入祭唱 "Misericordia Domini" (グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ74)
GRADUALE ROMANUM (1974) / GRADUALE TRIPLEX pp. 222–223; GRADUALE NOVUM I pp. 195–196.
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更新履歴
2023年4月28日 (日本時間29日)
「教会の典礼における使用機会」の部に加筆し,この入祭唱が用いられる「よい羊飼いの主日」が20世紀後半の典礼改革の際1週間後ろにずらされた理由を考察した。
冒頭の語にして最重要語である "Misericordia" の訳を改め,その理由・背景を逐語訳の部で詳しく述べた。
2023年4月11日
投稿
【教会の典礼における使用機会】
【現行「通常形式」のローマ典礼 (1969年のアドヴェントから順次導入) において】
1970年のOrdo Cantus Missae (GRADUALE ROMANUM [1974] / TRIPLEXおよびGRADUALE NOVUMはだいたいこれに従っている) では,復活節第4週に割り当てられている。ただし,GRADUALE ROMANUM (1974) / TRIPLEX / NOVUMでは,木曜日と金曜日にはそれぞれ別の入祭唱が指定されている。
2002年版ミサ典書でも復活節第4主日に割り当てられているが,続く週日は毎日異なる入祭唱を持っている。
【20世紀後半の大改革より前のローマ典礼 (現在も「特別形式」典礼として有効) において】
こちらでは,この入祭唱は1週間早いタイミングに,すなわち復活節第3主日 (とそれに続く週) に割り当てられている。これは少なくとも教皇グレゴリウス1世 (在位590–604) の時から1962年版ミサ典書に至るまで変わっていない。そして復活節第4主日 (とそれに続く週) には入祭唱として "Iubilate Deo" が割り当てられているが,これは改革後の典礼 (現行「通常形式」典礼) では復活節第3週に歌われるので,この2つの入祭唱は典礼改革の際に入れ替えられた形となっている。この入れ替えの目的と考えられることについては後述する。
なお,混乱を避けるため改革後典礼 (現行「通常形式」典礼) での呼び方を用いたが,改革以前の典礼書では復活節第3主日にあたる主日は「復活後第2主日」,復活節第4主日にあたる主日は「復活後第3主日」と呼ばれている。
【この主日のテーマ:「よい羊飼い」としてのイエス・キリスト】
タイミングがいずれであれ,この入祭唱が歌われる主日には明確なテーマがあり,それは「よい羊飼い (よき牧者)」としてのイエス・キリストである。
この「よい羊飼いの主日」のミサでは,ここに引用した箇所を含むヨハネ福音書第10章が朗読される (改革前の典礼ではまさにこの第11–16節が,改革後は3年周期で第1–10節,第11–18節,第27–30節が読まれる)。
【この主日が典礼改革の際1週間後に移された理由の考察】
このヨハネ福音書第10章で語っているイエスは復活後の彼ではなく,受難より前の彼である。ここに,典礼改革の際に「よい羊飼いの主日」が1週遅く移された理由があるのではないかと思う。
どういうことか。復活節といっても,ミサでの福音書朗読において,復活後のイエスが登場する箇所が読まれるのは初めのほうの日 (と聖霊降臨祭) だけであり,それは主日 (日曜日) の回数でいうと,改革前の典礼では (聖霊降臨祭を除いて) 2回分であるのに対し,改革後は3回分と1回増えている。改革前の典礼では復活節第3主日に「よい羊飼いの主日」がくるが,もし改革後の典礼でもそうしてしまうと,まだもう1回分復活後のイエスが登場する福音書朗読箇所が残っているので,主日の福音書朗読の内容が「復活後のイエス→復活後のイエス→よい羊飼いの話→復活後のイエス」となり,テーマが行ったり来たりになってしまうことになる。それで,「よい羊飼いの主日」を1つ後ろにずらすことで,復活後のイエスが登場する福音書朗読を最初の3つの主日にまとめることにしたのだろう,というわけである。
【テキスト,全体訳,元テキストとの比較】
Misericordia Domini plena est terra, alleluia: verbo Dei caeli firmati sunt, alleluia, alleluia.
Ps. Exsultate iusti in Domino: rectos decet collaudatio.
