入祭唱 "Lux fulgebit hodie super nos" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ17)

 Graduale Romanum (1974) / Graduale Triplex, p. 44 (これら2冊の内容は四線譜の上下のネウマの有無を除けば基本的に同じだが,本文中で言及するときは,煩雑を避けるため後者のみ記す); Graduale Novum I, p. 24.
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更新履歴

2024年11月17日 (日本時間18日)

  •   「教会の典礼における使用機会」の部を書き直した。といってもほとんどは構成を変えて整理しただけのことで,内容の変更はOrdo Cantus Missaeの年代訂正とAMS諸写本に記された "mane prima" の件の追記のみである。

  •  対訳の部と逐語訳の部とを統合した。

2023年1月29日 (日本時間30日)

  •  全面的に改訂した。その中で「教会の典礼における使用機会」および「テキスト,全体訳,元テキストとの比較」の部を新設したが,特に後者は (この入祭唱アンティフォナのテキストの成り立ちが単純ではないだけに) 大きな追加情報となっている。

2018年12月23日 (日本時間24日)

  •  投稿
     


【教会の典礼における使用機会】

【現行「通常形式」のローマ典礼 (1969年のアドヴェントから順次導入された) において】

 1972年版Ordo Cantus Missae (Graduale Triplex/Novumはだいたいこれに従っている) では,今回の入祭唱は次の機会に割り当てられている。

  •  しゅの降誕の祭日 (12月25日)・早朝のミサ (Missa in aurora)。

  •  主の降誕の八日間 (12月25日~1月1日。といっても12月25~28日と1月1日はそれぞれ教会の祭日や祝日であり固有の式文をもつので,この用語で実質的に問題となるのは12月29~31日のみとなる)。ほかの選択肢あり。

  •  神の母聖マリアの祭日 (1月1日)。ほかの選択肢あり。

  •  主の公現の祭日 (原則1月6日,日本では1月2日~8日にくる日曜日) の翌日から主の洗礼の祝日の前日までの週日。ほかの選択肢あり。

 主の降誕の祭日・早朝のミサの「早朝」とはいつごろかだが,原語 "aurora" は「朝焼け」という意味なので,日の出前数十分間くらいを指すと思われる。なんにせよ,夜が明けてしまった後ではない。このことは,この入祭唱のテキストとの関連からも重要である。

 2002年版Missale Romanum (ローマ・ミサ典礼書) でも,今回の入祭唱は主の降誕の祭日・早朝のミサと神の母聖マリアの祭日とに割り当てられている (後者にはやはりほかの選択肢あり)。PDF内で "fulgebit" をキーワードとする検索をかけた限りでは,ほかの使用機会は見つからなかった。
  「主の降誕の八日間」と「主の公現の祭日の翌日から主の洗礼の祝日の前日までの週日」とについては,この括りでの式文の定めそのものがなく,当該期間中の個々の日の式文が記されている。それら個々の日の式文を見ても,今回の入祭唱が指定されているものはない。

【20世紀後半の大改革以前のローマ典礼 (現在も「特別形式」典礼として有効) において】

 1962年版Missale Romanum (ローマ・ミサ典礼書) では,今回の入祭唱はしゅの降誕の祝日 (12月25日)・第2ミサ (早朝) のみに置かれている。

 AMSにまとめられている8~9世紀の6つの聖歌書写本のうち,入祭唱に関係あるのは5つ (M=Monzaモンツァ以外) であるが,そこでも同様になっている (AMS第10欄)。
 ただしこちらでは「第2ミサ」とも「早朝のミサ (ad Missam in aurora)」とも書かれておらず,"mane prima" とある。これについて (の,少なくとも私にとっては面白い話) はこちらの記事を参照。
 

【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】

Lux fulgebit hodie super nos: quia natus est nobis Dominus: et vocabitur Admirabilis, Deus, Princeps pacis, Pater futuri saeculi: cuius regni non erit finis.
Ps. Dominus regnavit, decorem indutus est: indutus est Dominus fortitudinem, et praecinxit se.
【アンティフォナ】光が今日きょうわれらの上に輝きわたるであろう,なぜなら生まれてくださったからだ,われらのために,しゅが。彼は呼ばれるであろう,驚嘆すべき者,神,平和の君,きたるべき世界の父と。そして彼の王国には終わりがないであろう。
【詩篇唱】主は王となられ,威厳を身にまとわれた。主は力を身にまとわれ,腰帯としてお締めになった。

