことについて,カッシオドルスの詩篇講解が関係あるかもしれないという話を追記した (「テキスト,全体訳,元テキストとの比較」の部)。
最初の語 "Viri" はもとのギリシャ語に遡れば「人たち」とも訳せるのかもしれない,と書いていたが,どうやらギリシャ語も「男たち」としか訳せないようなので,当該箇所を修正した (「対訳」の部)。
アンティフォナに現れる「知覚動詞 + 目的語 + 現在能動分詞」の構文についての説明に加筆した (「対訳」の部)。
その他細かい修正を行なった。
2022年5月23日 (日本時間24日)
投稿
【教会の典礼における使用機会】
昔も今も,主の昇天の祭日に歌われる。これはイエス・キリストが復活して40日目に天に上げられたことを記念するものであるため,復活祭から40日目 (復活祭当日を1日目と数えて),すなわち復活節第6週の木曜日に祝うことになっている。
だが木曜日というのは平日であり,多くの国ではこの日に皆が教会に集まるのは難しい。しかし重要な記念なので,そのような国では次の日曜日 (復活節第7主日にあたる日) に移して主の昇天を祝うことになっている。日本もこれに該当する。
【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】
Viri Galilaei, quid admiramini aspicientes in caelum? alleluia: quemadmodum vidistis eum ascendentem in caelum, ita veniet, alleluia, alleluia, alleluia.
Ps. Omnes gentes plaudite manibus: iubilate Deo in voce exsultationis.
【アンティフォナ】ガリラヤの男たちよ,天を仰いで何を驚嘆しているのか,ハレルヤ。彼が天に昇ってゆくのをあなたがたが見たように,そのように彼は来るであろう,ハレルヤ,ハレルヤ,ハレルヤ。
【詩篇唱】すべての民族よ,手を打ち鳴らせ。跳び上がらんばかりの喜びの声をもって神に向かい歓呼せよ。
ラテン語学習の教材としてお使いになりたい方のため,古典ラテン語式の母音の長短も示しておく。このテキストは教会ラテン語なので,この通り発音されるべきだというわけではなく,あくまで学習用のものとお考えいただきたい。
Virī Galilaeī, quid admīrāminī aspicientēs in caelum? alleluia : quemadmodum vīdistis eum ascendentem in caelum, ita veniet, alleluia, alleluia, alleluia.
Ps. Omnēs gentēs plaudite manibus : iūbilāte Deō in vōce exsultātiōnis.
アンティフォナの出典は使徒行伝 (使徒言行録,使徒の働き) 第1章第11節である。これはイエスの昇天の直後,空を見上げていた弟子たちに天使が言った言葉である。
Vulgataのテキストは (復活節の聖歌特有の "alleluia" の付加が当然ないことを別にしても) このアンティフォナのそれと異なっており,次のようになっている。
viri galilaei quid statis aspicientes in caelum hic Iesus qui adsumptus est a vobis in caelum sic veniet quemadmodum vidistis eum euntem in caelum
ガリラヤの男たちよ,天を仰いで何を立って (立ちつくして) いるのか。あなたがたのところから天へと受け入れられたこのイエスは,彼が天に行くのをあなたがたが見たように,そのように来るであろう。
大きな違いとしては,"hic Iesus qui adsumptus est a vobis in caelum"「あなたがたのところから天へと受け入れられたこのイエスは」という語句があること,"quemadmodum" 以下が終わりに来ていること,が挙げられる。語単位での違いは次の通りである。

一応,インターネットで閲覧することのできる古ラテン語訳 (Codex Bezae) の同じ箇所も読んでみたが,だいたいVulgataと同じであり,このことから推測する限りでは,この入祭唱のテキストがVulgataと異なっている部分はもとのラテン語聖書テキストの如何によるものではなく,意図的にそうしたものなのであろうと思う。【※ 下の追記もお読みください】
