昇階唱 "Priusquam te formarem in utero" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ83)

 GRADUALE ROMANUM (1974) / GRADUALE TRIPLEX p. 571; GRADUALE NOVUM II p. 261.
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 GRADUALE NOVUMでは最初の語 "Priusquam" を 2語に分けて書いている (後述) ので,冒頭部分は "Prius quam te formarem in utero" となる。
 

【教会の典礼における使用機会】

 昔も今も,洗礼者聖ヨハネの誕生の祭日/1級祝日 (6月24日) に歌われる。
 
gregorien.infoを見る限り,現行「通常形式」のローマ典礼 (1969年のアドヴェントから順次導入された) および8~9世紀の聖歌書では,これがこの昇階唱の唯一の使用機会らしい。1962年版ミサ典書 (現在,20世紀後半の典礼大改革より前の伝統的なミサを行うときに用いられる典礼書) でほかにも使用機会があるかどうかは,まだ調べていない。
 

【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】

Priusquam te formarem in utero, novi te: et antequam exires de ventre,
sanctificavi te.
℣. Misit Dominus manum suam, et tetigit os meum, et dixit mihi.
【レスポンスム】あなたを胎内で形作る前から,私はあなたを知っており,あなたが (母親の) 腹から出てくる前に,私はあなたを聖なる者としておいた。
【独唱句 (※)】しゅをお伸ばしになり,私の口にお触れになり,私におっしゃった。

※「独唱句」という訳語が適切かどうか,適切だとしても一般に用いられているものかどうか,私にはよく分からないということを断っておく。

 GRADUALE NOVUMは,レスポンスムの "Priusquam" と "antequam" とをそれぞれ2語に分けて書いている ("Prius quam","ante quam")。前者については,これによりアクセントの位置が変わることになる (1語と見るならば "us" にアクセント,2語と見るならば "Pri" にアクセント)。ついているネウマからすると,"Pri" にアクセントがあると考えるほうが,つまり2語に分かれていると考えるほうが素直だと思われる ("Pri" はVirga + Pes,"us" はTractulus)。

 レスポンスムはエレミヤ書第1章第5節からの引用,独唱句は同書同章第9節からの引用である。レスポンスムは「しゅ」の言葉であるから,独唱句の「主は [……] 私におっしゃった」に続く言葉のように聞こえるし,実際そう聞かせようとしているのだろうが,これらの節番号からお分かりのように,もとのエレミヤ書ではそうではない。
 一般に,昇階唱では独唱句の後にレスポンスムを繰り返しても繰り返さなくてもよいのだが,今回は繰り返すよう指示がある。上記の通り,レスポンスムの言葉が独唱句の言葉に続くような内容になっているためだろう。
 なおいずれも,この祭日の前晩ミサ (改革前典礼では前日ミサ) の第1朗読として読まれる聖書箇所 (エレミヤ書第1章第4–10節) に含まれている

 テキストはVulgataのそれとだいたい一致している。レスポンスムでは, "ventre" がVulgataでは "vulva" となっているのが唯一の相違点である。この "vulva" という語は現代のヨーロッパ諸言語での意味とは異なり,「子宮」を意味するので,つまりほぼ同じことを言っているといってよい。独唱句では,最後の "et dixit mihi" がVulgataでは "dixit Dominus ad me" となっているが,"mihi" と "ad me" とはこの場合同じようなものだし,"Dominus" も繰り返しなので,やはり言っている内容は変わらない。

 エレミヤ書のはじめからの引用だということから察せられる通り,この「主」の言葉が向けられている相手は本来,預言者エレミヤであって洗礼者ヨハネではない。しかし,昔から両者は「生まれる前から聖なる者とされていた」という点で一度ならず関連づけられてきた。
 
例えば聖アタナシオス (アレクサンドリアのアタナシオス,アタナシウス) は『アリオス派 (アレイオス派,アリウス派) を駁する4つの演説』で,最初から聖なる者とされていた人々の例としてこの2人を並べて挙げている (第3演説第33節)。この部分はエフェソス公会議 (431年) の中で引用されたため,公会議議事録に入っている。アタナシオスの原文はギリシャ語だが,私の調べものの成り行き上,この議事録のラテン語版に行き当たったのでそこから訳すことにする (グレゴリオ聖歌の背景を考えるために読むのだからそれも悪くないと思う。なおもとのアタナシオスの著作の独訳英訳もインターネット上で読める。内容はほぼ同じ)。

Multi igitur sancti fuerunt et mundi ab omni peccato, Hieremias autem et de uentre sanctificatus est et Iohannes adhuc in utero portatus exultauit in laetitia in uoce dei genetricis Mariae.
つまり,多くの人々が聖なるものだったし,すべての罪から清められていたのである。エレミヤは (母親の) 腹にあるときにもうきよめられていたし,ヨハネは胎内にあって運ばれているとき既に,神をお産みになった方マリアの御声に喜んで躍り上がったのだ。

Schwartz, Eduard [ed.], Concilivm vniversale Ephesenvm. Volvmen altervm: Collectio Veronensis, Berlin and Leipzig 1925–1926, p. 54. https://doi.org/10.1515/9783110824384