 アンティフォナの第1文 "Lux fulgebit hodie super nos" はイザヤ書第9章第2節から取られているが,Vulgataではなくもっと古いラテン語訳聖書テキスト (Vetus Latinaと総称される) によっている。"hodie (今日きょう)" は原文にない付加要素で (そしてこれは降誕祭の典礼によく現れる重要語である),"nos (私たち)" は "vos (あなたたち)" になっているテキストもあるらしい (以上,Kohlhaas p. 288による)。
 なお,近い内容の言葉がトビト記第13章第11節 (Vulgataでは第13節) にもある。

輝く光が,地の果てまで照り渡る。

トビト記第13章第11節 (聖書協会共同訳)

この箇所は,Vulgataをはじめとする昔のラテン語聖書テキストでは次のように少し違う訳になっているのだが (以下すべてのラテン語聖書テキスト引用において,太字強調と訳文は引用者すなわち私による),

luce splendida fulgebis et omnes fines terrae adorabunt te
輝く光でお前は照り渡り,すべての地の果て (まで) がお前を拝むであろう

トビト記第13章第13節※ (Vulgata, ドイツ聖書協会2007年第5版)
※日本の聖書協会共同訳や新共同訳では第11節

とにかく今回の入祭唱アンティフォナ同様,lux (>luce) とfulgeo, fulgere (>fulgebis) との2語が用いられている。さらに,これに続く部分がいかにもクリスマス (細かくいえばむしろ公現 [エピファニー] だが) らしいのも興味深い。

諸国の人々が遠くから,お前のもとにやって来る。
地の果てに住むすべての人々が
天の王のための献げ物を携えて
聖なるお前の名のもとにやって来る。

トビト記第13章第11節 (聖書協会共同訳)

 アンティフォナの第2文 "quia natus est nobis Dominus" については,明らかにここが出典だという箇所はないものの,最も近いのは,

quia natus est vobis hodie salvator qui est Christus Dominus in civitate David
お生まれになったのだ,あなたたちのために今日,しゅ・キリストである救い主が,ダビデの町で

ルカによる福音書第2章第11節 (Vulgata, ドイツ聖書協会2007年第5版)

であると思う (天使が羊飼いたちに言った言葉。1つ前のミサ,すなわち主の降誕・夜半のミサ [Missa in nocte] で朗読される福音書箇所に含まれている)ほかには,

Puer natus est nobis
みどりごが生まれた,われら (のため) に

イザヤ書第9章第6節 (ヘブライ語聖書では第5節) (Vetus Latina; Kohlhaas p. 288による)

も元テキストとして考えうる (Graduale TriplexやKohlhaas p. 288ではこちらが元テキストとして挙げられている)。この箇所はもちろん,主の降誕・日中のミサの入祭唱のもとでもある。
 アンティフォナの第3文 "et vocabitur Admirabilis, Deus, Princeps pacis, Pater futuri saeculi" は,明確にイザヤ書第9章第6節 (ヘブライ語聖書では第5節) に基づいているが,やはりそのままではなく少し言葉が削られている。
 アンティフォナの最後 "cuius regni non erit finis" に最も近いのは

et regni eius non erit finis
そして彼の王国には終わりがないであろう

ルカによる福音書第1章第33節 (Vulgata, ドイツ聖書協会2007年第5版)

であろう (受胎告知において,大天使ガブリエルがマリアに語った言葉の一部) し,実際Graduale Triplexにもここは出典の一つとして挙げられているが,イザヤ書第9章第7節 (ヘブライ語聖書では第6節) にも

multiplicabitur eius imperium et pacis non erit finis
super solium David et super regnum eius
彼の支配は拡大するであろう,そして平和が絶えることがないであろう,
ダビデの王座と彼の王国とには

