入祭唱 "Si iniquitates observaveris" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ94)

 GRADUALE ROMANUM (1974) / GRADUALE TRIPLEX pp. 350–351; GRADUALE NOVUM I pp. 262–263.
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【教会の典礼における使用機会】

【現行「通常形式」のローマ典礼 (1969年のアドヴェントから順次導入された) において】

 1972年版ORDO CANTUS MISSAE (GRADUALE ROMANUM [1974] / TRIPLEXはだいたいこれに従っている) では,年間第10主日 (B年のみ),年間第28週,「すべての亡くなった信者の記念」の日 (死者の日,万霊節。11月2日) に割り当てられている。「すべての亡くなった信者の記念」の日については,いくつもある選択肢のうちの一つである。また,教会暦関係なしに,死者の埋葬の日および諸々の追悼記念のミサで用いることができる入祭唱の一つともなっている。

 2002年版ミサ典書では,この入祭唱は年間第28主日 (※) のところにだけ載っている。

※  ORDO CANTUS MISSAEと異なり「第28週」でなく「第28主日」となっているが,ここでは,週日 (平日のうち,聖人の記念などを行わない日) を含まないという意味には必ずしも取らなくてよい。ほかの季節はともかく,「年間」の週日には入祭唱の定めがないので,基本的には主日のそれをそのまま用いればよいからである。つまり,「年間」に関する限り,この相違はあまり気にしなくてよい。

【20世紀後半の大改革以前のローマ典礼 (現在も「特別形式」典礼として有効) において】

 1962年版ミサ典書では,聖霊降臨後第22主日に割り当てられている。

 AMSにまとめられている8~9世紀の諸聖歌書でもこれは同じだが,Rheinau (ライナウ) の聖歌書のみなぜか「第23主日」と記している (聖霊降臨後第17 [18] 主日以降全部が1つずれている。その前は数週ぶん欠落している)。
 あと,「聖霊降臨後」の部分については聖歌書によって何とも書いていなかったり「聖霊降臨の八日間後」と書いていたりといったゆれがあり,特に後者については「聖霊降臨後」と「聖霊降臨の八日間後」とでは普通に考えたら1週間ずれるはずなので大問題のようにも思えるが,たぶんこれは,聖霊降臨の八日間が実際には7日間しかない (土曜日で終わる) ので結局同じことになる,ということではないかと思う。
 

【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】

Si iniquitates observaveris Domine, Domine quis sustinebit? quia apud te propitiatio est, Deus Israel.
Ps. De profundis clamavi ad te, Domine: Domine, exaudi vocem meam.
【アンティフォナ】もしあなたが曲がったことどもを注意深くごらんになるなら,しゅよ――主よ,誰が持ちこたえることでしょうか。そうです,あなたのもとには贖罪があるのです,イスラエルの神よ。
【詩篇唱】(底なしに) 深いところから (※) 私はあなたに向かって叫んだのです,主よ。主よ,私の声をよくお聴きください。

※  これはいわば試験的な訳である。演奏会などでこの訳文をお使いくださる場合,ここは無難に一般的な訳「深い淵から」(括弧内の「底なしに」もなしで) を採用なさることをお勧めする。

 アンティフォナの出典は詩篇第129篇 (ヘブライ語聖書では第130篇) 第3節と第4節のはじめ3分の1である。テキストは最後の "Deus Israel (イスラエルの神よ)" 以外はローマ詩篇書に一致している。Vulgata=ガリア詩篇書では,"observaveris" (接続法・完了時制あるいは直説法・未来完了時制) が "observabis" (直説法・未来時制) となっている。(「Vulgata=ガリア詩篇書」「ローマ詩篇書」とは何であるかについてはこちら。)
 最後の呼びかけ "Deus Israel" は明らかに付け加えられた要素であり,この詩篇のほかの部分にもこのままの形では出てこない。ただし終わりのほうで,「イスラエル」(神の民) が「主」に希望をかけるべきこと (第6節),「主」が「イスラエル」をあらゆる不正から解放してくださるであろうこと (第8節) が述べられているので,これを踏まえた表現だと考えることはできる。
 なお,AMSにまとめられている8~9世紀の諸聖歌書では,ここは "Deus Israel" ではなく "Deus noster (われらの神よ)" あるいは "Domine Deus noster (主よ,われらの神よ)" と書かれている。GRADUALE TRIPLEXやNOVUMの底本の一つであるLaon 239 (9~10世紀) でも "Deus noster" である。この入祭唱において「イスラエルの神よ」という言葉で本当に言いたいことが何であるか,示してくれているようでもある。
 ところでこのLaon 239でも,Einsiedeln 121でも,またAMSにまとめられている聖歌書のうち3つでも "observaveris" (接続法・能動態・完了時制あるいは直説法・能動態・未来完了時制) が "observaberis" (直説法・受動態・未来時制) となっているが,受動態ではありえないところなので,単なる誤りというしかなさそうである。