【アンティフォナ】主の (不変かつ徹底的な) 慈悲で地は満ちている,ハレルヤ。神の言葉によって天は確固たるものとされた,ハレルヤ,ハレルヤ。
【詩篇唱】義人たちよ,主にあって喜び躍れ。[主への] 讃美で満たすことはまっすぐな者たちにふさわしい。
アンティフォナは詩篇第32 (ヘブライ語聖書では第33) 篇第5節後半と第6節前半の引用であり,復活節ゆえに挿入されている "alleluia" を除けば,テキストはローマ詩篇書ともVulgata=ガリア詩篇書とも完全に一致している (「ローマ詩篇書」「Vulgata=ガリア詩篇書」とは何であるかについてはこちら)。
詩篇唱には同詩篇が採用されており,ここに引用されているのは第1節である。珍しくVulgata=ガリア詩篇書と異なるところがある。この詩篇唱では "collaudatio" となっているところ,Vulgataには "laudatio" とあるのである (いわゆる「アルクィン聖書」でもそうなっている)。ローマ詩篇書には "conlaudatio" とあり,これは音便が起こっていないだけで "collaudatio" と同じ。GRADUALE TRIPLEXやGRADUALE NOVUMの基礎となっている10世紀の聖歌書の一つ,Einsiedeln 121 (リンク先のページの2行目。"domino" の第2音節以降は母音のみ記されている) からも "collaudatio" あるいは "conlaudatio" という語が読み取れるので,これは時代が下ってから行われた変更ではないということになる。
そして,ここで単なる "laudatio" ではなく "collaudatio" の語が採用されていること,まさにそのことによって,この入祭唱の味わいはぐっと深いものになっているのである (後述)。
【対訳】
【アンティフォナ】
Misericordia Domini plena est terra, alleluia:
主の慈悲で地は満ちている,ハレルヤ。
より一般的であろう訳:主のあわれみで (……)
実験訳:主の不変かつ徹底的な (熱心な) 慈悲で (……)
主語は "terra (地が)"。最初の "Misericordia" は主格と同じ綴りをしているが奪格であり,地が「何で」満ちているのかを示している。
「慈悲」は仏教用語なので避けようと思っていたのだが,一般的な訳語「あわれみ」以上に合っていると感じるので,敢えて採用することにした。昔,キリシタンの世界では "misericordia" が実際に「慈悲」と訳されていたということも,一つの後押しになっている。
どちらの訳語を採るにせよ,この "Misericordia" には深い意味がこめられていると考えられ,そこまで含めて一語で表すことのできる日本語は,私には見つけることができなかった。格調など諸々を顧みずにこれを表すことを試みたのが「実験訳」だが,どのような意味で「不変」「徹底的 (熱心)」なのかについては逐語訳の部をお読みいただきたい。
verbo Dei caeli firmati sunt, alleluia, alleluia.
神の言葉で天は確固たるものにされた,ハレルヤ,ハレルヤ。
【詩篇唱】
Exsultate iusti in Domino:
喜び躍れ,義人たちよ,主にあって。
別訳:(……) 主の御前で。
rectos decet collaudatio.
