拝領唱 "Cantabo Domino" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ123)

 Graduale Romanum (1974) / Graduale Triplex, pp. 283–284 (これら2冊の内容は四線譜の上下のネウマの有無を除けば基本的に同じなので,本文中で言及するときは,煩雑を避けるため原則として後者のみ記す).
 
Graduale Novum I, p. 255.
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更新履歴

2025年2月17日 (日本時間18日)

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【教会の典礼における使用機会】

【現行「通常形式」のローマ典礼 (1969年のアドヴェントから順次導入された) において】

 1972年版Ordo Cantus Missae (Graduale Triplexはだいたいこれに従っている) では,次の機会に今回の拝領唱が用いられることになっている。

  •  年間第8週 (A年の主日および毎年の火・水・金曜日を除く) 

 2002年版ローマ・ミサ典礼書 (Missale Romanum) においては,PDFをGoogle Chromeで開き "cantabo","bona tribuit" をそれぞれキーワードとするページ内検索をかけて見つけることができた限りでは,次のところに今回の拝領唱が載っている。

  •  年間第8主日。ほかの選択肢あり。

【20世紀後半の大改革以前のローマ典礼 (現在も「特別形式」典礼として有効) において】

 1962年版ローマ・ミサ典礼書 (Missale Romanum) では,PDF内で上記同様に検索をかけて見つけることができた限りでは,今回の拝領唱は聖霊降臨後第2主日に置かれている。

 AMSにまとめられている8~9世紀の諸聖歌書でも同様である (AMS第174欄)。
 

【テキスト,全体訳,元テキストとの比較など】

Cantabo Domino, qui bona tribuit mihi: et psallam nomini Domini altissimi.
上記テキスト (Graduale Triplexにあるもの) に従った訳:
私は諸々のよいものを私に下さったしゅに向かって歌おう。いと高き主のに向かって竪琴を奏でよう。
旋律から感じられる区切りに従った訳:私は諸々のよいものを私に下さったしゅに向かって歌おう。主の,すなわち至高者のに向かって竪琴を奏でよう。

 2つの訳の相違点は "altissimi" の解釈だけである。対訳・逐語訳の部で解説する。
 なお,相違点をはっきりさせるためもあって第2の訳は殊更「主の,すなわち至高者の」としているが,演奏会のプログラムでお使いになりたい場合などこなれた訳文が望ましいときには, 「至高者であられる主の」としてくださればよい (これもまた原文に忠実な訳である)。

 詩篇第12篇第6節後半が用いられている。ヘブライ語聖書 (第13篇第6節) では前半 “Cantabo Domino, qui bona tribuit mihi” に対応する部分でこの詩篇が終わっており,後半に対応する部分はない。

 テキストはVultaga=ガリア詩篇書 (ドイツ聖書協会2007年第5版) に一致している。ローマ詩篇書では “et psallam nomini Domini altissimi” が “et psallam nomini tuo Altissime” となっており,これは前週の拝領唱 “Narrabo” に用いられている詩篇第9篇第3節と同じ形であるのが興味深い。(「ローマ詩篇書」「Vulgata=ガリア詩篇書」とは何であるかについてはこちら。)

 1つ前の週の入祭唱と拝領唱から取ってきたような要素でこの拝領唱全体が構成されているのは注目される。前半は入祭唱 “Domine, in tua misericordia speravi” の終わりの部分と同じテキストで (出所からして同じ),後半は上述のように拝領唱 “Narrabo” (のやはり終わりの部分) によく似た言葉なのである。
 

【対訳・逐語訳】

Cantabo Domino, qui bona tribuit mihi:

私はしゅに向かって歌おう,諸々のよいものを私に下さった (主に)。

cantabo 私が歌おう (動詞canto, cantareの直説法・能動態・未来時制・1人称・単数の形)
Domino
しゅ
qui
(関係代名詞,男性・単数・主格) ……直前の “Domino” を受ける。
bona
 よいものを (名詞的に用いられている形容詞,中性・複数・対格) ……形容詞が名詞的に用いられている場合,中性形なら「もの・こと」を表す。複数形なので,全体訳と対訳では「諸々のよいものを」とした。
tribuit
配分した,割り当てた,与えた (動詞tribuo, tribuereの直説法・能動態・完了時制・3人称・単数の形) ……現在時制も同じ形だが,七十人訳ギリシャ語聖書やヘブライ語原典との比較から完了時制だと判断する。
mihi
私に

et psallam nomini Domini altissimi.