特に "admiramini" という "statis" とはっきり異なる意味の語が現れるところにはそれが感じられる (ただし,「立つ」というのを「立ちつくす」というニュアンスに取ることもこのラテン語動詞の意味の広がり上可能ではないかと思われ,そうすれば「驚嘆する」という意味につながりうるとはいえるが。原語 ἑστήκατε (< ἵστημι) にも「立って動かない」といった意味もあるらしい)。個人的にはこれは,降誕祭第2ミサの入祭唱 (Lux fulgebit) にある "Admirabilis" (驚嘆すべき者) という語,復活の主日の入祭唱 (Resurrexi) にある "mirabilis" (素晴らしい,驚くべき) という語と関連づけて考えたい話である。
【2022年8月27日追記】カッシオドルスの詩篇講解 (第46 [47] 篇第6節についてのところ) に使徒行伝のこの箇所が引用されており,そこでは "admiramini" になっている。これは中世初期においてアウグスティヌスの詩篇講解とともによく読まれていたもので,グレゴリオ聖歌 (テキストも旋律も) の成立基盤を探る上で重要な文献とされる。そういうわけで,この入祭唱が "admiramini" の語を採っているのはカッシオドルスに基づくものだということは十分に考えられる。(参考:Pfeiffer, p. 63)
詩篇唱で歌われるのは詩篇第46 (一般的な聖書では47) 篇であり,Graduale Triplexに載っているのはその実質的な最初の節である第2節のみである (テキストはVulgata/ガリア詩篇書と完全に一致している) が,この詩篇が選ばれている理由はもっと先まで読むとはっきりする。
ascendit Deus in iubilo|Dominus in voce tubae
神は歓呼の声のうちに昇った,主は喇叭の鳴り響く中 [昇った]
(第6節)
なお上述の通り,カッシオドルスはこの節の解説の中で,今回の入祭唱アンティフォナのもとである使徒行伝1:11を引用している。
【対訳・逐語訳 (アンティフォナ)】
Viri Galilaei, quid admīrāminī aspicientēs in caelum?
ガリラヤの男たちよ,何を (何に) 驚嘆しているのか,天を仰ぎながら (天のほうを見ながら)。
別訳 (可能かどうか不明):ガリラヤの人たちよ,(……)
virī Galilaeī ガリラヤの男たちよ,ガリラヤ人の男たちよ (virī:男たちよ,Galilaeī:ガリラヤの,ガリラヤ人の [形容詞])
quid 何を~か (疑問代名詞,中性・単数・対格)
admīrāminī あなたたちが驚嘆する/している,あなたたちが讃嘆する/している (動詞admīror, admīrārīの直説法・受動態の顔をした能動態・現在時制・2人称・複数の形) …… 目的語は直前の "quid"。
aspicientēs 見ながら,見て (動詞aspiciō, aspicereをもとにした現在能動分詞,男性・複数・主格)
…… 意味上の主語は「あなたたち」。
…… Sleumerの教会ラテン語辞典では,最初の "a" が長母音になっている。
in caelum 天のほうを (へ) (caelum:天 [対格]) …… 前置詞 "in" は,対格支配のときは「方向」を示す。「天のほうへ視線を向ける」ということ。
"viri" (<vir) はまず「男たち」であって「人たち (人々)」ではないようだが,辞書によっては最後の最後に「人」という意味が載っていることもあり,別訳のように訳すことも不可能ではないのかもしれない。本音を言えばそのほうがなんだかのどかな感じが出て好きではあるし,手元のさまざまな日本語聖書はどれもそうしている。しかしギリシャ語にさかのぼると,これはラテン語同様「男たち」と訳すしかなさそうな語 (ἄνδρες) である。
いずれにせよ,もとの聖書箇所の前後 (使徒行伝第1章) を読んでみると,イエスが昇天するときにいたのは使徒たちであるから,ここで呼びかけられているのは全員「男たち」であり,少なくともこう訳すことで事実に反するということはない。"aspicientes" は現在能動分詞であり,これ以下3語は直前の文にかかって付帯状況を示す分詞構文。