讃美で満たすことはまっすぐな者たちにふさわしい。
別訳1:大いに讃美することは (……)
別訳2:ともに讃美することは (……)
前の文の言いかえ。
ここで3通りに訳したのは "collaudatio" という語である。"laudatio" であれば単なる「称讃」「称揚」といった意味だが,"col- (con-)" がつくことでこのようなニュアンスが加わる。
全体訳で採用した「讃美で満たすこと」はおそらく最も一般的でない訳だが,これはBlaiseのキリスト教ラテン語辞典の "collaudo" ("collaudatio" のもとである動詞) の項に「称讃でいっぱいにする (combler de louanges)」とあるのに基づくものである。これなら2つの別訳の意味いずれをも含みうると考えてこうしたのだが,それ以上に,こう訳すとアンティフォナの「主の慈悲で地は満ちている」というのに呼応して素敵だというのが大きい。
まあ,「満たす」というからには「何を」満たすのかを示す語がないと落ち着かず,ここにはそれがないという弱点はあるが,上述のことはこの弱点を補って余りあると個人的には思う。ギリシャ語 (七十人訳) やヘブライ語にさかのぼると,"collaudatio" にあたるところには「称讃」「讃歌」という意味の語がある。「讃歌」は「大いに/ともに讃美すること」や「讃美で満たすこと」に通じると思う。
【逐語訳】
【アンティフォナ】
misericordia 慈悲で,あわれみで,同情で,思いやりで,慈しみで,恵みで,変わらぬ愛で,徹底的な (熱心な) 愛で (奪格)
「慈しみで,恵みで,変わらぬ愛で,徹底的な (熱心な) 愛で」はヘブライ語 (חֶסֶד ヘセド) までさかのぼって考えた場合の訳である (特に「変わらぬ愛で」「徹底的な [熱心な] 愛で」は)。このヘブライ語に関して,銘形牧師による解説をお読みになることをお勧めする。
ヘブライ語までさかのぼらないと出てこない意味ならなるべく避けるのが私の方針だが,それでもこの「変わらぬ愛」「徹底的な (熱心な) 愛」という意味を捨てたくない理由がある。
前述の通り,この入祭唱が用いられるのは「よい羊飼いの主日」である。そして,この主日に伝統的に読まれてきた福音書箇所 (ヨハネ10:11–16,上掲) によれば,よい羊飼いとは自分の羊たちを (狼が来ると羊を置いて逃げ出す「雇い人」と違って) 決して見捨てず面倒を見る者だという。この態度はまさしく「変わらぬ愛」(銘形牧師のいう「契約における確固とした愛」) である。
しかもその面倒の見方たるや半端なものではなく,羊たちのためなら自分の生命さえも捨てるという。これは (極端に)「徹底的な (熱心な) 愛」である。なおこの「徹底的な (熱心な) 愛」という試訳は,「ヘセド」の語源が「鋭さ,熱心さ」だという説があると上記サイトに記されていることに基づいている。手元の辞書 (Gesenius) には「集めること,集中」という語源がある可能性が記されているが,これも「鋭さ,熱心さ」に通じると思う。研ぎ澄まされた槍の先や削りたての鉛筆の先のような,極度に一点に集中するイメージである。この集中的な愛,極めて熱心な愛は,滅びに向かう人間と世界,自分たちだけではどうしようもなくなっている人間と世界をかわいそうに思い,それを救うためならどんなことでもしてやりたいと思い,本当に自ら人間になり十字架にかけられて死ぬ道を選んだ神の行為に現れている。これが「よい羊飼い」のmisericordiaである。
以上から,ほかの機会ならともかく,「よい羊飼いの主日」にこれを歌うのであれば,この "misericordia" が「不変の愛」「徹底的な愛」をも意味すると解釈するのはほとんど義務に近いと考える。そのため,全体訳においても,あまりに解釈が入ったよくない訳文になることは承知の上で,「慈悲」の前に括弧書きで「不変かつ徹底的な」を加えることにした。
Domini 主の
直前の "misericordia" にかかる。
plena 満ちている (形容詞)
主語 "terra" に合わせて女性・単数形をとっている。
est ~である (動詞sum, esse [英語でいうbe動詞] の直説法・能動態・現在時制・3人称・単数の形)
terra 地が,地上が
alleluia ハレルヤ
verbo Dei 神の言葉で (verbo:言葉で [奪格],Dei:神の)
caeli 天が (複数形)
firmati sunt 強くされた,確かにされた (動詞firmo, firmareの直説法・受動態・完了時制・3人称・男性・複数の形)
alleluia, alleluia ハレルヤ,ハレルヤ
【詩篇唱】
exsultate 喜び躍れ,跳び上がれ (動詞exsulto, exsultareの命令法・能動態・現在時制・2人称・複数の形)
iusti 義人たちよ
名詞的に用いられている形容詞。
in Domino 主にあって,主において;主の前で
rectos まっすぐな者たちに (対格)
名詞的に用いられている形容詞。
「~に」なのに対格 (対格の基本的な意味は「~を」) なのは,これを目的語としている動詞 (次の "decet") がそういうものだから。
decet 合っている,ふさわしい (動詞deceo, decereの直説法・能動態・現在時制・3人称・単数の形)
collaudatio (大いなる) 讃美が,ともに讃美を捧げることが,讃美で満たすことが