入祭唱 "Intret oratio mea" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ2)
Graduale Romanum (1974) / Graduale Triplex, p. 363 (これら2冊の内容は四線譜の上下のネウマの有無を除けば基本的に同じだが,本文中で言及するときは,煩雑を避けるため後者のみ記す); Graduale Novum I, pp. 351–352.
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更新履歴
些細な変更は記録しないこともある。
2024年11月6日 (日本時間7日)
対訳の部と逐語訳の部とを統合し,ついでに細かい修正も行なった。
2023年1月16日 (日本時間17日)
現在の方針に合わせて改訂を行なった (タイトルの変更,「教会の典礼における使用機会」および「テキスト,全体訳,元テキストとの比較」の部の新設など)。
詩篇唱に現れる高度な平行法の解説を加えた (対訳の部)。
"in conspectu tuo" を文字通りの意味 (「in + 奪格」の原則通りの意味) に取る可能性についての説明 (逐語訳の部にある) において言葉足らずだったと思われるところを補った。
あまりに細かい話になるのを (特に,それによってかえって誤解が生じかねないのを) 避けるため,一部の解説を削除した。
2018年11月14日
対訳の部に別訳を書き加えるなどした。
2018年11月5日 (日本時間6日)
投稿
【教会の典礼における使用機会】
【現行「通常形式」のローマ典礼 (1969年のアドヴェントから順次導入された) において】
1972年版Ordo Cantus Missae (Graduale Triplex/Novumはだいたいこれに従っている) では,今回の入祭唱は次の諸機会に割り当てられている (「四旬節」や「年間」とは何であるかについてはこちら)。
四旬節第2週 (=第2主日後) の土曜日
年間第32週
「すべての亡くなった信者の記念」の日 (死者の日,万霊節。11月2日) (ほかの選択肢あり)
葬儀ミサや死者記念 (追悼) ミサ (ほかの選択肢あり)
2002年版Missale Romanum (ローマ・ミサ典礼書) では,今回の入祭唱が割り当てられているのは年間第32主日のみである。「第32週」ではなく「第32主日」となっているが,こちらでは「年間」の時期については週日 (平日) の入祭唱の定めがないため,実際には週日にもこの入祭唱を用いて差し支えない。
【20世紀後半の大改革以前のローマ典礼 (現在も「特別形式」典礼として有効) において】
1962年版Missale Romanum (ローマ・ミサ典礼書) では,四旬節の「四季の斎日」の土曜日に今回の入祭唱が割り当てられている。日取りに関しては,これは四旬節第1週 (=第1主日後) の土曜日にあたる。
AMSにまとめられている8~9世紀の諸聖歌書でも同様である。
【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】
Intret oratio mea in conspectu tuo: inclina aurem tuam ad precem meam Domine.
Ps. Domine Deus salutis meae: in die clamavi, et nocte coram te.
【アンティフォナ】私の祈りが御目の届く範囲内に入ってゆきますように。私の祈願に御耳を傾けてください,主よ。
【詩篇唱】主よ,私の救いの神よ。昼も夜も私は御前で叫びました。
アンティフォナに用いられているのは詩篇第87篇 (ヘブライ語聖書では第88篇) 第3節である。
テキストはローマ詩篇書のそれに一致している。Vulgata=ガリア詩篇書 (ドイツ聖書協会2007年第5版) では最後の "Domine (主よ)" がなく,また "oratio mea" と "in conspectu tuo" との順序が逆になっている (文意は変わらない)。
(「ローマ詩篇書」「Vulgata=ガリア詩篇書」とは何であるかについてはこちら。)
詩篇唱に用いられているのも同じ詩篇であり,ここに掲げられているのはその第2節である。
テキストはローマ詩篇書に一致している。Vulgata=ガリア詩篇書では,"die" の前の "in" がない (文意は変わらない)。
【対訳・逐語訳 (アンティフォナ)】