イザヤ書第9章第7節 (ヘブライ語聖書では第6節) (Vulgata, ドイツ聖書協会2007年第5版)

という言葉がある。

 詩篇唱に用いられているのは詩篇第92篇 (ヘブライ語聖書では第93篇) であり,ここに掲げられているのはその第1節の一部である。
 テキストはローマ詩篇書ともVulgata=ガリア詩篇書とも少しずつ異なっている (「ローマ詩篇書」「Vulgata=ガリア詩篇書」とは何であるかについてはこちら) が,内容はどれもほぼ同じといってよい。

Dominus regnavit decorem induit
induit Dominus fortitudinem et praecinxit se virtutem
(ローマ詩篇書)

Dominus regnavit decore indutus est
indutus est
Dominus fortitudine et praecinxit se
(Vulgata=ガリア詩篇書,ドイツ聖書協会2007年第5版)

Dominus regnavit, decorem indutus est
indutus est Dominus fortitudinem, et praecinxit se.
(Graduale Triplex [活字部分].  改行は比較しやすくするため私が加えた)

 なお中世の聖歌書を見ると,Einsiedeln 121 (10世紀後半) で最後に "i u e" すなわち "virtute(m)" とあったり (つまりここはローマ詩篇書と同じ),Benevento 34 (12世紀初めくらい) で "induit" になっていたり (これまたローマ詩篇書の形) と,Graduale Triplexに活字で載っているのとは少し異なるテキストが記されている (なおGraduale Triplexも,手書きでならばEinsiedeln 121の "i u e" を写している)。
 Graduale Novumは,Einsiedeln 121に合わせて最後に "virtute" を活字レベルで加えている。ただ,Einsiedeln 121のこの部分は上記の通り母音のみで記されているため,実は "virtutem" である可能性もある。意味は結局変わらないといってよいので,あまり気にしなくてよいが。
 

【対訳・逐語訳 (アンティフォナ)】

Lux fulgebit hodie super nos:

光が今日きょうわれらの上に輝きわたるであろう,

lux 光が
fulgebit 輝くだろう (動詞fulgeo, fulgereの直説法・能動態・未来時制・3人称・単数の形)
hodie 今日きょう (副詞)
super nos われわれの上に (nos:われわれ [対格])

  •  しゅの降誕の祭日・早朝のミサが行われる時間帯について「教会の典礼における使用機会」の部で述べたが,夜がはっきりと明けてしまってからではこの「輝きわたるであろう」という未来時制の動詞が生きない。

quia natus est nobis Dominus:

なぜなら生まれてくださったからだ,われらのために,しゅが。
自然な日本語の語順にした訳:なぜなら,われらのために主が生まれてくださったからだ。

quia なぜなら~から
natus est 生まれた (動詞nascor, nasciの直説法・受動態の顔をした能動態・完了時制・3人称・単数の形)
nobis われわれに,われわれのために (与格)
Dominus しゅ

  •  降誕そのものは「夜半のミサ」で (現行「通常形式」の典礼に限り「前晩のミサ」でも) 既に起こっているので,「生まれた」と完了時制。

et vocabitur Admirabilis, Deus, Princeps pacis, Pater futuri saeculi:

そして彼は呼ばれるであろう,驚嘆すべき者,神,平和の君,きたるべき世界の父と。

et (英:and)
vocabitur 彼は~と呼ばれるだろう (動詞voco, vocareの直説法・受動態・未来時制・3人称・単数の形) ……以下, 「~」に入る語 (句) が次々と現れる。
Admirabilis 驚嘆すべき者 (主格) ……形容詞の名詞化。
Deus 神 (主格)
Princeps pacis 平和の君 (princeps:君主 [主格],pacis:平和の)
Pater 父 (主格)
futuri saeculi きたるべき世界の (futuri:来るべき,saeculi:世界の)
…… 直前の "Pater" にかかる。
…… "futuri" (<futurus, -a, -um) はもともと,動詞sum, esse (英語でいうbe動詞) の未来能動分詞である。「未来にある」,つまり「これから来る」, 「きたるべき」ということである。

cuius regni non erit finis.

