拝領唱 "Dicit Andreas" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ100)

 GRADUALE ROMANUM (1974) / GRADUALE TRIPLEX p. 263; GRADUALE NOVUM I p. 227.
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更新履歴

2024年1月10日

  •  当初「対訳・逐語訳」の部にのみ掲げていた別訳のほうが優れていると判断し,そちらを全体訳で採用した。それに伴い,「テキスト,全体訳,元テキストとの比較」の部および「対訳・逐語訳」の部における考察・解説も書き改めた。

2024年1月9日 (日本時間10日)

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【教会の典礼における使用機会】

 後日追記する。
 

【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】

Dicit Andreas Simoni fratri suo: Invenimus Messiam, qui dicitur Christus: et adduxit eum ad Iesum.
アンデレが自分の兄弟シモンに言う,「見つけたよ,メシアを,キリストと呼ばれる方を!」そして彼をイエスのところに連れていった。

 "qui dicitur Christus (キリストと呼ばれる)" の位置づけが簡単ではない。下の考察と,「対訳・逐語訳」の部に掲げた別訳およびその解説もぜひお読みいただきたい。

  *

 もとになっている聖書箇所は,ヨハネによる福音書第1章第41節の途中から第42節のはじめまでである。
 
もとの福音書とは異なるところが複数あるが,その中で特に重要なのは "qui dicitur Christus (キリストと言われる/呼ばれる)" という箇所で,ここはギリシャ語原典やVulgataでは「キリストと訳される (quod est interpretatum Christus)」となっている。福音書記者が「メシア (これはヘブライ語あるいはアラム語) というのはギリシャ語ではキリストですよ」と説明しているのである (拝領唱では男性形 "qui" をとって「人物」を受けている関係代名詞も,こちらでは中性形 "quod" をとって「語」を受けるようになっている)。つまり,本来これはアンデレの言葉の一部ではない
 Vetus Latina (Vulgataより前のさまざまなラテン語訳聖書テキスト) を見てもほとんどは「キリストと訳される」としている。「呼ばれる」としているものも少しだけあるが,今回の拝領唱がそれをもとにしたということなのか,あるいは逆に拝領唱が先にあってそれの影響で「呼ばれる」としているテキストがいくつか生まれたということなのかは,私には分からない。

 もし,この拝領唱において「呼ばれる (dicitur)」という語になっているのが意図的なものだとしたら,次のような事情によるのではないかと思う。
 まず,ラテン語世界の人々にとって「メシア」という語はそれほど馴染みがなかったのかもしれず,それで「キリスト」という語は残したかったのだろう。かといって「キリストと訳される」というのはあまりに説明的な言葉で,歌うテキストにするのに向かない。そこで代わりに「キリストと呼ばれる」としたのではないか。
 それも,もしかすると,福音書記者による説明という要素そのものを排除すべく,この「キリストと呼ばれる」という言葉もアンデレに言わせようとしているのではないか (「キリストと訳される」だと登場人物の台詞として不自然だが,「キリストと呼ばれる」ならば通用する,ということ)
 
さらに,これが拝領唱,つまり聖体拝領中に歌われる歌であるということも考慮に値する。聖体拝領では,聖堂の前方で配られる聖体 (パンの形のうちに現存するイエス・キリスト) を頂くために信徒たちが前に進み出るという動きがある。そのような動きをしている信徒たちがこの拝領唱を聴くのである。この拝領唱の最後の一文は「そして (アンデレは) 彼 (=シモン) をイエスのところに連れていった」であるが,このようなことを考えると,ここで「イエスのところに連れてい」かれているのは信徒たちでもあるともいえるのである。そうであれば,アンデレが彼らを「連れてい」くにあたっては,彼らに分かる言葉つまり「キリスト」を用いて呼びかけるのがふさわしい。この意味でも,「キリストと呼ばれる」という語句は,シモンだけでなく実は今ここで信徒たちにも呼びかけているアンデレの言葉に含める十分な理由があるといえるだろう。
 

【対訳・逐語訳】

Dicit Andreas Simoni fratri suo:

アンデレが自分の兄弟シモンに言う,
別訳:(……) 言った,

dicit 言う;言った (動詞dico, dicereの直説法・能動態・現在時制・3人称・単数の形) ……現在時制なので文字通りには「言う」であり,そう訳したほうが臨場感があるとも思うが,「歴史的現在」の用法とみて「言った」とも訳すことができる。
Andreas アンデレが
Simoni シモンに
fratri suo 自身の兄弟に (fratri:兄弟に,suo:自身の)

  •   「シモン」はペテロ (ペトロ) の本名。

Invenimus Messiam, qui dicitur Christus:

訳1-1:「(ぼくらは) 見つけたよ,メシアを,キリストと呼ばれる方を!」と。
訳1-2:「(ぼくらは) キリストと呼ばれるメシアを見つけたよ!」と。
訳2:「(ぼくらは) 見つけたよ,メシアを!」と。これは「キリスト」と呼ばれる方のことである。
直訳:われわれはメシア (キリストと言われるところの) を見つけた。

invenimus われわれが見つけた,われわれが発見した,われわれが出くわした (動詞invenio, invenireの直説法・能動態・完了時制・1人称・複数の形)
……  現在時制も同じ綴りだが,アクセントの位置が異なり,完了時制なら "ve",現在時制なら "ni" にくる。今回はGRADUALE ROMANUM/TRIPLEXでもGRADUALE NOVUMでも "ve" にアクセント記号が書かれており,旋律を見てもその通りであると感じられるので,完了時制と見て間違いない。
……「探した末に見つけた」の意味でも「たまたま見つけた」の意味でもありうる (もとのギリシャ語も)。
Messiam メシアを
qui (関係代名詞,男性・単数・主格) ……直前の "Messiam" を受ける。
dicitur 言われる,呼ばれる (動詞dico, dicereの直説法・受動態・現在時制・3人称・単数の形)
Christus キリスト (主格)

  •  アンデレもシモン (ペテロ) もガリラヤ地方のユダヤ人であり (それも知識階級ではない),彼らの間ではヘブライ語ないしアラム語つまり「メシア」で話が通じるわけで,ギリシャ語を持ち込む意味はない。すると,"qui dicitur Christus (キリストと呼ばれる)" をアンデレの言葉に含めるのは,普通に考えれば避けたいところである。この考え方によったのが訳2である (本稿投稿時点では,こちらを全体訳で採用していた)。

  •  とはいえ,これは典礼文であり,史実を述べることではなく今ここで典礼を祝うことを目的とした (さらに限定すると,これは拝領唱なので聖体拝領にあたっての黙想を助けることを目的とした) 言葉なので,以上のことは絶対ではない。
     特に,もしもここで "dicitur (呼ばれる)" という語が用いられているのが意図的なものなのであれば,むしろ積極的にこれをアンデレの言葉に含めて考えるべきなのかもしれない (これについては「テキスト,全体訳,元テキストとの比較」の部で詳しく述べた)。この考え方によったのが訳1である。

et adduxit eum ad Iesum.

そして彼 (=シモン) をイエスのところに連れていった。

et (英:and)
adduxit 連れていった (動詞adduco, adducereの直説法・能動態・完了時制・3人称・単数の形)
eum 彼を
ad Iesum イエスへ (ad:英 "to",Iesum:イエス [対格])

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