訳1a:(そして) 私はいと高きしゅに向かって竪琴を奏でよう
訳1b:(そして) 私はしゅ,すなわち至高者のに向かって竪琴を奏でよう
訳2a:(そして) 私はいと高きしゅに向かって竪琴に合わせて歌おう
訳2b:(そして) 私はしゅ,すなわち至高者のに向かって竪琴に合わせて歌おう
訳3a:(そして) 私はいと高きしゅに向かって讃歌を歌おう
訳3b:(そして) 私はしゅ,すなわち至高者のに向かって讃歌を歌おう

et (英:and)
psallam
私が撥弦楽器を奏でよう,私が撥弦楽器に合わせて歌おう;私がほめ歌おう (動詞psallo, psallereの直説法・能動態・未来時制・1人称・単数の形)
nomini
名に
Domini
しゅの ……直前の "nomini" にかかる。
altissimi
最も高い (形容詞の最上級);至高者の (形容詞の最上級が名詞化したもの) ……前者であれば直前の "Domini" に,後者であれば2つ前の "nomini" にかかる (直前の "Domini" を同格で言いかえている)。下の解説をお読みいただきたい。

  •  6つの訳を分けているポイントは2つあり,第1のポイントは "psallam" の解釈 (訳1か訳2か訳3かに関わる),第2のポイントは "altissimi" の解釈 (訳aか訳bかに関わる) である。

  •  第1のポイントについては,同じ語が拝領唱 “Narrabo” にも現れておりそれを扱った記事で検討したので,当該箇所をお読みいただきたい (と言いつつ,本稿投稿時点では “Narrabo” で採ったのと異なる解釈を全体訳において採用してしまっている。あとで “Narrabo” の記事のほうを改めるつもりでいる)。ただし,"Narrabo" の記事ではヘブライ語原典 (マソラ本文) にさかのぼって考えたのだが,今回はヘブライ語原典に対応する箇所が存在しないという点で事情はやや異なるが。

  •  第2のポイントについてだが,全体訳のところに記した通り,結論からいうとGraduale Triplexのテキストに従えば訳a,旋律から感じられる区切りに従えば訳bとなる。

    •  まず「Graduale Triplexのテキストに従えば」というのはどういうことかというと,ここで "altissimi" が小文字書きになっているのがポイントとなる。Graduale Triplexでは,この語が「いと高き方」「至高者」というふうに神を表す名詞として用いられる場合,最初の一字が大文字で書かれるのである (例:拝領唱 “Narrabo” の最後)。そうなっていないということは,形容詞として現れているか,名詞として現れているにしても神ではなく「最も高いところ」などを表しているかだということである。今回は文脈上後者の可能性はないといってよいので,形容詞として現れていると考えることになる。形容詞ととるのであれば,ここでは直前の "Domini" を修飾しているというのが唯一可能な解釈となる (「いと高き主の」)。
       しかしカロリング期の諸聖歌書写本では大文字・小文字の区別はなく,以上はあくまで現代の聖歌書での話にすぎない。

    •  次に「旋律から感じられる区切り」についてだが,要するに "Domini" と "altissimi" とが一続きのものと感じられるか,それとも両者の間にむしろ一区切り入っていると感じられるかが問題となる。一続きならば "altissimi" が "Domini" に形容詞としてかかっていると解釈できる (絶対ではないものの,少なくともその可能性が残される) が,両者の間に区切りが入っているならばそれが否定されるといえるからである。
       さて旋律を見てみると,"Domini" はその最終音節 "ni" で相対的に低い音域に下っており,何より,遅い下行音型 (エピゼマつきのClivis) でこの語の歌唱が終えられていることから,次の語にすぐ向かってゆくというよりはここで一区切りつけているように感じられる。つまり,この "Domini" と次の "altissimi" とは一続きのものと捉えられていないように感じられる。というわけで,この旋律は "altissimi" が "Domini" にかかるという解釈の可能性を否定しているといえよう。となるとほかの解釈をすることになるが,ほかの解釈として可能なのは "altissimi" を「至高者の」という名詞と捉えるもののみである。

    •  なお,きちんと調べたわけではなく聖書に関して素人である者の個人的感覚にすぎないことをお断りしておくが,そもそもDominus (>Domini) という語に修飾語がついているのをあまり見かけないように思う (Deusについているのなら見かけるが) ので,この点からも "altissimi" は名詞として読むほうがよいように私は思う。

  


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