 マリアのあいさつを聞いたエリサベト (ヨハネの母) は聖霊に満たされ (ルカによる福音書第1章第41節),このときヨハネも聖霊に満たされたとされる (ただし福音書を読む限りでは,ヨハネが胎内で躍り上がった→エリサベトが聖霊に満たされた,という順になっているので,もしかするとヨハネが先に聖霊に満たされていた? まあどちらでもよいが)。いずれにせよ,彼が母親の胎にあるときから聖霊に満たされた者となるというのは,大天使ガブリエルがあらかじめ告げていたことである (同書同章第15節)。聖人の祝日・記念日は原則として命日 (「天への誕生」を祝うという考え方に基づく) なのに,洗礼者ヨハネにおいては例外的に地上における誕生も祝われる理由の一つがここにある (なお,同じ理由で聖母マリアにも,地上における誕生を祝う祝日がある)。
 

【対訳】

【レスポンスム】

Priusquam te formarem in utero, novi te:
私があなたを (母親の) 胎の中で形作る前から,私はあなたを知っている。
別訳:
私があなたを (母親の) 胎の中で形作る前に, 私はあなたを見分けていた (認識していた)。

  •  この完了時制の動詞 "novi" は「知っている」という実質的に現在時制の意味のことも多い動詞であり,しかも,七十人訳ギリシャ語聖書を見るとここは実際に現在時制になっている (次の文は完了時制)。そういうわけで,どちらかというと「知っている」という訳を採るのがよいかと思う。

  •  とはいえ,この文は明らかに次の文と対になっており,ラテン語では時制も揃っているので,訳文の時制も揃えたくなる。この点を重視したのが別訳である。

et antequam exires de ventre, sanctificavi te.
そして,あなたが (母親の) 腹から出てくる前に,私はあなたを聖なる者としておいた。

  •  上述の通り,この "sanctificavi" という完了時制の動詞は,七十人訳ギリシャ語聖書でも完了時制である。ギリシャ語の完了時制は,ある完了したできごとの結果が現在まで続いていることを示し,ラテン語の完了時制にもその用法がある。単に「聖なる者とした」でもよいのだが,「~しておいた」だとそのような意味がもう少しよく感じられる気がするのでこう訳すことにした。

【独唱句】

Misit Dominus manum suam,
主は御自分の手をお伸ばしになった,
直訳:
主は御自分の手をお送りに/お遣りになった,

et tetigit os meum,
そして私の口にお触れになった,

et dixit mihi.
そして私におっしゃった。
 

【逐語訳】

【レスポンスム】

priusquam / prius quam ~より前に (英:接続詞としてのbefore)

te あなたを

formarem 私が形作る,私が形作った (動詞formo, formareの接続法・能動態・未完了時制・1人称・単数の形)

  •  priusquamやantequamによる時を表す従属節 (英語でいうbefore節) 中の述語動詞は,古典ラテン語であれば特別なニュアンスがない限り直説法であり,接続法が用いられるのは,単なる時系列の提示にとどまらない何らかの特別なニュアンスを含む場合である。しかし,後の (正確にいつからかは調べていないが,遅くとも中世の) ラテン語では,特別なニュアンスがあろうがなかろうが関係なしに接続法がよく用いられるらしい (参考:國原,p. 104)。というわけで,ここに接続法が用いられている意味について深く考える必要はないと思われる。時制についても特に気にしなくてよい。

in utero 胎の中で,下腹部の中で (utero:下腹部,胎 [奪格])

novi 私が知っている,私が知るようになった,私が認識した (動詞nosco, noscereの直説法・能動態・完了時制・1人称・単数の形)

  •   「知るようになる,知覚する,認識する」という意味の動詞の完了時制で,「知っている」という現在の意味でもよく用いられる。

  •  七十人訳ギリシャ語聖書でこれにあたる語は現在時制になっている。

te あなたを

et (英:and)

antequam / ante quam ~より前に (英:接続詞としてのbefore)

  •  "priusquam" の同義語といってよい。

exires あなたが出てゆく,あなたが出ていった (動詞exeo, exireの接続法・能動態・未完了時制・2人称・単数の形)

  •  この述語動詞の法・時制については,上の "formarem" のところに書いたのと同じことがいえる。つまり特に何も考えなくてよい。

de ventre 腹から,胎から (ventre:腹,胎 [奪格])

sanctificavi 私が聖とした,私が聖なるものにした,私が聖別した (動詞sanctifico, sanctificareの直説法・能動態・完了時制・1人称・単数の形)

te あなたを

【独唱句】

misit 投げた,遣った,送った (動詞mitto, mittereの直説法・能動態・完了時制・3人称・単数の形)

Dominus しゅ

manum suam 自身の手を (manum:手を [単数],suam:自身の)

et  (英:and)

tetigit (彼が) 触れた (動詞tango, tangereの直説法・能動態・完了時制・3人称・単数の形)

os meum 私の口を (os:口を,meum:私の)

et (英:and)

dixit (彼が) 言った (動詞dico, dicereの直説法・能動態・完了時制・3人称・単数の形)

mihi 私に

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