入祭唱の詩篇唱について (なぜここでこの箇所? と思ったら)

 今日届いた旧ミサ (現行「特別形式」ミサ) の解説書を早速ちょっと開いてみたら,グレゴリオ聖歌の入祭唱 (Introitus) の理解のために重要なことが書いてあったので訳してシェアします。もともとは全部で1段落ですが,分かりやすくするため適宜改行を入れます。

 [入祭唱の] アンティフォナの後にくる詩篇唱の意味を理解するには,もともとはここで最初の節だけでなくその詩篇全部が歌われていたということを念頭に置く必要がある。
 たとえば公現祭の [入祭唱の] 詩篇唱の「神よ,あなたの王に裁きをお与えください」[(詩篇第71/72篇第1節)] という言葉は,[これ自体としては] この祭日と特に深いかかわりはない。しかしこの言葉は,この詩篇 [第71/72篇] 全部の代表として置かれているのである。そこでは平和の君の治める限りなき王国が描写され,第10–11節には「タルシシュと島々との諸王は贈り物をささげるであろう。アラビアとサバの諸王は貢物を持ってくるであろう。地上のすべての王たちが彼を伏し拝み,すべての民が彼に仕えるであろう」とある [のを見れば,なぜこの詩篇が選ばれているのかはよく分かる]。
 聖なる司教たちの祝日の [入祭唱の] 詩篇唱は「主よ,ダビデと彼のすべての敬虔さを思い起こしてください」(詩篇第131 [/132] 篇第1節) となっているが,これは同詩篇第9節に「あなたの祭司たちが正義を身にまといますように」とあるのを見て初めて理解できることである。
 受難の主日 [註:棕櫚の主日/枝の主日ではなく,四旬節第5主日のこと] の前日の土曜日の入祭唱 [のアンティフォナ] で「渇く者たちよ,水のところに来なさい,(……) そして喜びのうちに飲みなさい」(イザヤ書第55章第1節) と歌われるのを聞けば,詩篇唱の「わが民よ,わが律法に注意を向けなさい」(詩篇第77 [/78] 篇第1節) という言葉はこれと何の関係があるのかとまずは考えてしまうところである。しかし同詩篇を先まで読んでいって,荒野においてイスラエルの民が奇跡によって飲み物と食べ物を与えられたことについて述べられているのを見れば,これも納得できる。「彼は荒野で岩を割り,深い淵から飲ませるかのように [豊かに] 彼らに飲ませた」(第15節)。

Matthias Gaudron著, Die Messe aller Zeiten. Ritus und Theologie des hl. Meßopfers, 2008年第2版, pp. 54–55

 入祭唱では詩篇唱は1節 (旧ミサではそれとGloria Patri) だけ歌うということにしたとき,機械的に最初の節を残した結果,こうなってしまったわけですね。しかしそれなら,典礼書にどう書いてあるかにかかわらず,その詩篇の中でどこが一番よくアンティフォナに (あるいはそのミサ全体に) 合うかを考え,その節を歌ったほうがよいのではないかと思います。
 今後「グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ」で入祭唱を扱うにあたっては,新たにこの観点からも詩篇唱について考えることにしたいと思います。なるべく第119 (Vulgata:118) 篇がこないことを願いつつ。

【追記1】
 ところで,最初の節にその詩篇全体を代表させるというのは,まさに「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」で行われている (とも言われる) ことですね。

【追記2】
 昔も,必ずしも最後まで詩篇が歌われていたわけではありません。入祭唱は司祭 (たち) と侍者たちが入堂して位置につくまでの間歌われるものですから,その動きが完了したらそれ以上続ける必要はない (むしろ長くならないほうがよい) ことになります。同書のほかの箇所によると,司式者が「もういい,Gloria Patriに行って終わらせなさい」という合図を出したりしていたようです (Gloria Patriは詩篇唱の締めにほぼいつも歌われる栄唱のこと)。

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