聖母マリアへのアンティフォナ "Ave Regina caelorum" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ124)

 Antiphonale Monasticum I (2005), pp. 474–475; 同II (2006), pp. 12–13; 同III (2007), pp. 486–487 (どの巻でも同じ).
 
Antiphonale Monasticum (1934), pp. 175, 179.
 Liber Usualis, pp. 274–275, 278.
 gregorien.info内のこの聖歌のページ (テキストは若干異なっている)
 ”Antiphonale Synopticum” 内のこの聖歌のページ:荘厳調単純調

 "Ave Regina coelorum" と綴られることもあるかもしれない。
 


更新履歴

2025年2月20日 (日本時間21日)

  •  このアンティフォナを含む現存最古の史料に言及している箇所に,同史料をオンラインで閲覧できるWebページへのリンクを追加した。

2025年2月19日 (日本時間20日)

  •  投稿
     

【教会の典礼における使用機会】

 トリエント体制 (聖務日課に関しては1568年からの約400年間) において4つ,現在では6つ正式に採用されている「聖母マリア (へ) のアンティフォナ (Antiphonae mariales)」の一つであり,おもに終課 (Completorium,寝る前の祈り。一日の最後の聖務日課) の最後に歌われる。
 どの季節に歌われるかだが,トリエント体制においては,今回の "Ave Regina caelorum" は2月2日の終課から聖週間の水曜日の終課まで用いられることになっていた。現在ではこの定めはなくなり,復活節 ("Regina caeli" を用いることになっている) 以外であればいつ用いてもよいのだが,今でもだいたい同じ時期,つまり四旬節を中心とする時期に歌うことにしている人々 (修道院など) が多いのではないかと思う。

 "Ave Regina caelorum" を含む現存最古の史料 (サン゠モール゠デ゠フォッセSaint-Maur-des-Fossésの12世紀のアンティフォナリウム) では,このアンティフォナは聖母被昇天 (マリアの天への受け入れ) の祝日 (8月15日) の九時課に置かれている (Cf. Wolfgang Bretschneider, "Marianische Antiphonen", in: Lexikon für Theologie und Kirche [LThK], 3rd ed. [1993–2001], Vol. 6, 1357–1359)。最後のほうに "vale (さようなら,お元気で,ごきげんよう)" という語が現れるのはそのためだと考えられる (Cf. H. Lausberg, "Ave Regina caelorum", in: Lexikon für Theologie und Kirche [LThK], 2nd ed. [1957–1968], Vol. 1, 1143)
 

【テキスト,全体訳,元テキストとの比較など】

Ave, Regina caelorum,
ave, Domina Angelorum,
salve, radix, salve, porta,
ex qua mundo lux est orta.
Gaude, Virgo gloriosa,
super omnes speciosa;
vale, o valde decora,
et pro nobis Christum exora.
御挨拶申し上げます,天の元后よ,
御挨拶申し上げます,天使たちの女主人よ,
万歳,根よ,万歳,門よ,
そこから世界に光が現れたところの (根にして門よ)。
お喜びください,栄誉あるおとめよ,
誰にもまさって見目麗しい方よ。
さようなら,おお非常に優美な方,
私どものためキリストに嘆願してくださいね。

 アンティフォナというのはたいてい散文なのだが,これは韻文であり,2行ごとに脚韻を踏んでいる。また,この2行それぞれの冒頭の語 (Ave, salve, Gaude, vale) がすべてギリシャ語 "χαῖρε (こんにちは/喜べ/さようなら)" の訳語となっている (参考:LThK第2版の "Ave Regina caelorum" の項。上掲)。
 このように言葉遊び的な要素を含んでいるのが,このアンティフォナの一つの大きな特徴である。
 

【対訳・逐語訳】

"ave" と "salve" について

 各行の訳に入る前に,2回ずつ現れるあいさつの語 "ave" と "salve" とがどう異なるのか,あるいはあまり異ならないのかを考える。

 これらの語のもともとの意味はともかくとして,あいさつとして用いる場合の意味の違いは手元の辞書では分からなかった。そこでChatGPTに訊いてみたところ,”ave” のほうが格式張っており “salve” は日常的だという回答が返ってきた。インターネット上のいくつかのQ&Aコーナー (このページなど) を見ても同様で,皇帝などの貴人に呼びかけるときは "ave" だ,というコメントも見た。

 これは一般的傾向 (と言われているもの) として一応頭に入れておくとして,問題はラテン語聖書においてもそうなのかどうかだが,結論からいうと,少なくともVulgataにおいては必ずしもそうではないように見受けられる。