そして彼の王国には終わりがないであろう。
直訳:そして終わりが彼の王国のものであることはないであろう。
別の直訳:そして彼の王国の終わりはないであろう。
直訳に基づいた私なりの別訳:そして彼の王国は終わることを知らぬであろう。

cuius そして彼の (関係代名詞,男性・単数・属格)
…… 属格の関係代名詞であるから,文字通りには英語でいう (関係代名詞としての) whoseの意味である。それを「そして彼の」と訳せるのは,単にそのほうがこなれた訳文になるからというだけでなく,≪ラテン語の関係代名詞 [……] はしばしば文頭に来て,「et (atque) + 代名詞 [……]」の役目を果た≫すからである (小林,p. 82)。
…… 女性・中性も同形だが,文脈上男性。
…… 次の "regni" にかかる。
regni 王国の (属格) ……下の解説をお読みいただきたい。
non erit ないだろう (英:there will not be) (nonは否定詞。eritは動詞sum, esse [英語でいうbe動詞] の直説法・能動態・未来時制・3人称・単数の形) ……主語は次の "finis"。
finis 終わりが (主格)

  •   「彼の王国に」というと, 「王国」にあたる語 "regni" が与格なのかと思ってしまうが,そうではなく属格であり,つまり直訳すると「彼の王国の」となる。これを述語的にとったのが「直訳」,("non erit" を飛び越えて) "finis" にかかるものと解釈したのが「別の直訳」である。
     なお "non erit" を飛び越えてかかるということなどありうるのかとお思いになるかもしれないが,こういうことはラテン語ではごく普通にある。ただし,これまで私が見てきた限りでは,グレゴリオ聖歌のテキストではあまり多く見られない現象である。
     

【対訳・逐語訳 (詩篇唱)】

Dominus regnavit, decorem indutus est:

しゅは王となられ,威厳を身にまとわれた。

Dominus しゅ
regnavit 支配した,王であった;王となった (動詞regno, regnareの直説法・能動態・完了時制・3人称・単数の形)
decorem 威厳を,気品を,美しさを
indutus est 着た,身にまとった (動詞induo, induereの直説法・受動態 [の顔をした能動態?]・完了時制・3人称・単数の形) ……これは受動態の形をしているが,能動態でも受動態でも「着る」という意味になる動詞である (少なくとも教会ラテン語では)。「テキスト,全体訳,元テキストとの比較」の部で述べた通り,ローマ詩篇書ではここが "induit" と能動態になっているのだが,そういうわけで意味は同じだということになる。

indutus est Dominus fortitudinem, et praecinxit se (virtute).

しゅは強さを身にまとわれ,(力を) 腰帯としてお締めになった。

indutus est 着た,身にまとった (動詞induo, induereの直説法・受動態 [の顔をした能動態?]・完了時制・3人称・単数の形)
Dominus しゅ
fortitudinem 強さを,力を,勇敢さを
et (英:and)
praecinxit 腰帯を締めた (動詞praecingo, praecingereの直説法・能動態・完了時制・3人称・単数の形) ……この訳語だけだと分かりづらいが,「腰帯を締めた状態の」ではなく, 「腰帯を締めるという動作をした」という意味である。
se 自身を
virtute 力で (奪格)
…… Graduale Triplexにはこの語はないが,Graduale Novumにはある (前述の通り,Einsiedeln 121に従ったもの)。
……「力で」と言われると「力を入れて」という意味かと思ってしまうが,そうではなく「力を腰帯として締めた」ということである。ここの「力で腰帯を締めた」が前の「強さを身にまとった」と平行関係にある (言い換えである) ことからそういえる。
……「テキスト,全体訳,元テキストとの比較」の部でも述べた通り,Einsiedeln 121のこの部分は母音しか記されていないため,実は "virtutem" (対格) である可能性もある (ローマ詩篇書ではそうなっている)。といっても今回の場合,意味は結局同じだといってよい。
…… この語 (<virtus) には「男らしさ」「徳」といった意味もあり,むしろそちらが本来かと思うが (特に「男らしさ」は),これまでに私が訳してきた聖歌においては常に「力」の意味らしかった。
  


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