 詩篇唱にとられているのも第129篇 (ヘブライ語聖書では第130篇) であり,ここに掲げられているのはその第1節と第2節前半である。テキストはVulgata=ガリア詩篇書に一致している。ローマ詩篇書では,"vocem (声を)" が "orationem (祈りを)" となっている。これは同じギリシャ語聖書テキストを別々に訳した結果ではなく,ギリシャ語の段階で既に生じていた違いらしい (参考:Septuaginta Deutschの註,p. 883)。
 

【対訳・逐語訳 (アンティフォナ)】

Si iniquitates observaveris Domine,

もし曲がったことどもをあなたが注意深くごらんになるなら,しゅよ,

si もし~なら (英:if)
iniquitates まっすぐでないことども,不正,悪
observaveris
観察する,~に気をつける,注意を向ける,見る (動詞observo, observareの接続法・能動態・完了時制・2人称・単数の形,あるいは直説法・能動態・未来完了時制・2人称・単数の形) ……どちらととっても意味はあまり変わらない。
Domine
しゅ

Domine quis sustinebit?

主よ,誰が持ちこたえることでしょうか。

Domine 主よ
quis
誰が~か (疑問代名詞,男女性・単数・主格)
sustinebit?
持ちこたえるだろう,耐えるだろう (動詞sustineo, sustinereの直説法・能動態・未来時制・3人称・単数の形)

  •  従属節と主節とに分かれているとはいえ,"Domine (主よ)" という呼びかけが連続で現れているのはやや奇妙にも感じられる。
     実はヘブライ語ではこの2つは違う語になっており,第1の「主よ」は神の名を表す神聖四文字 (YHWH) の短縮形 (YH,ヤーハ),第2の「主よ」は文字通り「アドーナイ」(訳すと「私の主人よ」) となっている (聖書協会共同訳はこれに基づき,第2の「主よ」を「わが主よ」と訳している)。神聖四文字は神の名を口にすることを憚って「アドーナイ」と読み替えられ,それに基づき昔からこれは「主」(羅:Dominus) と訳されてきたわけだが,この短縮形にもそれが適用された形である。

quia apud te propitiatio est, Deus Israel.

そうです,あなたのもとには贖罪があるのです,イスラエルの神よ。

quia (下の解説を参照)
apud te
あなたのもとに (apud:~のもとに,~の近くに,~の領域に,te:あなた [対格])
propitiatio 和解が,なだめが,贖罪が,罪滅ぼしが,償いが,恵み (恩赦・減刑) が,好意が ……ヘブライ語では「赦しが」。
est
ある (動詞sum, esseの直説法・能動態・現在時制・3人称・単数の形)
Deus Israel
イスラエルの神よ (Deus:神よ,Israel:イスラエルの) …… "Israel" は格変化しない。