 FischerのVulgataコンコルダンスによると,”ave” ないし “avete” (相手が複数人のときに用いられる) が出てくるのは次の箇所である。なおこの語は "have", "havete" とも綴られ,Fischerが依拠しているドイツ聖書協会1975年第2版のVulgataでは基本的にそちらの綴りになっている (なお現時点での最新版である2007年第5版でも同様) ため,コンコルダンスにもhのついた綴りで載っている。分かりにくいかと思うので,以下の一覧ではこのhを括弧に入れることにする。

  1.  マタイ26:49 (一部の写本ではマルコ14:45も) “(h)ave rabbi"「ave,先生」……裏切るときのユダからイエスへのあいさつ。「こんばんは」。

  2.  マタイ27:29,マルコ15:18,ヨハネ19:3 “(h)ave rex Iudaeorum"「ave,ユダヤ人の王よ」……ピラトの官邸でイエスを侮辱して兵士らが言った言葉。「御挨拶申し上げます」「ご機嫌よろしゅう」。

  3.  マタイ28:9 “Et ecce Jesus occurrit illis, dicens: (h)avete"「すると見よ,イエスが彼女たちと出会い, 『avete』とおっしゃった」……復活の朝。「おはよう」。

  4.  ルカ1:28 “(h)ave gratia plena"「ave,恩寵に満ちた方」……受胎告知のときの大天使ガブリエルからマリアへの最初の言葉。「御挨拶いたします」「お喜びください」。

  5.  2ヨハネ10–11 “nolite recipere eum in domum nec (h)ave ei dixeritis | qui enim dicit illi (h)ave communicat operibus illius malignis"「その人を家に迎えてはなりませんし,aveを言ってもいけません。その人にaveを言う者は,その悪いわざくみすることになるからです」……「あいさつの言葉」。

 原語はすべて同じ動詞のさまざまな活用形 (命令法,不定法) である(χαῖρε, χαίρετε, χαίρειν)。一般的なあいさつとして用いられる語だが,文字通りには「喜べ」という意味である。
 1,2,4では目下から目上へのあいさつ,あるいは丁重・荘重なあいさつ (ふざけて殊更にそうしているものも含め) に "ave" が用いられているとみることが可能であるものの,3と5ではそうでもない。

 "salve" が現れるのは次の箇所である。

  1.  サムエル記下16:16 "locutus est ad eum salve rex salve rex"「彼は彼に言った, 『salve,王様,salve,王様』」…… "salve" の原語:יְחִ֥י (生きますように),七十人訳:Ζήτω (生きますように)。「万歳」。

  2.  同18:28 "clamans autem Achimaas dixit ad regem salve"「さてアヒマアツは叫んで王に言った, 『salve』」…… "salve" の原語:שָׁל֔וֹם (平安,シャローム),七十人訳:Εἰρήνη (平安)。「(あなたに) 平安がありますように」。

  3.  同20:9 "dixit itaque Ioab ad Amasa(m) salve mi frater"「そしてヨアブはアマサに言った, 『salve,わが兄弟よ』…… "salve" の原語:הֲשָׁל֥וֹם (平安か),七十人訳:Εἰ ὑγιαίνεις […]; (あなたは元気か)。「元気か」。

 1と2から,貴人に対するあいさつでも "salve" が用いられうることが分かる。また,3例共通で,文字通りには相手が健やかであることを願う (あるいは,健やかかどうか尋ねる) 言葉となっている。

 ほかに,写本によってはユダの手紙第23節にも "salvete" が現れるが,文脈からしてこれはたぶん "salvate" なので (実際,ドイツ聖書協会版のVulgata本文にはこちらが採られている) 無視してよいと思われる。

 Vulgataにおける "ave" と "salve" との差異について,以上からいえそうなのは次のことである。

  •  "ave" を "salve" より丁重・荘重なものと捉える必要は特にない。

  •  なるべくはっきり訳し分けるとしたら,"ave" を一般的な挨拶として訳し,"salve" は "Long live the Queen!" 的な意味で「万歳」と訳すのもよいかもしれない。 