alleluia:
ハレルヤ。
復活節の聖歌特有の「ハレルヤ」の付加。
quemadmodum vīdistis eum ascendentem in caelum,
彼が天に昇ってゆくのをあなたがたが見たような仕方で (様子で,ありさまで)
quemadmodum ~という仕方で,~という様子で (関係副詞) …… もとはquem ad modumと3語であったのが1語につづられるようになったもの。quem ad modumは並び替えてad quem modumとすると理解しやすい。つまりもともと英語でいうin what manner,「どのような仕方/あり方で?」という疑問詞であり,それが関係副詞としても用いられるようになったというわけである。
vīdistis あなたたちが見た (動詞videō, vidēreの直説法・能動態・完了時制・2人称・複数の形)
eum ascendentem 彼が昇るのを,昇ってゆくのを (eum:彼 [対格],ascendentem:昇ってゆく [動詞ascendō, ascendereをもとにした現在能動分詞,男性・単数・対格])
in caelum 天へと (caelum:天 [対格])
「~という仕方で」という意味の関係副詞 "quemadmodum" に導かれた,様態を示す従属節。
その中身だが, 「あなたがたが見た」はvidistis, 「彼」はeum (対格), 「昇る (昇ってゆく)」はascendentem (現在能動分詞) であり,英語の「知覚動詞 + 目的語 + 現在分詞 (-ing形)」の構文と同じ形である。英語同様,現在能動分詞の位置に不定詞がくることも可能なのだが,分詞を使うと対象がその行動・動作をするところを (今回の例だと, 「彼が天に昇ってゆくのを」) 感覚的に・注意を集中して認識したことが強調されるらしい。それを明示して訳せば「彼が天に昇ってゆくさまを」とでもなるだろうか。
ただ,ギリシャ語 (少なくとも新約聖書ギリシャ語) ではこの構文において, 「見る」という動詞と組み合わせるときにはニュアンス関係なく必ず分詞を用いる (不定詞は用いない) そうなので (授業でそう聞いた),この箇所は単にそれをそのままラテン語に移した結果にすぎないかもしれない。
ita veniet,
そのように彼は来るであろう,
ita そのように
veniet 彼が来るであろう (動詞veniō, venīreの直説法・能動態・未来時制・3人称・単数の形)
直前の "quemadmodum" 以下の従属節を "ita (そのように)" で受けている。
alleluia, alleluia, alleluia.
ハレルヤ,ハレルヤ,ハレルヤ。
これも復活節であるために加えられているもの。
【対訳・逐語訳 (詩篇唱)】
Omnēs gentēs plaudite manibus:
すべての民族 (異邦人ら) よ,手を打ち鳴らせ。
omnēs すべての
gentēs 民族 (複数) よ …… (神の民イスラエルの対概念としての)「異邦人」という含みを持つ語でもある。
plaudite 打ち鳴らせ (動詞plaudō, plaudereの命令法・能動態・現在時制・2人称・複数の形)
manibus 手でもって (複数・奪格) …… 手段・道具を表す奪格。全体訳と対訳では「打ち鳴らせ」という語に合わせて単に「手を」とした。
iūbilāte Deō in vōce exsultātiōnis.
跳び上がらんばかりの喜びの声をもって神に向かって歓呼せよ。
iūbilāte 歓呼せよ (動詞iūbilō, iūbilāreの命令法・能動態・現在時制・2人称・複数の形)
Deō 神に
in vōce exsultātiōnis 跳び上がらんばかりの喜びの声で,大喜びの声で (vōce:声 [奪格],exsultātiōnis:跳び上がらんばかりの喜びの,大喜びの) …… 教会ラテン語では,「in + 奪格」で「手段・道具」を示すことがある。
"exsultationis" (<exsultatio) は「喜び」と訳される語の一つだが,基礎になっている動詞exsulto, exsultareがもとはといえば「跳び上がる」という意味なので,このように訳してみた。手元の羅独辞典にある訳語の一つは "Ausgelassenheit" で,これは「思い切り (制限なしに・妨げる思いなしに) 喜ぶこと」を意味する。