  •  "quia" は通常「なぜなら~から」(英:because) という意味で,教会ラテン語だとほかに「~ということ」(英:接続詞としてのthat) という意味でも用いられるが,ここの文脈にはどちらも合わない。
     ヘブライ語にさかのぼってみると,ここには כִּי (ki) という語があり,これは理由を示す接続詞としての働きもするが,「そう」「じつに」といった意味でも用いられるものである。ここでは後者の意味に取るべきところ,ギリシャ語訳 (少なくとも七十人訳において) の際に前者の意味である ὅτι としてしまい,それを愚直に訳したラテン語聖書テキストでも "quia" となってしまった,というのがここで起きていることだと考えられる。
     というわけで,本来はあくまでラテン語自体の意味から逸れないように読むべきだとは承知しつつ,ここは例外的にヘブライ語に寄せた解釈をしたいと思う。「そうです,あなたのもとには贖罪があるのです」。
     とはいえ,「そうです」としてもやはり前の文とのつながりは分かりづらいかもしれない。これは,「もし曲がったことどもをあなたが注意深くごらんになるなら,誰が持ちこたえることがありましょうか」の後に「しかし,実際には人間は持ちこたえています (滅びずにすんでいます)」という暗黙の一文があると考えればよい。
     この暗黙の一文を補って考えると,結局は "quia" を原則通りに理由を示す接続詞だと解釈することもできてしまいそうである。「しかし,実際には人間は持ちこたえています (滅びずにすんでいます)。なぜなら,あなたのもとに贖罪があるからなのです」。しかしこれはあくまでこの暗黙の一文を明示した場合であり,実際に訳す際にはこの一文は書かないわけだが,するとやはり「なぜなら」ではおかしくなる。「そうです」ならば,この一文なしでもそれなりにつながる。

  •  逐語訳でさまざまに訳した "propitiatio" について,アウグスティヌスは次のように述べ,つまりイエス・キリストによる贖罪のことだと言っている (次の訳文では「罪滅ぼし」と訳されている)。

そしてこの罪滅ぼしとは,犠牲 (sacrificium) でなければ何か。また犠牲とはわたしたちのために差し出されたものでなければ何か。無垢の血が流されて罪ある人々の全ての罪を消し去った――かくも大きな身代金が与えられて,捕えている敵の手からすべての捕囚たちを贖ったのである。それゆえ,「あなたのもとに罪滅ぼしがある」。

『アウグスティヌス著作集』第20巻II (詩編注解6),教文館,2023年,pp. 125–126 [河野一典訳] 


【対訳・逐語訳 (詩篇唱)】

De profundis clamavi ad te, Domine:

(底なしに) 深いところから私はあなたに向かって叫びました,しゅよ。
別訳 (一般的な訳):深い淵から (……)

de profundis 深いところから,底なしのところから,深淵から (profundis:深いところ,底なしのところ,深淵 [複数・奪格の形])
clamavi
私が叫んだ (動詞clamo, clamareの直説法・能動態・完了時制・1人称・単数の形)
ad te
あなたへ,あなたに向かって (ad:英 "to",te:あなた [対格])
Domine
しゅ

  •   「深いところ」にあたるヘブライ語מַּעֲמַקִּיםは,Geseniusによれば,ここ以外ではイザヤ書第51章第10節,エゼキエル書第27章第34節,詩篇第69篇 (ギリシャ語聖書では第68篇) 第3節,同篇第15節にのみ現れるが,これらの箇所では「大水」「海」「泥沼」という語とともに出ており,つまりいずれも水に呑まれて助けを求めている状況となっている。
     今回問題となる詩篇第129 (130) 篇第1節にはそのような語はないが,ここが日本語聖書で伝統的に「深い淵から (深き淵より)」と訳されてきたのは,そのような連想によることなのかもしれない。詩篇研究の大家Erich Zengerもこの箇所について "ein Schrei aus den tödlichen Wassern (死の危険があるような水の中からの叫び)" という言葉を用いている (Erich Zenger, Psalmen. Auslegungen in zwei Bänden, Band I, Freiburg i. Br. 2011, p. 393) ので,これが単に深いところというだけでなく水中の深いところを意味するというのは広く共有されている認識なのかもしれない。

  •  このヘブライ語מַּעֲמַקִּיםは複数形である (聖書には複数形でしか現れていない)。ギリシャ語やラテン語の聖書でここが複数形になっているのは単にこのためだろう。

Domine, exaudi vocem meam.

しゅよ,私の声をよくお聴きください。

Domine 主よ
exaudi
よく聴いてください,聞き入れてください (動詞exaudio, exaudireの命令法・能動態・現在時制・2人称・単数の形)
vocem meam
私の声を (vocem:声を,meam:私の)

  •  ここでも (2文にまたがっているとはいえ) "Domine" が連続して現れているが,ヘブライ語聖書を見ると,上で述べたのと同じようなことになっている。こちらでは,神の名は短縮形でなくしっかりと神聖四文字で記されている (それゆえ,ヘブライ語聖書を発音する際には「アドーナイ」が連続することになる)。

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