Ave, Regina caelorum,

御挨拶申し上げます,天の元后よ,

ave 御挨拶します ……動詞(h)aveo, (h)avereの命令法・能動態・現在時制・2人称・単数の形,と言いたいところなのだが,どうもこれは後づけらしい。ポエニ語 "ḥawe (生きよ)" から来ているとも。とにかく,この "ave" という形は動詞aveo, avereのほかの用法より早くから現れているらしい (権威のない情報源で読んだ話だが)。語源にご興味のある方はWiktionaryなどをごらんいただきたい。あと,私はこの通りこの件についてはあまりきちんと調べなかったので,以上書いたことはあまり信用しすぎないでいただきたい。
Regina caelorum 天の元后よ (Regina:元后よ,女王よ,caelorum:天の [複数形])

ave, Domina Angelorum,

御挨拶申し上げます,天使たちの女主人よ,

ave (同上)
Domina Angelorum 天使たちの女主人よ (Domina:女主人よ,Angelorum:天使たちの)

salve, radix, salve, porta,

訳1:万歳,根よ,万歳,門よ,
訳2:御挨拶いたします,根よ,御挨拶いたします,門よ,

salve 御挨拶します,健康であれ (動詞salveo, salvereの命令法・能動態・現在時制・2人称・単数の形)
radix 根よ
salve (同上)
porta 門よ

ex qua mundo lux est orta.

訳1:そこから世界に光が現れ出たところの (根にして門よ)。
訳2:
そこから世界に光が現れ出たところの (門よ)。

ex qua (英:from which, from whom) (ex:~から,qua:[関係代名詞,女性・単数・奪格]) ……どの語を受けているかは下で考察する。
mundo 世界に
lux 光が
est orta 立ち上がった,現れた,発生した,産まれた,始まった (動詞orior, oririの直説法・受動態の顔をした能動態・完了時制・3人称・女性・単数の形)

  •  女性・単数の名詞を受ける関係詞節。単純に考えると直前の “porta” を受けているということになりそうだが (訳2),意味の上から,その前の “radix” をも受けていると考える (訳1) ほうがよいのではないだろうか (なお形の上でも,”porta” だけでなく “radix” も女性・単数の名詞である)。
     意味の上からというのはどういうことかというと,これは “radix” のほうの都合である。つまり,ただ「根よ (radix)」と呼びかけているとしたらこれでは漠然としすぎており, 「そこから世界に光が現れ出たところの」という限定がついて初めて聖母に対する呼びかけとして意味を成すのではないかと思うため,この関係詞節を “radix” にもかけて考えるのがよいと思うのである。

Gaude, Virgo gloriosa, super omnes speciosa;

訳1:お喜びください,栄誉あるおとめよ,誰にもまさって見目麗しい方よ。
訳2:お喜びください,栄誉ある,誰にもまさって見目麗しいおとめよ。

gaude (内面的に) 喜べ (動詞gaudeo, gaudereの命令法・能動態・現在時制・2人称・単数の形)
Virgo gloriosa 栄誉ある処女よ (Virgo: 処女よ,gloriosa:栄誉ある)
super omnes すべての人にまさって,すべての女にまさって (super:~以上に,~を超えて,omnes:すべての人 [複数・対格])
……直後の “speciosa” にかかる。
…… “omnes” は男性形または女性形。男性形ととればこの文脈では「すべての人」を,女性形ととれば「すべての女」を表し,いずれにせよ人間を表している。もし「すべてのもの」であれば中性形 (omnia) になるので,この可能性は除外される。
speciosa 見た目がよい (方よ),見るに快い (方よ),華麗な (方よ),美しい (方よ) ……前の “Virgo” にかかっている (つまり “gloriosa” と並列関係にある) とも,名詞的に用いられている (「~方よ」) とも考えられる。

vale, o valde decora, 

さようなら,おお非常に優美な方よ,

vale お元気で,ごきげんよう,さようなら (動詞valeo, valereの命令法・能動態・現在時制・2人称・単数の形) ……上述の通り,もともと聖母被昇天の祝日に歌われていたことによる。なお,3つ挙げた訳語のうち,この語本来の意味に最も近いのは「お元気で」である。
o おお (間投詞)
valde 強烈に,大いに,著しく ……次の “decora” にかかる。
decora 上品な女よ,優雅な女よ,美しい女よ ……形容詞 (女性・単数・呼格の形) が名詞的に用いられている。

et pro nobis Christum exora.

私どものためキリストに嘆願してください。

et (英:and)
pro nobis われわれのために (pro:~のために,nobis:われわれ [奪格])
Christum キリストに (対格) ……ドイツ語でもそうだが, 「頼む」「祈る」という意味の動詞は与格目的語ではなく対格目的語をとる。
exora 嘆願してください,願って相手の心を動かしてください (動詞exoro, exorareの命令法・能動態・現在時制・2人称・単数の形)

  •  別れの挨拶の後に言っているあたり, 「くれぐれもよろしく」という感じを個人的には受ける (全体訳で「嘆願してください」としたのはそのため)。

 

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