Intret oratio mea in conspectu tuo:
訳1:私の祈りがあなたの目の届く範囲内に入ってゆきますように。
訳2:あなたが見ていらっしゃる前で,私の祈りが入ってゆきますように。
この文脈で (「in + 対格」でなく)「in + 奪格」が用いられているのは考えさせられる現象である。どういうことか以下述べてゆく。
ラテン語の前置詞 "in" は,次にくる名詞の格によって意味が変わる。
奪格であれば「~において」「~の中で」などと,単に位置を示す。つまり,この場合はこの点で英語の "in" と同じである。
しかし,対格の名詞が続く場合は, 「~ (の中) へ」と,向かってゆく方向を示す。英語でいう "into" である。今回はどちらなのかというと,奪格である。だから本来, 「あなたの目の前へ」という訳はおかしいことになり, 「あなたの目の前で」が正しいはずである。
しかしそうすると,上の "intret"「入ってゆきますように」が目標を失う。どこに入ってゆくのか分からないのである。そういうわけで是非とも「~へ」あるいは「~に」と訳したい (訳1)。実際,私が見たほかの複数の訳でもそうなっている。そして,幸いなことにどうやらそれでよろしい。Sleumerの教会ラテン語辞典の "in" の項によると,中世ラテン語には "in" のあとに奪格の名詞が来ていても「~へ」の意味になる例が古典ラテン語においてよりも多くあり,これは, 「その方向に向かう動きのあと,[目的の場所に] 静止する・とどまる状態が比較的長く続くことによって正当化される」のだそうである。
だから今回なら, 「あなたの目の前 (あなたの目の届く範囲,あなたが現存するところ)」に「私の祈り」がただ達するだけでなく,そこに長く留まることまでもが願われている,と考えてもよいのかもしれない。
しかし,あくまで「in + 奪格」の本来の用法だと考えて訳してみる (訳2) のも,個人的には面白いと思う。
この歌が入祭唱であることがポイントになる。入祭唱というのは本来,司式司祭をはじめとする人たちが列をなして聖堂に入ってくる最中に歌われる聖歌である。そして,カトリック教会の聖堂には,聖体 (聖変化済みのパン) という形でイエス・キリストが現存すると信じられている。つまり,聖堂の中を歩んでゆくというのは,イエス・キリストが見ている中を歩んでゆくということになる。
ここまで考えれば,この入祭唱アンティフォナを「あなたの現存のうちに (あなた=イエス・キリストが見ている中で)」私の祈りが (今からミサが行われるこの場に) 入ってゆきますように,という意味にとることも十分に可能だと思えてくる。むろん,もとの詩篇での文脈は無視した解釈ということになるが (そして,この入祭唱だけでなくもとのラテン語訳聖書でも「in + 奪格」になっていることの説明はこれではつかないが),もとが何であれこれはカトリック教会の典礼文となっているテキストであるから,このように考えてみるのも悪くないのではないかと思う。
inclina aurem tuam ad precem meam Domine.
私の祈願にあなたの耳を傾けてください,主よ。
【対訳・逐語訳 (詩篇唱)】
Domine Deus salutis meae:
訳1:主よ,私の救いの神よ。
訳2:私の救いの神である主よ。
ここは素直に訳1を採ればよいと思うが,ラテン語で同格の名詞AとBとが並べられているとき「AであるB」や「BであるA」という意味も表しうるので,訳2も可能である。
in die clamavi, et nocte coram te.
昼も夜も私はあなたの前で叫びました。
直訳:昼に私は叫びました,そして夜にあなたの前で。
旧約聖書の詩文における常套手段である「平行法」の高度な形である。
平行法とは,連続する2行が同じことを言っていたり,対になる内容を述べていたりなどするという技法である (例:「私の魂よ,主をたたえよ。// 私の内なるすべてのものよ,その聖なる名をたたえよ」。「私の魂」=「私の内なるすべてのもの」, 「主」=「その聖なる名」)。この技法を前提として読めば,対になる2行のうち片方において一部の要素が省略されていても,もう片方の内容によって補って読めることになる。
この文はそのいわば究極形のようなもので,本来「昼に私はあなたの前で叫びました,夜も私はあなたの前で叫びました」であるところ,重複要素である「あなたの前で」と「私は叫びました」とがそれぞれ片方の行にしか書かれていないというわけである。